[秋田大学] [理工学部] [土木環境工学コース] [環境構造工学分野]
[入試/編入] [院試]
(後藤資料) (正しい・間違い) (日本語表現法) (授業を英語で) [履歴]


良いプレゼンと悪いプレゼン(準備中)

土木環境工学コースfacebook
コロナ自粛中特別企画「飲み話」      図書館だより(p.6)      「授業を英語で」問題       ディベート       構造研       研究室紹介       Salome-Meca
土木環境工学コース
このページの作者: 後藤文彦
お知らせ

お知らせ: このページを編集し直したものが、 カットシステムから 出版されました (2008/12/25発売) (amazonはこちら)。 このページには、 クリエイティブ・コモンズ (表示-非営利-継承 2.1 日本) のライセンスを 適用していますが、 書籍版に関しては、 「著作[権]者から許可を得ると、これらの条件は適用されません」 の条件に基づいて、私の許可を得て営利目的で出版されたということです。 なお、書籍版にも 同じライセンスを適用しました。

Creative Commons License
このページのライセンスについて

目次

卒論発表対策最短コース: 良いプレゼンと悪いプレゼン 式や記号の書き方 グラフの書き方

  1. オンライン授業についての雑感(「スライド画面+説明音声」はわかりにくい)
  2. はじめに
  3. 良いプレゼンと悪いプレゼン
    (まずは、これを見て)
  4. 自分が理解している内容を自分の言葉で
    (原稿を書き言葉で読み上げるのはダメ)
  5. 「事実」と「意見」
  6. 話し言葉と書き言葉
  7. 最も見習ってはいけない悪い例の典型はNHKのニュース
  8. 「渡る世間は鬼ばかり」の会話が不自然な訳
  9. どんなに表情豊かでも書き言葉は所詮 書き言葉
    絵本の読み聞かせがわかりにくい訳
  10. 書き言葉の呪縛から自由になろう
  11. 「書き言葉で話す」?
    齋藤孝さんのテレビを見て
  12. 「正しい日本語」って何?
  13. そもそも「正しい」って何?
  14. どんな構成がいいか?
  15. 1分1枚
  16. 原稿は作らない
    (作るとしてもメモ程度)
  17. 20文字以上(2行以上)の文章は避ける
    (見せるのはキーワードとなる単語だけ。 発表する文章すべてをシートに書き込んで、それを読み上げるとかはダメ)
  18. やたらとアニメ機能を使わない
    (「喋る項目が順番にスライドイン」はかえって見にくい)
  19. プレゼンシートを発表原稿代わりにしてはダメ
  20. 耳で聞いてわかりにくい漢字熟語や略語は避ける
    (日常語やヤマト言葉に言い換える)
  21. なんでもかんでも文章で説明しようとしない
    (イラストや概念図を活用する)
  22. 式や記号の書き方
  23. グラフの書き方
  24. 色や文字飾りの使い方
  25. 文字だけのプレゼンシート
    高橋メソッド
  26. リンクを張る
  27. スライド方式以外のプレゼン
    巨大な1ページ方式
  28. 大きい声で
  29. 「ああー」「ええと」「まあ」は入れていい
  30. レーザーポインターよりは指し棒
    ポインターだとジェスチャーができない
    文字通り「指し示せる」指し棒がわかりやすい
    パソコン(やOHP)にはりついていてはダメ
  31. どこに立つか
    シート切り替え時に黙りこくってはダメ
  32. 配布資料はあった方がいいか
    スライドシートの集約印刷を配布する風習
  33. 質問の答えかた
  34. 質問のしかた
  35. 国際会議での発表の場合
  36. どんな服装がいいか
    もしかすると問題の本質?
  37. マニュアル敬語
  38. なぜ人は教条主義的になるのか
    目的と手段の取り違え
  39. まとめ
  40. このページ への意見など
  41. 注釈
  42. 参考文献(リンク)
  43. 書籍版に向けての「あとがき」(まだ草稿)
  44. このページのライセンスについて
目次先頭

オンライン授業についての雑感(「スライド画面+説明音声」はわかりにくい)

2020年6月頃: 新型コロナウイルスの影響で、 2020年の5月頃から全国の大学でオンライン授業が始まった。 私は、 ライブ型で「スライド画面+説明音声」というやり方に抵抗があり、 ウェブテキストと補足的にYouTube動画とを併用する方式を 試している (例えば、 構造力学I, 構造力学II, マトリクス構造解析)。 最終的に、学生のアンケート結果などを見ないと、 学生自身がどちらの方式がいいと思っているかはわからないが、 私が「スライド画面+説明音声」を避ける理由を書いておきたい。 プレゼンにおいては、 ジェスチャーや声の抑揚などの非言語的な情報伝達が、 非常に大きな役割を担っているが、 その中でも、 「話者が今、何を見ているか」という情報が 話者の体の向きや、頭の角度や視線の方向でプレゼンを見ている人に 伝わるかどうかでわかりやすさに大きな違いが出ると私は考えている。 テレビの天気予報などで、 お天気キャスターの顔を視聴者に向け続けることが大事という考えからなのか、 キャスターが天気図のディスプレイを見ずに、 カメラの方に顔を向けながら、天気図を指して説明することがある。 恐らく、 カメラ側にあるモニターに映る天気図で、今 自分がどこを指しているかを 確認しているのだろう。 こういう、喋っている人が見ているものと、 聞いている人が見ているものが一致しないプレゼンは、 なかなかわかりにくいと感じる。 視聴者に背中を向けて構わないので、 ちゃんと視聴者と同じ天気図のディスプレイを見て、 「あ、今この人は、ここを見ているんだ」という情報が伝わった方が、 見ている人はわかりやすいというのが私の考えだ。 聴衆に常に顔を向け続けるのがいいという考えに私は反対だ。 その意味では、「スライド画面+説明音声」の動画で、 脇の方に話者の顔が小さく表示されても、その人が今どこを見ているかという 情報は伝達されないので、わかりやすさにはあまり貢献しないと思う。 数年前に「反転授業」というのが流行ったときに、 「スライド画面+説明音声」の動画を見て、そういう感想を持って、いつか このことを書こうと思って そのままになっていたが、 今回のオンライン授業の騒動の中で、 「スライド画面+説明音声」が全国的に普及しているような感じなので、 一応 こういう意見もあるということを書いておこうと思う。 とはいえ、 全国で 「スライド画面+説明音声」のオンライン授業をやられている 先生方だって、好き好んでそのやり方をやっているわけではないことは、 重々承知している。 学生の限られた動画再生環境や限られた授業準備時間の中で、 やむなくそういう方法をやられているのだと思うし、 他の方法をやりたくてもできないということもあるだろう。 私自身、「ウェブテキスト+補足動画」の方がいいだろうと思いつつも、 その準備にはものすごく時間がかかってしまっていて、 自分自身で効率的なやり方ではないと思っている。 今は、本当に特殊な状況だ。 最善のやり方を目指すのは、なかなか難しいと思う。

ちなみに、板書というのは、「今なにを書いているのか」 「今なにを説明しようとしているのか」という情報が常に発信されているという意味では、 なかなか優れたプレゼンのインターフェースではないかと私は思っている (まあ、過去の私の授業動画を見ると、だらだらと回りくどい話を続けてたりする場合も多いが)。 今、 われわれ教員も各種の会議や説明会でZoomによる「スライド画面+説明音声」を 体験しているが、 文字や図だけの画面を凝視しながら、音声の説明を聞き続けるというのは、 なかなか集中力が続かずに疲れると感じる。 板書だと、人が何かを喋ったり、人が何かを書いている様は、 そういう光景として、ぼーっと眺め続けていてもそれほど疲れないような気がするが、 スライド画面というのは、文字や図ばっかりなので、 なかなか光景としては、ぼーっと眺め続けられないような気がする。 毎日、何コマもオンライン授業でスライド画面を眺めなくてはいけない学生たちは、 さぞ疲れているのではないかと思う。

目次先頭

はじめに

プレゼンというのは、 プレゼンテーション(要は、人前で発表すること) * の日本人的なカタカナ略語であるが、 大学で、学生の発表などを聞いていると、 単にしゃべるのが苦手だとかいう次元の問題ではなくて、 わざわざわかりにくい「悪い見本」のようなものを練習してまで 習得したような形跡を感じさせられることが多々ある。 「ああ、あのパターンか」と。 もちろん、私自身も学生時代は、そういう「悪い見本」を 「正統な」やり方だと習得しようとしていたこともあるので、 学生たちがあのパターンに適応してしまう理由は、 ある程度、想像できるし共感できる部分もある。 おそらく、小学校から始まる国語教育、毎日のテレビで聞かされる ニュース報道、お店の人が話すマニュアル敬語、などなど、 そういう様々なところから、 あのわかりにくい話し方が「正式」なんだと思わせるような バイアスがかけられつつ、我々は育ってきたんだと思う。 さいわい、私の大学院時代の指導教員の一人は、 堅苦しくないわかりやすい話し方をよしとする人だったので、 それに共鳴した私は、その基本思想を更に 独自に(曲解して)押し進め、あの「悪い見本」と 正反対に位置するわかりやすさに特化したパターンを ここでは「良い見本」として呈示し、普及させたいのである。

このプレゼンの手引きは、当初、私が担当していた 情報処理科目の授業資料を兼ねつつ、 私が担当していた卒論生の 卒論発表対策学会発表対策 のつもりで書き始めたものなので、 内容的には、やや内輪ネタに特化した部分もあるかと思うものの、 いつのまにか はてなブックマーク などから大量にリンクされるようになってしまった。 これを書き始めようと思った頃、 ウェブ上にある各種の プレゼンの手引きを眺めてみたところ、 私が書こうとしている「話し言葉によるわかりやすい発表」といった 初歩的なことを強調しているページは見当たらず、 どちらかというと そういう初歩的なことができた上での次の段階の話 (例えば起承転結といった構成の話とか)が多く、 どうも対象レベルと要求レベルがやや高いように感じた。 という訳で、 そういうやや要求レベルの高い話を読みたい人には、 こちらのリンク先を参照することをお薦めしておくとして、 ここでは、 私が当初の読者に想定していたような読者 (つまり、私が担当している卒論生とかと様々な意味で近い人たち)を 「みなさん」と 想定した上で、 (私がプレゼンの基本中の基本以前と考える) 「話し言葉」のわかりやすさに重点を置いたプレゼンの手引きを 書いてみる。 勿論、プレゼンには、他にも留意すべき点がたくさんあるだろうが、 それについては、 こちらのリンク先を参照してほしい (私も可能な範囲で少しずつ加筆していきたい)。

良いプレゼンと悪いプレゼン

以下に示す発表例は、 (専門知識がなくてもわかりやすい内容ということで) 私が中学1年の夏休みの自由研究として 実際に行ったミミズの再生実験をネタとしている (記憶に頼っているので多少の脚色もある)。 「研究の目的」の体裁を取る上で、 「尻尾側も再生するかどうかはよくわかっていない」 なんて書いてはいるが、 こんなことは、科学的には既に調査済みのことである(念のため)。 尚、以下の私の中学1年時の自由研究の内容には 科学的な間違いも含んでいるかも知れない (私はミミズも生物も専門ではないので、念のため)。 ちなみに、 ヒメミミズという種類のミミズなら尻尾側も再生するようだ。

緑に光る体液を出す「ホタルミミズ」が、秋田市の秋田大学手形キャンパス内で見つかった

なお、以下のプレゼンシート(つまり、 プレゼンの際にプロジェクターで映す画面)は、 一般的に使われる スライド式に1枚ずつ見せる形式のものを想定している。 こういうふうにスライド式に1枚 見せて、また次の1枚を見せてという 発表の形式は、OHPやそれこそ本当のスライドでプレゼンしていた時代の 名残なのだと思う。 今の時代は、パソコンのツールで何でもできるから、 例えば、ブラウザーみたいに縦にスクロールしながら画面を少しずつずらして 見せてもいいし、 マウスを使って縦横斜めの好きな方向に画面を ずらしながら見せるということだってできなくはない (巨大な1ページのpdfファイルとかを作っておけば)。 しかし、ここでは、そういうツールの使い方(の可能性)にまでは踏み込まないで、 一般的なスライド方式の使い方に限定して話を進める。 スライド方式にとらわれない見せ方については、 私も現在 試行中である。

 尚、以下の「良いプレゼン」例の方は、 私が普段 使っている LaTeX で作成して pdf 化したもの (mimizu.pdf)を使っている。 「悪いプレゼン」例の方は、 「それらしさ」を出すために、わざと パワーポイント で作ってみた。 というか、私はパワーポイントを (正規の目的では)使ったことがないので、 情報処理の授業で少しは教えられるようになってた方がいい関係上 、 初めてパワーポイントで作成してみた。 「悪い例」なので、スライドインなどの機能も わざとらしく使ってみた (mimizup.ppt. 私はウェブ上で閲覧してもらう 目的で、ワードだのパワーポイントのファイルをそのまま置くのって、 なかなか迷惑だと思っているので、 演出効果としてわざとパワーポイント形式のまま置く。 これをクリックすると、 マイクロソフトオフィス標準装備のWinマシンなら、 重たいパワーポイントが立ち上がって、ファイルを開いてくれることだろう)。

追記:単に自分の使い慣れてる方のツールで「良い例」を作って、 初めて使うツールの練習用に「悪い例」を作ってみたというだけなので、 「 マークアップ 方式の LaTeXを使うと論理的な構造を意識して書くようになる (更新版)」とか、 「 パワーポイントの機能を安易に使うとスペースシャトルが事故を起こす」 とか「思考が編集されてしまう」 とか言うつもりは特にない。 プレゼンシート作成ツールの善し悪しと、以下のプレゼンの善し悪しとは、 たぶんそれほど強い関係はない (いくつかの弱い 影響力はありそうだが。 パワポは理解を妨げるという意見もあるが)。

 さて前置きが長くなったが、以下に示すのは、 私の主観で、 「わかりやすい」と感じるという意味での 「良いプレゼン」の一例(左側)と、 私の主観で、 「わかりにくい」と感じるという意味での 「悪いプレゼン」の典型例(右側)である。 世の中には、 ここに示した右側の正に「悪いプレゼン」の 典型としか言いようのないようなプレゼンこそが 理想的なプレゼンであると考える人々も、 ひょっとするといるかも知れない。 確かに一つの典型ではあるので NHKのニュースを、 口頭発表の手本と考える困った人たちもいるかも知れないし)。 まずは、この左右のプレゼン例を見比べながら読んでみてほしい。

良いと私が思うプレゼン例 悪いと私が思うプレゼン例
話し言葉(話しかけ)調による発表例 LaTeX で作成し pdf 化した プレゼンシート例(mimizu.pdf パワーポイントで作成したプレゼンシート例 (mimizup.ppt)。 書き言葉(お役人言葉)調による発表例
○×科技大の山田です。 みなさんはミミズを切ってみたことはありますか? ええ、 ミミズは切られても再生すると言われてますけど、 実際のところですね、ま、切られたミミズが本当に再生するのか、 頭もしっぽも再生するのか、といったことは (私は)よくわかってないんです(よ)。 そこで今回は (註:この辺の台詞を言いながらシートを変える) 実際にミミズを切って実験してみることにしました。 良いプレゼン1 悪いプレゼン1 ミミズの切断と再生についての実験的研究と題しまして ○×科技大の上田△郎が発表させて戴きます。 まず、研究の背景について述べさせて戴きます。 一般にミミズは切断により再生すると言われていますが、 頭部再生のみならず尾部再生も発現し得るのか等 (註:こういう「等」を「とう」と読むと更にわかりにくい) 詳細は不明です。 次に研究の目的について述べさせて戴きます。 実際にミミズを2分割切断、 3分割切断等複数方法による切断を試行し、 頭部再生のみならず尾部再生も発現するか等を調査します。 (註:ここで黙りこくって、シートを変える)

 タイトルは不必要に大仰なものにしなくていい。 簡単なタイトルで言い表せてしまう研究しかしてないんだったら、 簡単でいい。 学会などの発表では、一般に司会者が次の発表の タイトルと発表者名を読み上げることが多いが、 そういう場合は、限られた発表時間の節約のため、 発表者が(長たらしい)タイトルを 言い直さなくてもいいかも知れない。 まあ、言うとしても、タイトル一字一句正確に読まなくていいから、 「○○の××について発表します」 ぐらいに少し要約したって構わない。 「……と題しまして、わたくし上田が発表させて戴きます」 みたいな(みなさんが普段、教員に対してすら使ってないはずの) へんてこな丁寧語(学会方言?) *はくれぐれも使わないでほしい。 イントロダクションとして 研究の背景とか目的とかを箇条書きにして(抽象した表現で) 提示するのがいいという考えも確かにあるんだけど、 10分以内で10枚以内といった限られた発表時間とシート枚数では、 なかなかそんなのんびりしたイントロダクションは やってられない(場合が多い)。 それに、背景とか目的とかは、文章で見せられて(読み上げられて)も (2行以上の書き言葉は耳で聞いても、目で読んでも) わかりにくいので、 「何が問題で」 「何を調べるために」 「何をやるのか」といったことを、 具体例を提示しながら説明していった方が、 時間の節約にもなってわかりやすいし、続く 実験方法の説明などの具体的な話につながりやすい。

まず、土を入れたバケツを三つ用意してですね、 一つには、そのまま切らずに10匹入れます。 まあ、これは比較のための対照群ということです。 あと、真ん中から二つに切ったミミズをこのバケツに入れます。 あ、これも10匹ぶんですね。 それから、更に細かく、 こんなふうに3分割したミミズをこのバケツに入れます。 10匹ぶんです。 それでですね、このバケツを日陰に1ヶ月 置きっぱなしにします (註:この辺の台詞を言いながら、シートを変える)。 良いプレゼン2 悪いプレゼン2 ミミズを下記条件に合致するA,B,C 3群に分類します。 A群とは、他の2群との対照実験の目的上、切断せずに そのままバケツ容器内土壌に10匹投入したもの、 B群とは、 胴体中央部により頭部側及び尾部側の2分割に切断した10匹を バケツ容器内土壌に投入したもの、 C群とは、 胴体1/3点、2/3点において頭部、中央部、尾部の3分割に 切断した10匹をバケツ容器内土壌に投入したものとし、 以下の発表では、これらの群をA群、B群、C群と呼ぶことにします (註:ここで黙りこくって次のシートに変える)。

図示した方がわかりやすいことは、図示する。 図を描くのがめんどくさいからといって、 なんでもかんでも文章で説明しようとしてはダメ。 仮に読めばわかる文章で書かれていたとしても、 長い書き言葉の文章は耳で聞いても理解できない。 読めばわかるとしても、 スクリーン上に投影された20文字以上(2行以上)の 長い文章を(発表を聞きながら素速く)読んで理解することは、 なかなか難しい。 「A群、B群、C群」といった不要な言い換えは避けること。 次のシートに行ったら、何がA群で、何がB群だか、 もうわからなくなってしまう。 「条件に合う」とか「条件を満たす」みたいな砕けた表現ができるなら、 「合致する」みたいな日常語では使わない漢字熟語は避ける。 「容器内土壌」みたいに漢字熟語が連なると、 耳で聞いても目で読んでもどこが切れ目かわかりにくい。 仮に論文中では、そのような堅苦しい漢字熟語の連なりを使っていたとしても、 口頭の発表では「バケツの中の土」とか、耳で聞いてわかりやすい 言葉にできるだけ置き換える。

で、一ヶ月後にどうなっていたかというとですね、 そのままバケツに入れたミミズは、10匹中9匹と、 まあ、ほとんど生き残ってました。 真ん中から半分に切ったミミズの場合は、 10匹中7匹の頭側だけが生き残ってました。 で、3分割したミミズですけど、 これは、ほぼ全滅しました。 1匹だけ頭側が生きてました。 という訳で(註:適当なつなぎの言葉を言いながら シートを変える)。 良いプレゼン3 悪いプレゼン3 実験結果は以下のようになりました。 A群は、1ヶ月後10匹中9匹の生存が認められました。 B群は、1ヶ月後10匹中7匹の頭部のみの生存が認められました。 C群は、1ヶ月後10匹中1匹の頭部のみの生存が認められました (ここで黙りこくって、シートを変える)。

 一度、説明のために見せたイラストや概念図を、 聴衆が次のプレゼンシート以降もちゃんと覚え続けてくれるなんて 保証はない。 説明に有用なイラストなら、前のシートで見せたのと 同じイラストを何回 見せたって構わない。 「A群、B群、C群」みたいな言い換えをされると、 このシートを見る前にボーっとしていた人は、 もう何のことだかわからなくなってしまう。

今回のまとめですが、 この研究では、 ミミズを、2分割と3分割した群に分けて 実験してみたんですけど、 ミミズは切られると、頭の側しか再生しない ということがわかりました。 ただ、3分割とか細かく切られすぎると、 頭の側でも再生しないということがわかりました (もし途中で時間終了のベルが鳴ったら、 「こうなります」とか「まとめです」と言って 発表を切り上げる)。 良いプレゼン4 悪いプレゼン4 (註:もう予想できると思うけど、 こんな原稿読み上げ調の発表をやっていたら、往々にして 結論の前に時間終了のベルが鳴ってしまう。 それなのに、発表を要約して切り上げようともせずに、 シートに書いてある長ったらしい「結論?」を読み上げ始める) 最後に結論です。 ミミズの切断による頭部再生及び尾部再生が発現するかどうかを 実験により調査しました。 対照群としてミミズを分割しないA群、2分割したB群、3分割したC群に分類し、 一ヶ月間バケツ内土壌に放置しました。 その結果、A群では10匹中9匹、B群では10匹中 7匹の頭部のみ、C群では10匹中1匹の頭部のみの 生存が認められました。 以上より、ミミズは頭部のみ再生すること、 胴体の半分以上が失われた場合は頭部側の再生も困難であること等がわかりました。 ご静聴有り難うございました。 時間を超過しまして、誠に申し訳ございません。

 「結論」とか「まとめ」で、文章をダラダラと書き込むのは つくづくやめてほしい。 スクリーン上で、そんな大量の文章は読んで理解できないし、 それを書き言葉のまま読み上げられたって、耳で聞いてもますます 理解できない。 「結論」や「まとめ」を文章の箇条書きにしなくちゃいけない なんて決まりはないんだから、 イラストとか概念図を入れたっていい。 「まとめ」ならキーワードどうしを矢印とかで結びながら フロチャートふうに書いたっていい。

目次先頭

自分が理解している内容を自分の言葉で
(原稿を書き言葉で読み上げるのはダメ)

スライドシートの書き方とか技術的な細かい話は後回しにするとして、 なぜプレゼンは話し言葉でないといけないのかという理念(?)的な ことをここから数章ぶんぐらい、書いておこう。 まず、上記の悪いプレゼン例のように、 書いた文章をそのまま読み上げたような発表というのは、 耳で聞いても非常にわかりにくい。 自分が理解していることなら (別に研究のことじゃなくても、 自分が見た映画のあらすじとか、自分が試作した料理の作り方とかを)、 自分の友達とか、自分の家族とかに、自分が普段 話してる言葉で (別に原稿なんか用意しなくても)その場で、とっさに説明できるよね。 研究発表も基本的に、それでいいんだ。 つまり、自分がちゃんと理解してることなら、 自分の言葉で とっさに説明できる筈だから、 「説明の仕方」を原稿に書いて覚えないと説明できないってことは、 「実は自分でも理解できてない」ってことになる訳。 だから、書き言葉調の発表を聞くと、 「この人はちゃんと理解してんのかなあ」って印象を抱いてしまうし、 逆に、話し言葉で揚々と発表されると、 「ああ、この人はちゃんとわかってるんだ」って印象を抱いてしまう (ホントはわかってなくても)。 こんなふうにプレゼン技術は、 自分が自分の能力以下に見られるか、 能力相応に見られるか、能力以上に見られるか、に大きく影響する。 まあ、公共の場では、ある程度の共通語や丁寧語である必要性はあるだろうが、 せいぜい、 みなさんが指導教員に(提出課題とか卒論の進捗状況とかを)説明するとき に使うぐらいの(やや丁寧な)話し言葉で説明すれば十二分だと思う。 実際の学会でも、 ベテランの先生や研究者の方々は、 話し言葉で発表する傾向が高いと私には観察されるし、 その方がわかりやすくて好感が持てる。 「……と題しまして私 上田が発表させて戴きます」だの 「さきほど申しましたように……でございますから」 みたいな、みなさんが普段 教員に対してすら使ってないような 堅苦しくてくどい丁寧語をどこかから覚えてきて使ったりしないように。 おかしい風習は真似しなくていいのに、 なぜか、そういう見習って欲しくないおかしな風習の方を 身につけてしまう人がいる。 それも、普段は、大学で悪態を吐いたり教員に反抗的な言葉づかいをしている ような学生だったりすると白けてしまう。 一見、権威や体制に反抗したい(かのように見受けられる)学生さんが、 どうして世間の風習は実に従順に踏襲していくのか……

 恐らくみなさんは、今まで、話し言葉とか書き言葉ということを ほとんど意識せずに言葉を使って(話したり書いたり)してきたのではないかと 思う(私も昔はそうだった)。 これは、一つには国語教育の問題でもあるだろう (どんな人にもわかりやすいことが求められる筈の お役所の文書や、裁判の判例文などが、未だに 平均的な国語能力の国民にもなかなか理解しにくい 用語や言い回しで書かれているということは、 国語教育以前に、国家レベルの言語政策上の極めて深刻な問題 とも言えるかも知れない。 最近、 わかりにくい外来語をわかりやすく言い換えようといった動きが ようやく出始めてきてはいるが、 身の回りには、まだまだわかりにくい文書が氾濫している)。 みなさんが、小学や中学や高校の国語教育の中で、 どのような作文教育やプレゼン教育を受けてきたのかわからないが、 私の頃は、 作文技術やプレゼン技術の習得につながるような 作文教育やプレゼン教育はほとんどなかったように思う (あるいは、単に私がボーっとしていて、 記憶していないだけだろうか)。

「事実」と「意見」

 作文技術については、 これはこれで一つの大きなテーマになってしまうので ここでは詳しく書かないけど、 私は、作文(特に学術的な作文、 一般には「理科系の作文」と呼ばれるもののことだけど、 私は文化系の学術的な作文もそうあるべきだと思う)で、 特に重要なのは、 「事実」なのか「意見」なのかを 読者が区別できるように書くことだと思う。

これは、 木下是雄『理科系の作文技術』中公新書 とかに書いてあることの受け売りだけど、 こういう作文技術の基本中の基本を、今の中学や高校の国語教育では 教えてくれているのだろうかと思い、 大学の図書館に置いてある中学、高校の国語の教科書を眺めてみた。 私の探し方が悪くて見落としているのかもしれないが、 「事実」と「意見」の区別について書いている教科書はなかなか見当たらなかった。 やっと見つけたのは、 第一学習社の『高等学校 国語総合』(平成十七年二月十日発行)で、 「表現の実践 8 意見を述べる」という章の 「意見文を書く際の留意点」という項目で 「1客観的事実と自分の意見の区別を明確にする。 2他者の意見と自分の意見を区別して書く。」と書かれていた。 とはいえ、その実例の紹介と解説や具体的な演習問題とかはなく、 教科書全体の位置づけとしては実にあっさりしているのだが。

例えば、先のミミズのプレゼンの例で言うなら、 「2分割したミミズは、10匹中7匹が生きていた」とか 「生き残ったのはすべて、頭がある方だった」とか いうのは、「事実」である。 「事実」は、作文やプレゼンの中で 「こうなった」「こうなんです」と断定して構わない。 一方で 例えば、 「しっぽ側が死んだのは、しっぽ側には心臓がないためではないかと 思う」とか、 「もっと大きいバケツに入れていれば、もっとたくさん生き残った ような気がする」 とか、本当にそうかどうかはわからないけど、 「そうじゃないかな」と著者や発表者が自分で考えたり推測したりしたことを 「意見」と言う。 また、特に価値観にかかわるテーマの場合、 「ミミズを殺すのはかわいそうだから、殺すべきではない」 とか、自分の価値観に依存することも「意見」である。 「意見」は断定してはいけない。 それが「意見」だとわかるように、 筆者や発表者が自分で考えたことだとわかるように、 「こうこうだと思います」とか「私はこうこうだと考えます」 みたいに表現する必要がある。 そうすれば、読者や聴衆は、 「事実」の部分と「意見」の部分を区別できるし、 提示された「事実」から、発表者の考えた「意見」とは 別の「意見」を持つこともできる。 で、この 「事実と意見の区別」がちゃんとできてさえいれば、 話し言葉で作文を書いたって(喋ったって)、 学術的な内容の伝達には特に問題はないと私は思う (←これも意見の表明の例)。

 というような?訳で、私は、プレゼン技術は 「話し言葉」という視点抜きでは語れないと考えている (「話し言葉」に着眼したプレゼン教育って既に、国語教育で なされていたりするのだろうか?)。 そんなことを言っている私も、 「話し言葉」と「書き言葉」の違いを改めて意識するように なったのは、 割と最近の(たぶん10年ぐらい前の)ことだ。 「話し言葉と書き言葉」というタイトルで、 私が2001年頃に私的なウェブサイト上に当時の問題意識について書いていた文章を 次章に引用して加筆する。

目次先頭

話し言葉と書き言葉

 小学生の頃、私はテレビのニュースで言っていることが、 実に難解でほとんど理解できなくて、どうして大人というのは、こんな 訳のわからないつまらない番組を毎日 見たがるのか実に不思議だった。 しかし、いざ自分が大人になった今でも、 ニュースで話されている日本語は、 ちゃんと集中して聞いていないとなかなか頭の中に入ってこないので、 (ドラマやバラエティ番組とかで話される日本語と比べて) なかなか理解しにくいなあと思うのである。 数年前、「20世紀解体新書」とかいう番組で、 天野裕吉だったがが ニュースで「付近の住民らからは口々に不平の声が挙がっていました」 なんて言ったってどういうことだかピンと来ないから、 「近くの人たちはブーブー言っていました」 と言えばいいのにみたいなことを言っていたが、 私も同感だ。 私は、 耳で聞いて理解しやすいのは、 「書き言葉」調の話し方よりは、圧倒的に「話し言葉」調の話し方だ と考えている。 しかし、テレビやラジオなどのニュース番組を始め、 会議や講演や学会発表などなど、私の身辺の様々な広報や発表は、 多かれ少なかれ「書き言葉」調を指向していて、 そのために理解しにくくなっているのではないかと感じさせられることが 多々ある。 私は「話し言葉」と「書き言葉」の特徴を、大体 次のように捉えている。

話し言葉:日常的な言葉が使われる。 短い単文が多用されて、同じ言葉の繰り返しや言い直しが多い。 文法的な「間違い」は多く、 一文一文が文法的に完結していなかったり、 接続詞で繋がれた前後の文が論理的に対応していなかったりする。 話している内容に対する話者自身の印象が語尾や語気に反映されやすい。

書き言葉:非日常的な難解な単語や修辞が多い。 同じ言葉の繰り返しや言い直しが避けられ、 そのせいで修飾節の長い重文や複文が多い。 文法的な「間違い」はほとんどなく、一文一文は文法的に完結していて、 接続詞で繋がれた前後の文も論理的に対応している。 話している内容に対する話者自身の印象が語尾や語気に反映されにくい。

例えば、次のような二種類の店頭販売を「耳で」聞いたとき、 どちらがより「わかりやすい」だろう? 

「書き言葉」調: 「…… この度当社で開発されたA4版冊子型ディスク収納ファイルは、 1ページに2枚収納可能だった 従来方式の冊子型ディスク収納ファイルとは異なり、目下特許申請中の折り畳み構造を 導入したABCD加工により、1ページに6枚のディスクを収納可能となりました……」

「話し言葉」調: 「……今度のディスク収納ファイルは違うよ。 まあ、今までも本棚に収納できるこういうい ファイル型のはあったけど、 あれは1ページに2枚までしか入んないでしょ。A4の場合ね。 でも、今度のこのABCD加工っていうのは、凄いよ。ほら、こんなふうに ここが折り畳めるからね、1ページに6枚も入るんだよ。これね、今、特許申請中 なんだよ……」

注:因みに、これは適当に考えた「例」なので、そんなファイルが 実在する訳ではない(念のため)。

参考までに、 「書き言葉」をそのまま読み上げたような典型例として、 夏井 睦さんが以前、 「超絶技巧ピアノ編曲の世界——体育会系ピアニズムの系譜」で 紹介していた 蓮實重彦総長の式辞 なども参照してみてほしい。

実は、とある文房具売場の前で、正に上記の「書き言葉」調みたいな 店頭販売をやっているのを聞いて、 こんなんじゃ宣伝内容を聞き取って理解してくれる客なんてほとんど いないだろうなあと思ったのだが、 よく考えてみると、テレビやラジオのニュースも、 この「書き言葉」調の方に属しているように思える。 勿論、客観的な事実を正確に伝達することが要求される ニュース番組においては、 「…ね」「…でしょ」「…だよ」「…だって」「…もん」「…ってば」のような話者(アナウンサー)の主観を反映させる語尾表現を多用する訳にもいかず、 「書き言葉」調にならざるを得ないという考えもわからなくはない。 だから、そこは譲るにしても、 同じ言葉を何度も繰り返す短い単文調で喋ったっていい筈なのに、 ニュースでは修飾節を伴う複文や重文で同じ言葉の繰り返しを避けたりしている ような気がする (代名詞で繰り返すにしても、「男は」「女は」みたいな誰も会話では使わない ような極めて奇怪な代名詞を使いだしたりするし。 日常で普通に使う「この人は」じゃ、どうしてダメなんだろう?)。 それに 前述したように「客観的事実の報告」と「話者の主観的意見」 とを聞き手がちゃんと区別できるような表現を使うなら、 別にアナウンサーの主観を語尾や語気に反映しながらニュースを伝えたって 構わないような気もするし、 その方が聞いていてわかりやすくて面白いのではないかとすら私は思ったりもする (その意味では、久米宏のニュースステーションなどは、 そういう方向性をやや模索していたのではないだろうか。 後継番組の古舘伊知郎の報道ステーションもそれに近い姿勢を 引き継いではいるだろう)。

 勿論、私も、学術論文などにおいては、 「客観的事実の報告」と「著者の主観的意見」とを読み手がちゃんと区別できる必要性があるという 理由だけではなく、 情報を正確に伝達する上で、「文法的な間違いを含まない」とか 「一文一文は文法的に完結していて、接続詞で繋がれた前後の文も論理的に対応している」など 様々な要請から、 「書き言葉」調で書く方が適しているだろうとは思う。 つまり、そうした要請の方が耳で聴いた際の理解しやすさよりも優先される と見積もっている。 とはいえ、「事実」と「意見」が明快に区別され、 文法的な間違いを含まず、文脈が論理的に整合してさえいるなら、 それ以外の特徴については、できる範囲で話し言葉に近いくだけた表現で 書いた方が学術論文もだいぶわかりやすくなるだろうと思っている。

まあ、学術論文とまで言わなくても、 専門的な内容を扱う文章の中でも、 入門書や啓蒙書、参考書の類いの場合、「話し言葉」調の方が有効な場合も多々 あるとは思う *。 前に知人の 大信田 丈志さんから 笠原皓司「新微分方程式対話」(日本評論社) という本があるのを紹介されて買ってみたのだが、先生と生徒たちとの 「対話」形式(例えば「今、ひょっと思いついたんやけどな、初めの行列は 対称行列やろ。終わりの5-7も対称行列やろ。そやのに、何で中間段階の行列が 対称でないんやろ」「そうなんや。今5-7を計算してて、気味がわるかったんや けど……」みたいな関西訛りの共通語?) で書かれていて、まるで自分も一緒に実際の授業に参加しているかのように 錯覚しながら楽しく学習できるように工夫されているのを見て心強く思った。 こういう例を見ると、 小学校・中学校の教科書や参考書などにおいても、もっともっと 「話し言葉」調を導入した方が子供たちの理解を促すのではないかという 気もする (「……なのは、どうしてなのか、みんなで話し合ってみよう」とか、 そういう「話し掛け」調は既に多用されているのかな?)

 つまり、「話し言葉」と「書き言葉」にはそれぞれ一長一短があるのだから、 それらを(あるいは両者の中間や混合を)、用途に応じて使い分ければいいと 思うのだけど、 「話し言葉」調の方が有効に違いない実に多くの情報伝達までもが、 不必要なまでの「書き言葉」調でなされてしまっているがために、 日常の様々な情報収集が (特に日本語の運用能力が劣る年少者や外国人といった人々にとって) 困難になっている面もかなりあるだろう。

メールやウェブが爆発的に普及するようになってから、 今まで文章を書いたりしてなかった普通の若者たちが、 自分たちが普段 話している言葉そのままに近い文体で、 毎日のように文章を書くようになりつつある。 この傾向に私は期待している。 一昔前は、文章というのは、難解な「書き言葉」の読み書きを習得した 「知識人」だの「エリート」たちにしか (情報伝達や主張の道具として)使いこなせないかのような感があった。 でも今は、「話し言葉」をそのまま使えば、 誰でも自由に気軽に文章で情報伝達や主張ができるということに、 多くの人たちが気づき始めてきたのではないだろうか (勿論、発言するからには一定の責任も伴うことになるけど)。 私は、現在の日本における多くの情報伝達 (テレビのニュースにせよ、お役所の文書にせよ)は、 もっともっと話し言葉の側にシフトした方が、 より多くの人にとって情報がわかりやすくなると考えている。

目次先頭

最も見習ってはいけない悪い例の典型はNHKのニュース

  ニュース番組の言葉づかいというのは、 書き言葉の原稿をただ読み上げたようなものが一般的だが、 なかでも、 NHKのニュースは特に修飾節の極めて長い書き言葉で、 耳で聞いていても、非常に非常にわかりにくい。 例えば、 2006/1/13に放送されたNHKのニュースを以下に書き写してみる。

1時になりました。ニュースをお伝えします。 宮崎県の養鶏場で鶏が大量に死に、 鳥インフルエンザの疑いの強いウイルスが検出された問題で、 宮崎県はウイルスの鑑定を専門機関に依頼し、 今日、鳥インフルエンザに感染していたかどうかが判明する見通しです。

こんな感じのニュースが、典型的なNHK文体だと思うが、 こんなに修飾節が長くて、どこが主語だかもわかりにくい複雑な複文の連なる重文は、 書き言葉として読んですらわかりにくい悪文だから、当然、 耳で聞いても、まるでわかりにくいし、 口頭発表では最も避けるべき悪文の典型としか言いようがない (前項の「話し言葉と書き言葉」参照)。 話し言葉でニュースを読んでくれたら、どんなに理解しやすいことだろう。

宮崎県の養鶏場で鶏がいっぱい死んだそうです。 宮崎県は専門機関に頼んで、 鳥インフルエンザかどうか調べてもらっています。 今日その結果がわかります。

みたいに。そういう意味では、「NHK週刊子供ニュース」のニュースは 耳で聞いても非常にわかりやすく、 口頭発表の見習うべきお手本の一つだと思う (大人用のニュースも少しはあれを見習ってほしい)。

06/1/13のNHKニュース原稿例

追記(2012/11/2) : 2012/11/2朝のNHK秋田放送局のニュースで、 火事か何かのニュースの際に、 お決まりの「付近の住民らは」ではなく「近くに住む人は」 と言っていた。 NHKも少しは日常的な表現を取り入れようとしつつあるのかもしれない。 全体的にはまだまだほど遠いと思うが。

覚え書き:ちょっと前に、 (ニュースを理解できない) 「お年寄り用」に、 ニュースの日本語をゆっくりと喋ってくれる ラジオだか装置だかが開発されたとか発売されたとかいうニュースを やっていたけど、 はっきり言って、そんなのは、まるで本質的な改善ではない。 「お年寄り用」なんて馬鹿にした言い方をしてるけど、 NHKのニュースは私だって耳で聞いてもよく理解できない。 ゆっくり話すことなんかよりも、 書き言葉をやめることの方が百倍ぐらい理解を助けることだろうに。

ついでに: NHK の「手話ニュース」は、 (中途失聴者ではない)生まれたときから耳が聞こえない人にとっては、 とてもわかりにくい手話なんだそうだ (半分ぐらいしかわからないという話も聞いたことがある)。 なぜかというと、「手話ニュース」の手話は、 口話日本語の「書き言葉」のニュース原稿に書かれている単語 そのままを、 口話日本語の語順のまま、 逐語訳的に手話の単語に置き換えただけのような手話だから。 こういうふうに、 (口話日本語を口で喋りながら、) 単語を、 口話日本語の語順のまま、逐語訳的に手話の単語に置き換えただけのような 手話のことを、 手指日本語 とか 日本語対応手話 (とか、日本語に限定しなければ「シムコム」)とか言うそうだ。 これに対して、(中途失聴者ではない)ろう者たちが使っている 手話というのは、「日本手話」と呼ばれ、 手で手話を組み立てる空間的(時間的)な位置関係や顔の表情などを 巧みに利用して、(口話を用いずに)手話だけで効率的に 情報を伝達することに特化した独特の文法を持っている。 だから、語順とか「テニオハ」とかも口話日本語とは だいぶ違っている。 疑問文の「……ですか?」とかも、 日本語対応手話だと いちいちひら を前に突き出す手話をしたりするけど、 日本手話だと、顔の表情だけで疑問文であることを示したりする。 そういう意味では、 日本語対応手話は「書き言葉」、日本手話は「話し言葉」に 対応するのではないだろうか。 だって、日本手話は文字通り、それを普段 日常で「話している」人たちの 手話なんだから。 つまり、NHK のニュースは (まあ、口話ニュースに関しては NHK だけじゃないけど) 口話でも手話でも、 私たちが普段 話している言葉とは程遠い「書き言葉」で 語られるために、 口話のニュースも手話のニュースもとってもわかりにくいという ことではないかと思う。

「渡る世間は鬼ばかり」の会話が不自然な訳

 上の方で、 ニュースで話される日本語はドラマで話される会話と比べてわかりにくい というようなことを書いたが、 ドラマでも(ニュースがわかりにくいというのと近い意味で) なかなかわかりにくいものがあるのを発見した。 橋田壽賀子脚本の「渡る世間は鬼ばかり」である。 このドラマでは、 一人一人の台詞が実に長く、 一人の役者が台詞を喋っている間は、 そこにいる役者たちはみんなじっとしているので、 なんかとても違和感を覚えるのである。 場面も部屋の中とか店の中とかに限られていて、 物語の状況説明が、ことごとく、役者の台詞によって なされている。だから、 台詞はとても説明的で重文や複文を含み、 そのため普通の会話では不自然なほど長く、 (一見、語尾などは話し言葉を装ってはいるものの) ほとんど書き言葉を朗読しているような台詞だ。 ウェブ上で 検索してみると、 同じようなことを感じている人もいるようだ

目次先頭

どんなに表情豊かでも書き言葉は所詮 書き言葉
絵本の読み聞かせが今ひとつわかりにくい訳

  後述するが、 プレゼンでは、喋り方の表情や抑揚は豊かな方がいいし、 ジェスチャーも豊富な方が聴衆を引きつけるだろう 手話においては、ジェスチャーや顔の表情が極めて重要な情報伝達の機能を担っているが、 口話においも、ジェスチャーや顔の表情や声の抑揚は 少なからぬ情報量を伝えている)。 しかし、どんなに表情豊かにジェスチャーを交えて発表しても、 先の 悪いプレゼンのような書き言葉を読み上げた ような発表である以上は、たいしてわかりやすくはなり得ない。 豊かな表情やジェスチャーは、 話し言葉でこそ活きてくるものだと思う。

 実は私は、 この数年の間に二人の子供が生まれたこともあって (その前からもだけど)、 「絵本の読み聞かせ」なるものに興味がある。 「絵本の読み聞かせ」というのは、子供たちに絵本を読んで聞かせる ことだが、 育児・保育系の市民サークルやボランティアなどが、 書店の児童書コーナーなどで、たまに子供たちを集めて「絵本の読み聞かせ」を やっていたりする。 私もそういうのをたまに見てみたり、 あるいはテレビとかで「絵本の読み聞かせ」の特集をやっているのを 見たりしていて、確かに、 あのボランティアの人たちは、実に表情豊かに絵本を上手に朗読しているけど、 果たして、あの朗読は子供たちにとってわかりやすいものなんだろうか?  と、ふと思った。 私だったら、絵本をあんなふうには読まない。 例えば、うちの子供に絵本を読むときは、 絵本に書いてある通りの文章を一字一句そのまま読み上げたりはしない (それは私が普段 子供に対して使っている普通の言葉じゃないから)。 私は、まず、物語の内容をおおまかに理解した上で、 自分が普段 子供に話しかけているのと同じように話しかける。 すると、こんな感じになる。

浦島さんが海さ行ってみだっけな、 あら、子供だぢが 何がやってるな。なんだべ、なんだべ、 っど思って見でみだっけ、だれ、この子供だぢだらば、 亀さんば、つっついだり、蹴っ飛ばしたりして、虐めでんだっちゃ。 ほれ、この亀さんだよ。こいなぐ棒でつっつがいだりして、 亀さん、痛え、痛え、っつってだんだって。 んだがらね、浦島さんは「こらっ、おめだち何やってんのや。 亀さんば ほいなぐ虐めだらば わがんねべっこのっ」 っつって怒りつけだんだって。

まあ、私の生まれは宮城県の石巻だからこんな感じになるけど、 万が一、これがかえってわかりにくいという 東京辺りの出身者もいるかも知れないから念のため、 東京辺りの人が使いそうな話し言葉を想像しながら翻訳すると (秋田やその周辺の出身者には不要でだろうが)

浦島さんが海に行ってみたらね、 あれ、子供たちが 何かやってるよ。なんだろ、なんだろ、 と思って見てみたら、なんと、この子供たちは、 亀さんを、つっついたり、蹴っ飛ばしたりして、虐めてたんだって。 ほら、この亀さんだよ。こんなふうに棒でつっつかれたりして、 亀さんね、 痛い、痛い、って言ってたんだって。 だからね、浦島さんは「こらっ、君たち何やってんの。 亀さんを そんなふうに虐めたらダメでしょ」 って言って怒りつけたんだって。

みたいな感じだろうか。 まあ、人それぞれの話し言葉があるだろうが、 少なくとも、

浦島さんが海へ行ってみると、子供たちが亀を棒でつついて いじめています。浦島さんは、子供たちに、 かわいそうだから亀をいじめてはいけないよと 言いました。

みたいな書き言葉にどんなに表情を込めて朗読されても、 (耳で聞かされる場合は) 話しかけ調の話し言葉のわかりやすさには かなわないと私は感じる。 それに、子供の絵本とはいっても、 子供がわからないような言葉がいっぱい出てくる。 「おきさきさま」だの「とつぐ」だの、 まあ、昔話の中には現代的なジェンダーの視点から問題ありの用語だの 差別用語(を言い替えた表現)だのは いっぱい出てくる*。 そのたびに私は、 「白雪姫のかあちゃん病気になって死んだっけな、 今度ぁ、新しいかあちゃん来たんだって」 みたいに、なるべく子供のわかる言葉、表現に言い替えるのである。 聴衆の知識レベルに応じて、 専門用語の使い方や表現方法を選び変えるというのは、基本的な プレゼン技術の一つだと思うが、 絵本の内容を子供にわかりやすい表現に変えながら話して聞かせるというのは、 ある意味でその究極の訓練手法と言えるかも知れない。 子供が知っている語彙は本当に限られているから。

ちなみに、外国語の発話の訓練として、 日本語の絵本をその場で、自分のわかる単語だけを使って 翻訳しながら喋ってみるということを 私は エスペラント の練習のためにやったことがあるが、 こういうアドリブ能力を鍛えておくことは、 プレゼン能力の向上にも一定の効果があるだろう(たぶん)。

目次先頭

書き言葉の呪縛から自由になろう

 卒論の発表練習 (とか初年次ゼミの発表練習とか)で、 私が担当の学生さんにどんなに 「話し言葉でいいから」とか 「普段 友達に喋ってるようなつもりで説明してみて」 とか言っても、 なぜか、なぜか、みなさん、 「はい、わかりました」とは言うものの、 いざ説明を始めると、たちまち、 「ええと、 ミミズを切断し、バケツに入れ、一ヶ月間 放置します」 みたいな表現になってしまう。 私にとっては、これではまだまだ書き言葉だ。 だって、みなさんは、友達に(教員にだって)、 「今から、トイレに行き、生協でメシを食べ、帰ろう」 なんて言わないでしょうに。 書き言葉の呪縛はなかなか堅固で手強い。 と言っても、普段は友達に話し言葉で喋ってるんだから、 それをそこそこの丁寧語で共通語に変えれば (ちょうど、みなさんが教員に話しかける程度に) それでじゅうぶんな筈なんだけど、 なぜか、なぜか、発表となると、 頑なに「書き言葉モード」を抜け出せなくなってしまうのはなんで? 
* 小学校辺りの国語教育の弊害だろうか? 余談だけど、 私は、小学1年の頃は、 先生に対しても普段 親とかに喋っているのと同じように 「先生、あのやー、……したっけやー、……したんだどー」みたいに 話しかけていたと思うけど、 先生から、 「後藤君は、おうちの中でもおとうさんやおかあさんに対して、 そういう口のきき方をするんですか」 と言われて、「んだよ」と答えたら、 なんと先生は、 「おとうさんやおかあさんにも、ちゃんと『です』や『ます』を つけて喋りなさい」みたいに言われたことがあったっけ。 まあ、そんな方言排除政策な指導には従わなかったけど、 少なくとも学校内で先生に対しては少しずつ 「ですます調」を使うようになっていったんだと思う。 私からすると、そんな共通語だの丁寧語だのの教育なんかより、 情報(知識や意見)を自分の言葉で表現できる能力を養うことの方が 圧倒的に重要なことのような気がする。 というか、書き言葉の呪縛から逃れられない学生たちを見るにつけ、 少なくとも小学低学年ぐらいの時点では 「書き言葉で発表する」なんて芸当のできなかった筈の 子供たちが、 今や、「書き言葉でしか発表ができない」ようになってしまうのは、 多かれ少なかれ学校教育における書き言葉偏重の弊害であるような 気もする (先生や事務の人など、大人の人には敬語を使いなさい という圧力がそれなりに強かったりするのだろうか...)。

覚え書き:もしかして、 関西人よりも (自分の言葉をそのまま公の場で使ってはダメとされてきた)東北人の方が、 書き言葉で発表しようとする傾向が強かったりして。 仮にそうだとすると、これは社会言語学的なテーマの一つになり得るかも (既にそんな研究をしてる人がいたりするかな)。

目次先頭

「書き言葉で話す」?
齋藤孝さんのテレビを見て

04/5/9(日): NHK のテレビ番組に 『声に出して読みたい日本語』の 齋藤孝さんが 出演して話しているのを途中からちょっとだけ聞いたのだが、 もしかすると、 (「書き言葉で話したらわかりにくい」という) 私とは逆の (「書き言葉を導入することで話し言葉が豊になる」というような) 主張 をしているのではないかと思わせる発言がいくつかあった。 勿論、これはテレビでの発言なので、 そのように(私に)誤解されるようなしゃべり方をしてしまったという こともあり得るが、 『 読書力 』という著書の中に、 「書き言葉で話す」「漢語と言葉を絡ませる」「口語体と文語体を絡み合わせる」 といった項目があることから判断する限り、 「書き言葉で話す」ことを良しと考えている節はある。 こんど、立ち読みして確認してみたい。

 齋藤孝さんは、 読書量が少なく語彙量も少ない人などが、 会話の中で聞いてもわからないだろう言葉の例として 「敷衍(ふえん)すると」などを挙げていたが、 私は、後述するように、 こんな耳で聴いて判別しにくい漢字熟語を特に必要もなく 会話の中に使うことには反対である。 そんなわかりにくい言葉を使わなくたって、 「わかりやすく言うと」とか、いくらでもわかりやすい言い方はある。 そして、そんなふうに「わかりやすく言いかえる」ことができる能力にこそ、 語彙力や読書量が大いに関係してくると私は考えている。 齋藤孝さんは、 人の会話を聞けば(つまり、その人が会話の中で用いている語彙を聞けば)、 その人の読書量がだいたいわかると言っていたが、 私はまったくそうは思わない。 読書量が少なく、語彙力の乏しい人の方こそが、 学があることをひけらかしたがって (それこそ「ペダンチックに」「衒学的に」) 覚えたての難解漢字熟語やカタカナ語を 不必要に使いたがる傾向はむしろ高いんではないかと思うし *、 語彙力や作文力のない人の方こそが、込み入った 抽象的な事象を誰にでもわかるような簡潔でわかりやすい言葉で 表現するのが不得意だとも思う。 例えば、日本語のあまり得意ではない留学生と 日本人の学生が日本語で会話していると、 日本人の学生が発した単語や言い回しが留学生に理解されないことが よくある。 そんなとき、 私はそばで聴いていて、 もっと簡単な単語だけを使って話してあげればいいのにと つくづく思うのであるが、 学生さんたちは、どうしてなかなか、 簡単に言い換えることができずに、同じ(理解されていない)表現を 何回もゆっくりと繰り返したりしてしまうのである。 例えば、 「健康診断」が理解されなかったら、 「身長を測ったり、体重を測ったり」とでも言い換えればいいし、 それでも理解されなかったら、 「体の長さを測ったり、体の重さを測ったり」とか 身振り手振りを交えてどんどん(わかってもらえるまで) 言い換えていけばいいものを、こういう言い換えもそれなりの 慣れと語彙力・作文力・語学力が必要とされているということなのかも知れない。

目次先頭

「正しい日本語」って何?

 私は、ここで、プレゼンで使う言葉は、 学生が教員に対して使う程度の「そこそこの丁寧語」で「そこそこの共通語」であれば 十分だと書いた。 一方で、 公の場で発表する際には「完璧な敬語表現」や「完璧な標準語」を使うべきだと 考える人たちも教育現場には一定数 存在するので、 補足しておきたい。 まず、話している相手や言及している対象の身分(自分より目上か目下か)とか、 性別、未婚か既婚か、といった情報を常に識別して、 用いる動詞の種類(東京山手方言における尊敬表現や謙譲表現)を変えたり、 接辞の種類(ヨーロッパ諸語における男性語尾や女性語尾)を変えたり、 敬称の種類(ヨーロッパ諸語における男性用敬称、既婚女性用敬称、 未婚女性用敬称)を変えたりといった文法規則は、 単に、そういう身分差別や性差別を要求している(た)社会の反映に過ぎないと 私は考察する。 社会の中の身分差別や性差別がなくなる方向へと向かっていっても、 いったん言語の文法の中に組み込まれてしまった身分区別や性区別の構造は そう簡単には取り除けない根深さを持っている。
 日本語の場合、性区別に関しては、さいわい、全ての名詞を 性区別することを要求するような 文法はなかったこともあり、 「女医」だの「女教師」といった (対象が女の時だけいちいち女であるという情報を付加する) 表現を(マスコミなどで)やめるのは、そう難しいことではなさそうでもある (現に「看護婦」を「看護師」といった言い替えは多数なされている。 一方、アナウンサーではなく「女子アナ」だの俳優ではなく「女優」 といった職業表現は、しばらくはなくなりそうにないが)。 つまり、日本語における性区別の表現については、 不要な性区別をなくしていこうという動きはマスコミなどには 多かれ少なかれ一応は観察されるのである。 一方で、 敬語表現もそれなりに変化している。 ちょっと前までは仕事上の取引などが、 「拝啓 時下ますます御清勝のこととお悦び申し上げます」みたいな ビジネスレターでやりとりされていたものだけど、 メールや携帯でのやりとりがどんどん一般的になってきている今の時代に、 「拝啓 時下ますます御清勝のこととお悦び申し上げます」みたいな 文体でメールを書く人はまずいない(たまにいるんだけど)。 いちいち適切な動詞を選び変えなければならない敬語体系は めんどくさいし間違いやすいから、 なんでもかんでも「させていただきます」をくっつけて済ます 敬語体系が出現したり、 コンビニやファーストフードの接客マニュアルは、 どんどん 独自の敬語体系をマニュアルとして導入している (「よろしかったでしょうか」だの「1000円からお預かりします」)。 つまり、現代の社会で(良かれ悪しかれ)要求されている敬語の機能というのは、 せいぜい「他人に失礼にならない」という程度の機能があれば十分な訳であって (つまり、丁寧語モードで話しているということが相手に伝わることによって、 相手と友好的に話し合う意志があることが相手に伝われば目的達成なのであって)、 その程度の目的の達成のためには、わざわざ東京山手敬語の複雑な体系を 使わなくたって、 「そこそこの丁寧語」で「そこそこの共通語」で十二分だと私は考えている。
例えば、英語を話す人たちの間で 「未婚女性と既婚女性をいちいち区別するのをやめてほしい」と Ms.のような未婚か既婚かを区別しない敬称が提唱され、それを使う人が 増えてきたら、 中学校とかの英語の授業で、 「結婚してない女の人には Miss を、 結婚している女の人には Mrs.をつけなさい」 なんて文法原理主義を振りかざす態度にも問題が出てくる。 未婚女性と既婚女性を区別していた「古き良き」風習を温存したい教師の気持ちを 文法を持ち出して正当化している疑いさえ出てくる。 敬語教育にしたって、 既に大人たちが 「正しく」 は使っていない (というか、より正確には、もっと簡単な丁寧語体系に乗り換えることで 「正しく」 使いこなすユーザーが激減している) 東京山手敬語体系を小学生や中学生に教え込むことに、 建設的な意味があるのかどうか私自身はとても疑問だ。
この項、続く。 (メモ:正しい国語「先生」と「さん」「学生」と「生徒」)

新入生ガイダンスの際に配布された『日本語表現法』というテキストは、 「書き言葉の乱用が日本語をわかりにくくしている」という私の主張とは 割と正反対の内容(「硬い文体」を身につけましょう)がまとめられていると思う。 このテキストに対する私の意見を ここに書いてみた。

そもそも「正しい」って何?

テレビなどでも、「その言葉づかいは間違い!」だの 「正しい言い方はこうこう」みたいなのを指摘する番組をよく やっているが、言葉づかいにおける「正しい」っていうのは、 基本的に人間が決めたことであって、 科学的な意味での「正しい」と混同してはいけない。 科学的な意味での「正しい」というのは、 科学的な命題なり推論なりの論理的正しさまたは実証的正しさのことである。 例えば、 ここでいう論理的正しさというのは、 「仙台市が宮城県の中にあって、宮城県が日本の中にあれば、 仙台市は日本の中にある」のように観測や実験を行わなくても 頭の中で論理的に判断できる「正しさ」のことであり、 ここでいう実証的正しさというのは、 「私の体重は60kg以上である」のように観測や実験によって 客観的に確認できる「正しさ」のことである。 こういう科学的な意味での「正しさ」は意味も明快で 客観的に判断できるが、 我々は、そういう意味以外にも 実に様々な意味で「正しい」とか「間違い」という 言葉を使う。 例えば、 言葉のつかい方とか、ご飯の食べ方とか、 服装とかについて、 誰か(権威のある団体とか)が決めた規範とか、 多数派が踏襲しているしきたりとか、 単に一昔前の(古き「良き?」時代の)習慣とかに従っているやり方を 「正しい」と言うことも多々ある。

(以下、 こちらからコピペするが ) 例えば、「『見れる』は『ら抜き言葉』だから『間違いだ』」とか、 「『みずうみ』の漢字は『湖』が『正しく』、 『水海』は『間違いだ』」とかの類いである (国語や英語 関係のネタで頻出する「正しい」とか「間違い」とかの表現は要注意である)。 東京山手方言などの「ら有り言葉」の枠内で文法解釈しようとすれば、 「ら抜き」言葉が、さも文法ミスであるかのように捉えられるかも知れないが、 (別に「ら」を抜いた訳ではなく、最初から「ら」が入っていない) 「ら無し言葉」を使う多くの方言においては、 「ら抜き言葉」の方がむしろ 文法的に「正しく」、「ら入れ言葉」の方が 文法的に「間違っている」という主張も成り立つ。 それに、仮に「ら抜き言葉」が問題視されるようになった発端が、 当初は、東京地方の若者の (「ら入れ言葉」話者による)文法ミスにあったとしても、 現行の東京若者言葉の文法の中には、 「ら無し文法」もとっくに組み入れられているから、もはや 東京の若者にとってすら 文法ミスではない (近い将来、アナウンサーの方こそが「ら無し」を採用することになるだろう)。 「みずうみ」にしても、日本語の語源に対応させて漢字を当てるなら、 既に「みず」に対して当てられている「水」と 既に「うみ」に対して当てられている「海」とを 組み合わせて「水海」と造語すること自体は、 間違いとは言い難いし、そのように漢字を組み合わせて造語を することを日本語は特に禁止してもいない。 一方、 「湖」は、 日本語の語源との対応なんて考えずに、 単に「みずうみ」を意味する中国語の文字である「湖」を安直に 当てただけである。 つまり、誰かが決めた定義(や規範)に合うかどうかを議論する場合には、 「正しい」とか「間違い」とかいう表現ではなく、 「どの定義(や規範)に合う」とか 「どの定義(や規範)に合わない」という表現を 使った方が不毛な議論や不要な反感を招かずに済む。

目次先頭

どんな構成がいいか?

さて、理念(?)的な話はこの辺でひとまずおいて、 ここからは技術的な話を少しずつ進めていこう。

ウェブ上のプレゼンの手引きなんかを見ていると、 第一に話の構成方法に重点を置いているものが多いような気がする。 もちろん、話の構成も話をわかりやすくする上で とても大事なことではあるが、 起承転結がいいとか、結論を最初に言ってしまうのがいいとか、 そういう鉄則というのは特にないと私は思っている。 どういう構成で話すのが、面白いか、わかりやすいか、 といったことは、内容に応じてケースバイケースではないかと思う。 ただ、構成がどうなっていようが、 話の流れをわかりやすくする(ストーリーが見えるようにする)ことは、 とても大事なポイントだと思う。

例えば、学生にまずは自分の思う通りにプレゼンシートを 作ってみてというと、 以下のような感じの構成にしてしまったりする。

まあ、導入部に関しては、聴衆がその狭い専門分野の専門家集団であるならば (例えば木橋技術に関するシンポジウムとか)、 いきなり「鋼材で補強された木材はせん断に弱くなる」みたいな背景から 始まっても許容されるかも知れないが、 卒論発表とか、 様々な専門の人が集まる場では、 そもそも、なぜ鋼材で補強された木材とかが出てくるのか、 それについて研究することがなぜ必要なのかという辺りから始めないと なんのためにやっている研究だか訳がわからないだろう。 自分が卒論で行った様々な実験や解析についても、 自分が行った順番に、 「こういう実験をやったらこういう結果が出た」 「こういう解析をやったらこういう結果が出た」 とただ羅列されても、 それが何を調べるためにやっている実験なり解析で、 どういう結果が出るとどういうことが言えるのかということを はっきりさせてもらえないと、 結局、なんのためになにをやっているのかが、 プレゼンを聞いていても見ていてもわからなくなってしまう。

まあ、見せる順番はこのままでいくとしても、 せめて話の流れ(ストーリー性)をもう少しはっきりさせるとすれば、 例えば以下のような感じだろうか。

もちろん、結論として強調したい部分が違うところにあれば、 ストーリーの持って行き方もそれに応じて変わってくるけど、 まずは一例ということで。

あと、この辺の木材のせん断強度が云々の話は、かなり話を単純化して 書いているので、やや不正確な表現もある。 実際の学生の卒論の例は、 卒論概要pdf, 発表用pdf 辺りを参照。 あ、あとこの学生の名誉のために付け加えると、 この学生が上記のような プレゼンシートを作ったという訳ではない。 上の例は、私が作為的に作ったわざとらしい悪い例。

目次先頭

1分1枚

スライド方式のプレゼンシートを作る場合、 プレゼンシートの枚数の目安は、 発表時間1分あたり1枚ぐらいで十分だと思う。 どうも最近、とういか、プレゼンシートをパソコンのツールで 作るようになってからか、発表時間内に見せるプレゼンシートの 枚数が増えてきたような気がする。 特に学生の発表とかだと、 数十秒おきにどんどんシートが変わっていって、 たかだか6分ぐらいの発表に、二、三十枚ものシートが使われたりすることもある。 例えば、橋の構造形式の話をするのに写真とかを見せるんだったら、 「これは、秋田の坊中橋ですが、キングポストトラスですね」 みたいなことを言いながら、 数秒に1枚ぐらいずつどんどん写真を見せていくというのは、 そうおかしくはないだろう。 しかし、キーワードや説明図を配置したプレゼンシートを、 数十秒しか見せないというのでは、 発表者も十分な説明時間が確保できないし、 聴衆も 説明を聞きながらプレゼンシートの内容を ゆっくり理解して確認することができない。 学生とかの発表だと、 実験モデルや計算モデルの寸法とか材料定数とかを示さなければならない という思いからだろうが、 試験体などの細かい寸法や材料定数などの数値が ずらっと羅列された表とかを示して、 「なお、実験に用いた試験体の材料定数は、このようになります」 みたいなことを一言だけ言って、その表を一瞬だけチラ見せしたり することがよくある。 でも、そんな数値の表を一瞬だけチラっと見せられたところで、 聴衆は、その数値をすべて読み取って覚えたりすることはできないから、 そんな細かい数値の表を見せても意味はない。 短い発表時間の中で、実験モデルの寸法や材料定数のすべてを 正確に伝えることなんて所詮 無理な訳だから、 そういう場合は 実験モデルの特徴の中で、発表内容にかかわる最も重要な 最低限のいくつかの情報だけにしぼって、伝えるべきだろう。 例えば、 「2mぐらいの杉集成材で、ヤング率はカラマツの半分ぐらいです。 まあ、今回のは6GPaとか7GPaとか、それくらいです」 みたいなことが、最低限 言いたいことであるなら、 スライドシートも数値の表ではなく、その特徴を伝えやすい 実験モデルのイラストなり写真なりに、 伝えたい数値(ヤング率:6〜7GPa....カラマツの1/2)だけを 書き込んでおけばいいだろう。 後述する「式や記号やグラフの書き方」にも関係するが、 例えばヤング率がカラマツの半分ぐらいで6〜7GPa程度ということが 伝えたいことなのなら、

試験体ヤング率(GPa)
No.17.12
No.26.59
No.36.81
No.47.08

みたいな細かい数値をプレゼンシートでは必ずしも示さなくたっていい。 もちろん、数値のばらつき具合の考察とか、その数値自体が伝えたい内容に 深くかかわってくる場合には、数値自体を示すべきだろうが。

原稿は作らない
(作るとしてもメモ程度)

 発表原稿を作ると、 まずほとんどの場合、 その発表原稿をそのまま書き言葉で読み上げたような 発表になってしまう。 冒頭の悪いプレゼンの発表例を 見れば(聞けば)わかるように、 書き言葉をそのまま読み上げたような発表は耳で聞いても まるでわかりにくい。 発表原稿は作らずに(もちろん、プレゼンツールの注釈機能みたいなものでも 同じこと)、 プレゼンシートを眺めて、 そこに書かれたキーワードや図から 「あ、そうそう、ここではあれを言っておくんだっけ」 みたいに連想される言いたいことを、 自分の言葉で、 「あのですねー、これは、どういうことかというとですね、 ○○したら、××になりますよね。つまり、 その△△のことなんです」みたいに、 みなさんが担当教員とかに(提出課題とか卒論の進捗状況とかを)説明するとき に使うような(そこそこの丁寧な)話し言葉で説明すればじゅうぶんだと思う。 但し、 プレゼンシートに書かれた必要最小限の キーワードや図を見ただけで、言うべきことを 「あ、そうそう、ここではあれを言っておくんだっけ」 と連想できるようになるには、 何回も発表練習を繰り返すのは必須だろう (仮にベテランになったとしても、 一定の発表練習をしたかどうかの違いは、 プレゼンのわかりやすさの違いとして現れると思う。 ちなみに、 模範的にあざやかなプレゼンを行うことで有名な スティーブ・ジョブズもプレゼン前に何時間も練習 するらしい)。 でも、発表に使う表現や言い回しを文章として暗記する ことは薦めない。 暗記すると、緊張して頭が真っ白になったり、 ちょっと とちったりした時に復帰できなくなったり、 一番最初からやり直さないと思い出せなくなったりする。 発表(練習)の度に、表現方法は違っていいし、 使おうと思っていた言い回しをど忘れしたなら、 その場で思いつく表現で喋ればいいだけだ。 だって、話し言葉は基本的にアドリブなんだから。 人前でピアノとかの楽器を演奏しなければならなくなったときの 練習方法として、途中で間違えても最初からやり直さずに (あるいは途中でわざと間違えてみて) すぐに復帰できるかどうかということをやっておくと、 本番で間違うことに対する恐怖が緩和されるが、 プレゼンも、練習の際にたまたまとちったり、 ど忘れしたりしたら、最初からやり直したりせずに、 これは、こういうちょっとした失敗の状況から アドリブで復帰できるかどうかの恰好の訓練だと思って、 なんとかアドリブで切りぬける練習もしておいてほしい。 そんなふうに何回も発表練習を繰り返しながら、 プレゼンシートのキーワードや図から言うべきことが、 どうもうまく連想されるようになっていない場合は、 (キーワードや図が適切でないということだから) より適切なキーワードや図に置き換えてみたりと、 発表練習を繰り返しながら、シートの発表しにくい部分を 微修正していくことはとても重要だ。

目次先頭

20文字以上(2行以上)の文章は避ける
(見せるのはキーワードとなる単語だけ。 発表する文章すべてをシートに書き込んで、それを読み上げるとかはダメ)

 冒頭の悪いプレゼンの例を見てもらえば わかるように、 というか、ここでは紙幅の関係で300×220ピクセルの小さい画像枠の中に、 プレゼンシートが映し出されていて細かい字が読みにくいけど、 これは、 実際の学会会場などでスクリーンに映し出された文字を後ろの方の席から 見ると、同じように読みにくい感じを疑似体験してもらうための レイアウト上の意図的な演出なのだ(なんてね)。 実際、書き言葉調のわかりにくいプレゼンを聞きながら、 スクリーン上の細かい字の文章を素速く読んで理解するということは、 なかなか難しい。 私の主観では、(1行10文字以上で)2行以上にまたがる文章、 1行でも20文字以上の文章は、見ただけで読む気力をなくす。 というか、仮に読もうとしても、なかなか読めるものではない。 まあ、一つの目安として、プレゼンシートには、 15文字以内程度のキーワード的な語句しか書き込まずに、 (説明に15文字以上を要する事柄の)説明は、 スクリーン上の文章でではなく、発表時に自分の言葉でやるというのが いいと私は感じている (例えば、冒頭の良いプレゼン例みたいに)。 まあ、この辺は程度問題なので、 見た目のわかりにくさよりも、説明を文章化して提示することの方が 重要だと判断される場合など (文章表現自体を議論の対象にしてる場合とか?)は、 文章を提示しても構わないだろうが、 冒頭の良いプレゼンと悪いプレゼンの例みたいに、 別に文章を提示しなくても、キーワード的な単語だけでいくらでも 説明できる事象を対象としているなら、 長い文章を避けるに越したことはないと思う。

目次先頭

やたらとアニメ機能を使わない
(「喋る項目が順番にスライドイン」はかえって見にくい)

 これは好みの問題かも知れないが、 冒頭の悪いプレゼン例みたいなシートで、 喋る項目が、クリックするごとに順番に画面に現れるような アニメ機能(マイクロソフトのパワーポイントでは スライドインというアニメ機能のようだが)を使われると、 私はなかなかイライラしてしまう。 といういのは、冒頭の 悪いプレゼン例は、 ただでさえ文章が多くて、しかも発表は書き言葉だから耳で聞いても よくわからないから、せめて、その読みにくい文章だらけの シートを、 短時間に少しでも先読みして、発表者の意図を汲み取ろうとしても、 「スライドイン方式」だと、まだ発表者が読んでいない文章は、 隠されているので、先読みができなくなってしまうのだ。 スライドインして現れる文章を、 そのまま書き言葉調で読み上げられるのをリアルタイムで聞いて リアルタイムで理解して下さいっていう演出かも知れないけど、 こんなしんどいことはない。 シート一枚ぶんの内容を最初っから全部 見せてもらった方が、 発表者の言わんとすることを多少は先読みできるので、 わかりにくい発表の場合は、その方がよっぽどましだ。 それから、シート切り替えのリモコンが使えない場合に、 スライドイン方式をやるためにパソコンに張り付いて マウス操作やキー操作に専念してしまうと ジェスチャーができなくなってしまうという問題 もある。 顔の表情やジェスチャーが伝える情報量は軽視すべきではない。

 もちろん、スライドイン方式が演出効果として有効な場合もあるとは思う。 例えば、「……には、どういうものがあるかというと、」みたいに 答えを見せる前に聴衆にも少し考えてもらってから、 「はい、そうです。一つは、……ですね」 「あとは? 何か思いつきます?」みたいに、 順次 答えを見せていく場合とか。 そういう演出効果のためにアニメ機能が有効だと判断される場合は もちろん 使っていいんだけど (と言っても、演出効果を演出意図通りに活かすには、 それ相応のプレゼン技術が要求されるだろうが)、 特に演出意図もなく、「ただ、プレゼンツールの使える機能を使ってみたいから」 といった程度の動機で、アニメ機能を多用されると、 かえって、見づらくなることも多々ある。

実は、プレゼンツールでスライドインの機能が気軽に使えるようになる よりも前のOHPによる発表の時代にも、 手動でスライドインをしようとする人はいたのだ。 OHPシートのこれから喋るところを紙で隠して、 そうするとスクリーン上では紙で隠したところが黒い大きな影になって、 それだけでも私なんかには重苦しいのだが、 喋りながら少しずつ紙をずらして、 喋ったところを見せていくのだ。 私にはこういうことをする意図がまるで理解できなかった。 これから喋るところは見せないでおいた方が 聞き手の想像を膨らますとでも思っているのかも知れないが、 こういうことをする人に典型的な書き言葉で わかりにくい発表をされてしまうと、 少しでも先読みして理解の助けとしたいところを ことごとく隠しやがるので、本当にイライラさせられたものだ。

 あと、 わかりにくい発表だから、 シートの内容を(発表者が説明するより)少しでも先に先読みしておこうと 思っている矢先に、 画面の切り替え程度のことで、いちいち フェードイン・フェードアウトだの、 画面がチラチラと断片化してチェッカーワイプだのをやられると、 「そんなのどうでもいいから、さっさと次のシートを見せろ」 と私なんかは思ってしまう。 因みに、ウェブページのページ切り替えごときで、 フェードイン・フェードアウトやチェッカーワイプをやられるのも、 私はかなりイライラする。ので、単に好みの問題かも知れないが。

目次先頭

プレゼンシートを発表原稿代わりにしてはダメ

というか、 冒頭の悪いプレゼン例の場合は、 口頭発表で喋っている内容は、 プレゼンシートの文章そのままで (せいぜい「である」調を「ですます」調に変えている程度)、 プレゼンシートに発表原稿をそのまま書き込んでいるようなものだ。 これはある意味で、怠慢(というか横着)だ。 プレゼンシート(という名の実質は発表原稿)を作ってしまえば、 あとは発表練習なんかしなくても、 プレゼンシートをそのまま読み上げれば発表ができてしまう。 こんな発表では、耳で聞いてわかりにくいのは当たり前としか言いようがない。 わかりやすいプレゼンシートを作るには、 わかりやすいキーワードやイラストや概念図を推敲しなければならないし、 そのシートを眺めて連想されることを 自分の言葉で説明できるようになるには何度も繰り返し繰り返し 発表練習をしなければならないし、 プレゼンシートを眺めても言うべき事がうまく連想されるように なってないシートは、 発表練習を繰り返しながら微修正しなければならないし、 本来、プレゼンの準備のためには (よほどのベテランであっても)、 それなりの時間と労力を要するものなのだ。 冒頭の悪いプレゼン例は、 プレゼンをわかりやすくするために必要な準備作業を ことごとく省略して、 既に作成済みの論文や前刷りから拾ってきた文章 (当然、書き言葉)を、カットアンドペーストで適当にシートに 配置しただけみたいな手抜きな代物だ。

目次先頭

耳で聞いてわかりにくい漢字熟語や略語は避ける
(日常語やヤマト言葉に言い換える)

 発表となると、なぜか、途端に 漢字熟語をやたらと使いまくる人がいる。 その方が高級そうに聞こえると思うのかも知れないが、 「わかりやすさ」という観点から言うと、これは明らかに逆効果だ。 漢字熟語というのは、同音異義語が多く、 耳で聞いて意味を判別するのはなかなか難しいものなのだ。 有名な例だと、 構成、校正、更正、公正、厚生、攻勢、後生、後世、恒星、更生、 高声、鋼製、硬性、向性……(もっといっぱいあるけど、コウセイ)とか。 そもそも漢字熟語は、 中国語から入ってきたものや、 日本人が漢字を組み合わせて (外国語をカタカナ外来語としてではなく 「日本語」として翻訳するために) 作ったりした言葉だけど、 漢字の読み方が、中国語では、発音を区別されている文字でも、 音素の少ない日本語の発音では、同じ音になってしまうといった 事情があるため、漢字熟語は同音異義語が多いし、 基本的に音読み(中国語の発音から来た読み方)で読まれるから、 発音から意味を推測しにくいのだ (「しっぽ」と言われたらわかることも「ビブ」と言われたらなかなかぴんとこない)。 だから、 特別な意味を持つ専門用語ならともかく、 わかりやすい日常語や ヤマト言葉(昔からある日本語)に 置き換えられるなら、その方がわかりやすいだろう。 例えば、「試行する」じゃなくて「試す」とか、 「齟齬を来す」じゃなくて「くいちがう」とか、 「看過し難い」じゃなくて「見逃せない」とか。

関連: 「日本語表現法」について--書き言葉と話し言葉

 追記:英語の文献で専門用語として使われている 語句の日本語訳をちゃんと調べずに、その用語だけを英語のまま使うのも 不親切だと思う。 例えば、「梁の座屈前のたわみの影響は」と言うべきところを、 「梁の prebuckling deflection の影響は」みたいに言ったりとか。 因みに、ここからは余談だが、土木で使われる 「後座屈(あとざくつ)」 という言葉は、postbuckling を語順のまま直訳した誤訳だと思う。 漢字熟語というのは、(中国語の)孤立語的な機能を持っているので、 漢字を並べる位置が意味に影響する。例えば、 「○○した後」という意味の熟語を作るには、 「○○後」という順に並べるのが普通だ (読後、産後、病後、死後、などなど)。 一方、「後○○」という順番に並んでいると、 「後で○○する」の意味になるので (後払い、後書き、後出し、などなど)、 「後座屈」と言われると、なんか「後で座屈する」みたいで紛らわしい。 「 座屈後 」 が適切な訳語だと思う。
似たような意味で、漢字の孤立語的な機能に無頓着に造語したために 正反対の意味に取られそうな漢字熟語に 「無洗米」がある。 ウェブ上で検索すると、やはり 多くの人が「洗ってない米」のことかと思ったようだ。 「既洗米」 あたりに言い替えるのが穏当だろうか。

2010/12/10追記: 私の子供は小学二年生になったのだが、 子供の持ってくるプリントとかを眺めていると、 小学校というのは、子供のわかるような日常的な表現ではなくて、 あえて大人すらわからないような特殊な表現(小学校方言とでもいうべき)を 使っているなと思わされることがことが時々ある (なかには私自身、小学校卒業以後は全く使っていなかった 懐かしい表現もあったりする)。以下に随時 列記していきたい。
めあて: 「2年生の目標」とかの「目標」のことを 「めあて」と言うんだけど、 「めあて」って言われると、なんか悪いことをたくらんでいるかのような 印象を抱いてしまう。
ぎょうかんのじかん:たぶん、授業の間で「業間の時間」だろうか? 確かに私も小学校のときに使っていた。 「ながやすみ」とかいう表現も併用しているらしいが、 だったら最初から「ながやすみ」だけでいいのでは。
せいようけんさ:たぶん、「整容検査」で、ハンカチをもってきたかとか、 つめが伸びすぎてないかとかの検査らしい。 持ちもの検査とか、つめ検査(衛生検査?)とかでダメなんだろうか。
はした:子供が3年生になって算数で分数を習うようになったら、 「ケーキを4つにわけたはしたのかさ」だの 「はした3つぶんのかさ」だのと書いてあるプリントの まるつけをさせられた。教科書の方には「はした」とは出てこないので、 秋田弁かとも思ったが (地元方言の日常語が小学校教育に出てくること自体は、 私は全く問題視しないが)、ネットで検索すると、 それなりに小学校算数で使われているようだ。 「はした」の 辞書的な意味は、ちょっきりな量からずれる過不足のことだが、 そういうことではなく、 プリントの用法から判断するに、 どうやら全体をいくつかに分けた部分(の量?)ということみたいだ。 どうしてこういう日常で使わない用語を使いたがるのだろう。 もし、こういう日常にない用語をどうしても導入する必要があるのなら、 その言葉に初めて出会った子供たちに、用語の意味を しっかり説明しなければならない。 そういう意味では「かさ」だって、日常では使わない。 「量」とか「大きさ」とか小学3年生が日常語の範囲で 理解できる言葉だけを使っても十分に説明できると思うのだけど。

言い換え案

目次先頭

なんでもかんでも文章で説明しようとしない
(イラストや概念図を活用する)

 「百聞は一見にしかず」じゃないけど、 絵を見せた方が一目瞭然で理解を助けると思ったら、 絵を描く労力を惜しまずにちゃんと絵を描くこと。 冒頭の悪いプレゼン例みたいに、 なんでもかんでも 文章だけで説明してしまおうなんて横着は戴けない (「良いプレゼン例」と比べたら、 わかりにくさの差は歴然としてるでしょ)。 もし、パソコンのツールで絵を描くのがしんどい(というか 時間がかかって締め切りまで間に合わない)というのなら、 手描きの絵をスキャンしたってぜんぜん構わないし、 実は手描きの絵の方がわかりやすいということも よくある。 授業中の板書なんかもそうだけど、 手描きの絵というのは、あまり細部を描き込めないし、 正確にも描けないから、 無意識のうちに余分な情報をそぎ落として、 (不正確な絵でも伝わる) 重要なエッセンスだけが描き込まれた簡潔な図になるからだろう (あるいは、見る側も、まっすぐじゃない線とかが 情報の重要な部分ではないことを悟るからだろう)。 その意味で、イラストなどを入れる際も、 細部が詳細で写実的で情報量の多い絵よりも、 伝えたい部分の特徴が(多少デフォルメされても) 強調された簡潔なマンガ的な絵の方が伝わりやすいということはある。 例えば、薄い板を横にして橋を渡すよりも、 同じ板を立てて橋にした方が丈夫になるということを 説明する際に、 keta.png この絵を写実的に鉛筆画で写生したような芸術的な絵よりも、 この特徴をマンガ的に表した絵(そのうち描いてみる)の方が 説明したいことが伝わりやすいのだ。

式や記号の書き方

式や記号やグラフの書き方についても、 気をつけるべきことがいっぱいあるが、 基本的なことだけ簡単に挙げておく。

式1
式を書いたときには、その式の中に現れる 記号の説明はあった方がいいけど、 式と記号の説明が離れていて目を泳がせなきゃいけないのは見にくい。

式2
その意味では、 矢印とかで、記号と説明を近づけるのも一つの手だけど、 記号の説明が多すぎるとごちゃごちゃしてくる。

式3
プレゼンの中で式を見せるときというのは、 必ずしも式のすべてを正確に把握してほしいということではなくて、 その式がどういう物理的意味と対応しているかという程度の ことを知ってもらえばいい場合も多々ある。 そういう場合、言葉で式を書くって手もある。

式4
あるいは、その式が 単にどういうパラメータの関数になってるかということだけが 重要なことなら、 こういう書き方もあるだろう。

一方、 式が煩雑だということだけをアピールする目的で、記号の説明ぬきで、 わざとごちゃごちゃした式を見せるという場合もあるかも知れない。
式g
こんな剛性方程式の増分を取ると……
式t
こんな感じのとっても煩雑な式になってしまうから、 数値解法の工夫が必要になるんです。そこで本研究では……とかなんとか。

グラフの書き方

グラフは、論文等で使ったグラフをそのままスライドに使ってはいけない。 論文では、記号については論文中で説明されているだろうし、 どういう実験ケースとどういう解析結果を比較した グラフなのかといったことも文章を読めばわかるかもしれないけど、 発表スライドのグラフは、そのグラフを初めて見た人がわかるように 配慮して作りなおす必要がある。 まず、 式や記号の書き方と同様に、 グラフにしても、プロットと説明が離れているために 目を泳がせないとプロットや曲線が何を表してるかを確認できないような 描き方は避けて、できるだけ、矢印などで説明をプロットや曲線に近づけ た方が見やすい (エクセルやOpenOfficeなどの「凡例」表示をそのまま利用してはダメ)。
横軸や縦軸の説明を論文には記号で書いてたとしても、 発表ではわかりやすい言葉に書き換えていい。

グラフ2 ... グラフ1

軸の説明を記号ではなく、わかりやすい言葉に書き換えるのは当然として、 言葉でもなかなかその物理的意味がとらえにくい場合も多々ある。 そういう場合、 軸の物理的意味 (右側にいくとずんぐりしてきて、左側にいくとほっそりしてくるとか)を 簡単なイラストを挿入するとわかりやすくなるなら、 ぜひイラストを挿入すべきだろう。 また、プロットの説明も、矢印で言葉で示しただけではわかりにくい場合は、 その実験ケースを象徴する試験体の写真や解析モデルの図等を矢印で挿入したり してもわかりやすくなるだろう。 なるべく、初めて見た人の立場に立って、 どうすればわかりやすくなるかに気を使うことが重要だ。

グラフ
学生の作成したグラフの一例

(このグラフに挿入されている折り紙円筒の図や写真がなく、 「周方向パターン数」みたいな言葉も「Nc」みたいな記号で表されていて、 プロットに対応するモデルの写真や変形図が、このスライド上ではなく、 次のスライドに示されていたりしたら、 さぞわかりにくいだろう...ってことがわかりますかね?)

必ずしもいい例ばかりという訳にはいかないかもしれないが、 こちらに学生たちの発表スライドを公開してある

参考資料

日常化するNHKの捏造棒グラフ
エクセルを使ったグラフの描き方
EXCELべからず集
ひどい話です!
3D円グラフを使うのはやめよう
スライド2.0

目次先頭

色や文字飾りの使い方

色や文字飾り(文字列を囲む枠とか)も一定の情報を伝えることができるので、 色や文字飾りは、 情報と無関係に見た目を派手にするために無節操に使うのではなく、 効果的に伝えたい情報のために節約して 限定して使うのがいいと思う。 特にいくつかの対象物どうしを対比したりする場合に、 色による識別が有効かも知れない(といっても、せいぜい4個ぐらいまでかなあ)。 例えば、木材は、 に濡れると腐りやすいといった 話題を扱っている場合には、 集成材木橋といった に関係するキーワードを 茶色にして、 とか 湿度とか に関係するキーワードを にするとかである。 こうした =茶色 といったイメージの対応は、例えばグラフのプロットなどで、 木橋についてのプロットを 茶色にするといった場合にも 有効だろう。 これが、例えば、特に意味との対応もなく 1行ごとに違う色で文字が書かれていたり、そうした配色の方針が ページごとに違っていたりすると、 色の情報が何らかの意味を持つのかどうかを無意識に読み取ろうとしてしまったり させられて、色がかえって邪魔になったりすることもある。

文字の種類や、文字囲みの枠の形なども、色と同様に様々な情報を 与えることができる (その典型例は フローチャート だろう)。 例えば、景観の調査とかをやって、 アンケートなど人間の主観に関する項目を丸みを帯びた枠でくくったり、 グラフでは◯でプロットしたり、 画像処理などから機械的に得られる指標などに関する項目を四角い枠で くくったり、グラフでは□でプロットしたりとか。

必ずしもいい見本ではないですが、一例ということで(pdf)

なお、色に依存した(白黒にすると成立しなくなる)情報の区別を行う場合は、 色盲の人にもわかるバリアフリープレゼンテーション法を参照しておこう。 色覚異常の人は数%という割と高い比率でいるものなのだ。

文字だけのプレゼンシート
高橋メソッド

理工系の研究発表みたいなものの場合は、 図とかグラフとかがいっぱいあるのが普通だけど、 知的財産についての講習会とか、やや理念的なテーマで 文型的な要素の強いプレゼンでは、 発表内容の目次というか見出しみたいなキーワードやその要旨の 箇条書きみたいな文字の羅列だけをえんえんと見せられることがある。 それらの文字列を枠でくくって、矢印で結び付けたりして フローチャート的にレイアウトしているものはだいぶましだとは 思うが、絵がまったく出てこないで文字列だけという スライドシートは、なかなか集中して見続ける(というよりは 読み続ける)のがつらくなってくる。 内容が抽象的なテーマの場合には、なかなか その内容をうまくたとえるイラストとか概念図を入れにくいということは あるのだろう。

ちょっと前にウェブ上で、 高橋メソッド というのが話題になった (これはたぶん受けねらいという部分もあるだろうが、 ここではプレゼンの一手法としてまじめに受け取っておく)。 簡単な短いキーワードだけをスライドシート1枚に巨大な文字で書き、 それを1枚ずつえんえんと見せ続けるというものだ。 高橋メソッドについて高橋メソッドで説明している実例 を見てもらった方がどういうものかわかるだろう。 もちろん、 細かい字の箇条書きとかを見せられることに比べれば、 巨大な文字で書かれた短いキーワードだけを見せられた方が、 印象的だし効果的だろうとは思う。 が、私は、スライドシートで文字だけしか見せないんだったら、 何も無理にスライドシートを使う必要はないのではないかと思っている。 スライド方式のプレゼンというのは、 図やグラフを多用する理工系の研究発表みたいなものでは、 発表したい内容を聴衆にわかりやすく伝えるのに 実に有効で重宝する形態だと思うが、 図やグラフがまったく出てこないような理念的なテーマの プレゼンにおいても同様に有効だとは私は思わない。 なにもプレゼンツールにとらわれる必要はないのではないだろうか。 例えば、テーマによっては、 プロジェクターとスクリーンではなくホワイトボードを使って、 ホワイトボードにときどきキーワードを書き込みながら、 それを丸で括って強調したり、他の関連キーワードと矢印で 結んだりしながら、正に授業みたいにプレゼンした方がわかりやすい ということだってあると思う。

目次先頭

リンクを張る

スライド方式のプレゼンの場合、 いくつか前に示したシートに戻ったり、 ふと思い出したことを補足するのに、 ぜんぜん別のページのシートに飛んだりと、 シート間を行ったりきたりすることがある。 特に質問に答えるときはそうだろう。 OpenOfficeやパワーポイント、Adobe Readerなどのプレゼンツールでは、 全スライドシートの縮小画像を目次として示せる機能がついてはいるが、 一端 全シートの目次を示してから目当てのシートを選んで表示するという やり方は、マウスを数回クリックする必要あるし、 プレゼンツールの画面が全画面表示から操作画面表示に切り替わったりして、 どうしても無駄な操作が多くなってしまう。 もし、全シートの枚数がせいぜい10枚程度なら (10分以内の発表ならそれぐらいで十分なはずだと思うが)、 すべてのシートの下部とかに、すべてのシートの ページ番号とそのシートの内容が発表者に一目でわかる簡単な キーワードを、 「1:はじめ, 2:モデル, 3:製作, 4:装置, 5:載荷, 6:破壊, 7:結果, 8:まとめ」 みたいに書いておいて、そこから各シートにリンクを張っておくと便利かも しれない。 こうしておけば、どのシートからでも、どのシートへでもワンクリックで 移動できる (学生さんが作った例:発表用pdf)。

スライド方式以外のプレゼン
巨大な1ページ方式

OpenOfficeやパワーポイントなどのプレゼンツールでは、 スライドシートを1枚ずつ順番に見せていくというスライド方式が 前提となっている。 これは、スライド映写機やOHPでプレゼンしていた時代の名残りなのだと 思うが、パソコンというのは、 別にスライド方式に限らず、いくらでも自由な 情報の提示方法ができるのだから、 これからのプレゼンは、 パソコンの自由度を活用して、もっと新しいプレゼン方法を色々と ためしてほしいと思っている。 私自身も今は、新しいプレゼン方法を模索している途上である。

私がスライド方式の一つの欠点と感じるのは、 スライドシートを切り替えるときに、どうも話の流れが 途切れやすくなってしまうということである。 そうならないように、 シート切り替え時に黙りこくってはダメみたいな 話も後述するが、特に学生とかは、 1枚ずつシートを作っていくと、 どうも1枚ずつで話が完結するようにシートを作ってしまう傾向がある ようなのだ (「どんな構成がいいか?」の最初の例のように)。 だから、ことさらに次のシートとの話のつながりを強調して、 2ページ目の下の方に「これで、どうなるかというと?」 みたいなキーワードを入れておいて、 3ページ目の頭には「意外なことに...」みたいなキーワードを入れたりして、 なるべく話の流れが切れないように工夫させるのだ。

私は新入生などに講座紹介をやるときに、 そのためにスライドシートを用意したりするのはめんどうなので、 自分のウェブサイトに公開している 講座紹介のhtmlファイルを ブラウザーで開いて、全画面モードにしてから、 それをマウスでスクロールしながら説明したりするのだけど、 こういう縦方向に長い1ページを、 ページを切り替えることなく、少しずつ下にスクロールしながら、 ときどきちょっと上に戻ったりしながら見せるというやり方は、 スライドに比べて話の流れが切れにくくて、その点では いいかなと思うのだ。 ただ、もちろん、htmlファイルを手書きしようとすれば、 図やキーワードを好きな場所に配置して、それらを矢印で 結んだりといったレイアウトをいじるのはなかなか難しい。 まあ、プレゼン作成ツールに縦長1ページでのプレゼンに適した htmlファイルを吐き出す機能がつけばいいだけの話だが。

通常のウェブページのhtmlファイルは、縦に長い1ページだが、 マウスのドラッグ操作で、画面を上下方向に限らず、 左右にでも斜めにでも移動させながら見せたい部分を選びながら見せようと思うなら、 巨大な1ページに、見せたい図やグラフやキーワードなどなどを ホワイトボード上にメモするかのようにペタペタと貼り付けておくという やり方もあるかも知れない。 つまり、例えば10枚ぶんのスライドシートを1枚ずつ見せるのではなく、 シート10枚ぶんの図やキーワードを1枚の巨大なページ上にすべて貼り付けて しまうのである。 こういう巨大な1ページを作成すること自体は、 適当なパソコンツールを使えば pdfファイルとしてでも、画像ファイルとしてでも、 可能である。 実は、こういうやり方を私は最近 少しずつ試し始めているのだが、 pdfファイルで巨大1ページを作成した場合、 Adobe Readerでこれを開いて、 ちょうどスライドシートだったら1枚ぶんぐらいの部分が、 画面全体に表示されるように倍率を800%とか、すごく大きくしてやる。 すると、マウスでドラッグしながら、少しずつページを右とか下とかにずらして、 次に見せたい部分を見せるということができる。 ただ、Adobe Readerだと一部を拡大して見せたり、逆に縮小して全体図を 見せたりしたいときに、いちいち拡大ボタンや縮小ボタンをクリックしなければ ならず、拡大縮小に関してはあまり便利ではない (と思っていたが、Adobe Reader 8 では、Cntlキーを押しながらスクロールキーを 回すと、拡大・縮小ができ、ドラッグして拡大箇所を移動できるので、 以下のEye of GNOMEのような使い方もできる)。

その意味では、画像ファイルとして巨大な1ページを作っておいて、 プレゼンに適した機能のある画像ビューアーで表示するというのも いいかもしれない (画像なのでpdfのようにキーワードからリンクを張ったりということはできないし、 あまりにピクセル数の大きい巨大なサイズは扱えないかもしれないが)。 私が使っているLinuxパソコンには、Eye of GNOMEという画像ビューアーが 入っているが、これはなかなかすぐれものだ。 巨大な1ページの画像ファイル(形式はpngでもjpgでもなんでもいいだろうが)を 全画面モードで開いて、マウスでドラッグして好きな方向に動かせるのは もちろんだが、マウスのスクロールボタンで拡大・縮小ができるのが便利だ。 例えば、関係のある複数のグラフを上下方向とか左右方向に並べておいて、 1つずつ細かく見たいときは、見せたいグラフの上にマウスを置いて、 スクロールボタンで拡大して1つのグラフだけを見せることもできるし、 複数のグラフどうしを比較したいときには、スクロールボタンで 縮小して上下、または左右にグラフを並べて見ることもできる。 ちょっと前に見せた図に戻りたいときも、 巨大な1枚の中のあの辺にあの図が貼り付けてあるというイメージが しやすいので、すぐにその場所までドラッグしながら移動できる。 Windows用の画像ビューアーの中にも、こういうことができる ものはあるかもしれない(Windows XP標準の画像とFAXビューアでは スクロールボタンでの拡大・縮小はできるようだが、マウスでドラッグして 画像を動かすことができないようだ)。

目次先頭

大きい声で

 人前で発表するときは、大きい声でないと 後ろの方の席の人は聞こえないというのは当たり前のことなのだが、 人前で発表するときに大きい声を出さない (それどころか、普段 友達とかに喋る声よりも小さい声しか出さない) 人が、(大学生になってすら)意外に多くいるものなのだ。 まあ、マイクとかを使える会場ならそれでもいいのだが、 通常の学会とかでは、大学の講義室とかを使って マイクなしで行われることの方が多い。 その場合、実際問題として、 普段、友達とかに喋っている程度の声しか出さなかったら、 後ろの方の席の人には、ほとんど聞こえない。 教室の前の方から一番 後ろの方の席にいる友達に 話しかけているつもりで、普段よりもかなり大きめの声を 出して発表しよう。

 もしかすると、小さい声では聴衆に聞こえないことを承知の上で、 「なんとか、その場をやり過ごせればいいや」と 確信犯的に小さい声で発表している人もいたりするかも知れない。 というか、声の小さい人の場合、 発表練習とかで、「聞こえないから、もっと大きい声を出して」と 頼んでも、大して改善されないことが多いことを考えると、 小学、中学、高校の学校教育の場でも、 小さい声で発表する態度を特に注意されなかったために、 今までの人生で大きい声を出す訓練をしないできてしまった ということなのかも知れない。 しかし、 「小さい声で喋って、周りの人に聞き取りにくいという不便を与える」 という「みんなの不便」 よりも 「自信がないから、恥ずかしいから大きい声を出したくない」 という「自分の都合」の方を優先しているということなのだとすると、 それなりに問題がある。 まあ、対人関係上の性格の問題とか、精神の問題というのは、 色々とデリケートな部分もあるので、 「大きい声を出そうとしても、どうしても恐くて出せない」 といった人はどうすればいいかという話になってくると、 人前で話すことを想定している プレゼンの手引の範疇から外れるかもしれない。 というか、 (大学を含めた)学校という社会では、 学生・生徒はある種のお客様なので、 自信がなさそうに小さい声で発表すると、 自信がなさそうだからと手加減してくれる教員も いるかも知れないけど (だから、学校という特殊社会においては、 そういう温情に甘えた態度を取ることも、 保身のための一つの消極的な戦略にはなり得てきたかも知れないけど) 、 ますます競争が厳しくなる実社会で、 そんな手加減や温情を期待した甘えた態度を取ったら、 真っ先に切り捨てられてしまいそうだ (というか、確信犯的に小さい声で発表してるような人ってのは、 厳しい体育会系の?社員教育を受けた途端に、ころっと 大声で挨拶したりするようになってたりするのかも知れない。 だからといって、私は体育会系の厳しい指導なんてするつもりはないけど)。 そういう処世上?の意味も含めて、 (今後、実社会に出てから声の小ささごときで 悪印象を与えて不利にならないようにするためにも)、 こういう機会に、大きい声で発表する訓練をしておくことは 損ではないと思う。

 念のため補足しておくと、大きい声を出さない人のほとんどは、 上述したように、単に大きい声を出す習慣を身につけないで しまったということだと思うが、 中には、喉とか発声機構とかの問題で、本当に大きい声を出すことが できない人もいるかも知れない (程度問題だろうが、様々な精神的な理由によって大きい声が出せない ということもあるだろう)。 これは程度問題だが、その場合は、 例えば「私は大きい声が出せないので前の方に来て静かに聞いて下さい」 と頼むとか、拡声器を携帯するとか、 様々な対処方法があり得るとは思う。 私は、後述するようにポインターではなくて指示棒を使って発表したいので、 発表のときは携帯用の指示棒を持っていくが、 検索してみると 携帯用の拡声器 (用途には、「喉頭摘出者」だの「プレゼンテーション」「教師」などとある) みたいなものもあるようだ。 ちなみに、 手話はできるけど、口話は苦手という人が、 手話通訳者に同時通訳で発表してもらうというのだって あり得ると思う。 ホーキング博士の場合は、 パソコンの読み上げソフトを使って発表しているし。

目次先頭

「ああー」「ええと」「まあ」は入れていい

 プレゼンのコツを述べたウェブサイトなどを見ていると、 「ああー」「ええと」「まあ」といった間投詞的な言葉が入ると聞き苦しいので、 こういう意味のない言葉は入れない方がいいと助言しているものが割と多く 見受けられる。が、私はそうは思わない。 まず、自分の癖となっている間投詞的な言葉が出てしまうのを無理に我慢することは、 (そんなどうでもいいことに無駄に意識を集中させて) かえって緊張を高めたり、吃りを誘発したり(まあ、吃り自体は別に 構わないと思うけど)、 (何も喋れなくなる)沈黙の時間を誘ったりしかねない。 誰だって、普段、友達とかと喋るときは、 「ああー」「ええと」「まあ」 といった間投詞的な言葉を多用しているし、 早口になって吃ったりするけど、それで話が通じないなんてことはないし、 むしろ、間投詞を一切 はさまずに明瞭な活舌で話される NHKのニュース よりもよっぽどわかりやすいはずだ。 外国語の会話や聞き取りの練習をやったことのある人ならわかると思うけど、 話される言葉を耳で聞き取って理解する場合には、 「ああー」「ええと」「まあ」といった無意味な言葉が挿入されることによる 冗長性や、同じ言葉や文が何回も繰り返されることによる冗長性があった方が、 一部分でも聞き逃すと意味が通じなくなってしまう (から、常に集中して聞いていなくてはいけない)ような まるで無駄のない NHKのニュース みたいな文をよどみなく聞かされるよりも、よっぽど聞き取りやすいし、 気楽に聞ける (だから、外国語学習において、ニュース番組の聞き取りというのは、 日本語のニュースが聞き取りにくいのと同じように、 どんなにアナウンサーの発音が明瞭であっても、 冗長性のない書き言葉なので 難しいんだと思う。やはり、 聞き取り練習は、日常会話というか、練習相手がいるなら 雑談から入るのがいいと思う) 。 それに、「あれ?」「あ、そうそう」といった間投詞的な言葉に 話者の感情が反映されると、聴衆も感情移入しやすくなる。 喋ることをど忘れしてしまったときに、 ただ沈黙されて「気の毒そうな人」と にらめっこさせられるよりは、 「ええと、ええと、あれ?、なんだっけ、ええと、ああ、そうです、そうです」 みたいに喋っててもらえた方が、 聞いてる側としても気が楽だし、沈黙されるよりはよっぽど好感が持てる (私は)。

目次先頭

レーザーポインターよりは指し棒
ポインターだとジェスチャーができない
文字通り「指し示せる」指し棒がわかりやすい
パソコン(やOHP)にはりついていてはダメ

 ホールみたいな でかい会場で、 大きなスクリーンを離れた演題から指し示さなければならないような 場合は、レーザーポインターみたいなのを使わなければならないかも 知れないけど、 普通の学会の多くのセッションは、教室みたいなところで、 (授業に使う程度の)小さめのスクリーンを使うことが多く、 スクリーンとパソコン(やOHP)との距離も、 二、三歩で行き来できる近さであることがほとんどだと思う。 そういう(指し棒が使える状況の)場合は、 レーザーポインターを使うよりも指し棒を使った方が いろんな利点があり、見ていてもわかりやすいと思う。

 まず、レーザーポインターは、 発表者の手許とスクリーン上のポインターをつなぐものが、 何も見えないので、 ポインターをくるくる回したりとかしないと、 ポインターがどこを指しているのかわかりにくい (スターウォーズのライトサーベルのように、 ポインターの先からスクリーン上までのビームの線が 見えるポインターがあったらいいけどね)。 それに、ポインターは、 手許をちょっと動かしただけで大きく動いてしまうので、 手を伸ばして文字通り「指し示す」訳にはいかなくて、 体から僅かに突きだした手を、そこに固定したような 状態で発表せざるを得ず、 「問題は、ここ、ここなんです!」 みたいに強調したくても、なかなか大きな身振り手振りをすることができない。 これはプレゼンにとって致命的なことだと思う。

 手話においては、ジェスチャーや顔の表情が極めて重要な情報伝達の機能を担っているが、 口話においも、ジェスチャーや顔の表情や声の抑揚は 少なからぬ情報量を伝えているのだ (例えば、ドライブスルーで店員の声だけを聞いて注文するのが、 店員の顔を見ながらの注文に比べてやりにくい訳もその辺の 問題だろう) 。 聴衆はスクリーンだけを見ていてくれればいいという プレゼンの態度は戴けない。 発表者の顔の表情やジェスチャーが スクリーンの脇で見えるかどうかで、 発表のわかりやすさは大きく変わってくる。 その意味で、 発表者のジェスチャーの延長上に 指し棒を介して(文字通り)指し示される情報の方が、 発表者の姿やジェスチャーとは切り離されて スクリーン上に突如 現れるポインターによって示される情報よりも ずっとわかりやすいのだ。 このわかりやすさのメリットに比べたら、 指し棒で指し示すことによって、 スクリーン上の画像が、 棒や手や体で遮られて影になってしまうなんてデメリットは、 取るに足らないことだと思う。 スクリーンが小さいなら、よしんば指し棒すら使わずに手で指し示したって 構わないし、その方が自然だと思う ( この程度の大きさのスクリーンなら、私は指し棒なしで、 スクリーンを素手で指し示しながら発表する。 スクリーンに自分の影が写ることなんで、 まるで気にしないけど )。

 指し棒の発表の対極にあるのは、発表者が パソコンのディスプレーを見つめっぱなしで そこから動かずに マウスとかのポインターを動かして発表するというやり方だろう。 OHP時代の発表でも、 スクリーンの方ではなくて、OHP のシート台の上にペンとかを置いて 指し示す人とかもいたものだけど、 こういう「聴衆はスクリーンだけを見ていてくれればいい」という 態度のプレゼンは、 ジェスチャーや顔の表情の持つ情報量を軽んじていると思う。 それがあるとないとではわかりやすさが大きく違うのに。 その意味で、リモコンが使えない環境で、特に演出上 必要という訳でもない スライドイン方式のアニメ操作のために パソコンに張り付いてマウス操作やキー操作に専念してしまうのも私としては 戴けない。

 という訳で、指し棒が使えるような発表環境であれば、 指し棒を使った方がいいと思うが、 会場にはレーザーポインターしか置いていないことも多いので、 携帯用の指し棒(ロッドアンテナみたいなやつ)を 持っていくといいかも知れない。

目次先頭

どこに立つか
シート切り替え時に黙りこくってはダメ

 指し棒を使う意図は、聴衆に発表者の表情やジェスチャーを 見えやすくすることだが、 だからといって、最初から最後までスクリーンの真ん中に立っていたら、 投影画像(の真ん中へん)をもろに遮ってしまう (とはいえ、スクリーンを指しながら説明している途中で、 必要に応じてスクリーンの真ん中に歩み出てもぜんぜん構わないと私は思う)。 という訳で、特にスクリーンを指し示していないときなら、 スクリーンの右側か左側かに、 (聴衆から顔が見えるように)体を横にして (次にスクリーンを使うまでに時間的余裕があるなら完全に聴衆を向いて)立つのが いいだろう。 (スクリーンに向かって)右側に立つときは (顔や体が少しでも聴衆側を向くように) 右手に指し棒を持った方がいいし、 左側に立つときは同様に左手に指し棒を持った方がいいだろう (但し、右に立つか左に立つかはスクリーンなどの位置の関係で 決まるので、どちらの手に指し棒を持っても 発表できるように練習しておくといいかもしれない)。 で、右と左のどちらに立つかだが、 基本的に、部屋の正面に向かってスクリーンが右側にあったら、 (少しでも多くの聴衆に顔が見れるように)スクリーンに向かって右側に、 スクリーンが左側にあったら同様にスクリーンの左側に立つのが いいかと思う。 但し、シートの切り替えがリモコンなどでできず (できないことの方が多いだろう)、 パソコンを置いてある場所まで行って切り替えを行わなければならない場合や、 OHPシートを置き換えなければならない場合は、 スクリーンとパソコン(やOHP)の位置も関係してくる。 まあ、常識的に考えて、 スクリーンが右側にあったら、(発表者はスクリーンの右側で発表するから) 発表者がスクリーンの前を横切らなくて済むように パソコン(やOHP)も右側に置いてあるだろうし、 スクリーンが左側にあったら、同様にパソコン(やOHP)も左側に 置いてありそうなもんだが、 様々な事情 (コンセントの位置の関係とか、 延長コードが足りないとか、 入口のドアとぶつかるとか、会場設営者が、その辺のことをまるで 考えてないとか)、 必ずしもそうなっていないこともある。 そういう場合は、 場合に応じて、優先すべきと思ったことを優先して、 その犠牲になることを犠牲にするしかないだろう。 例えば、スクリーンが右側にあるのに、 パソコンがスクリーンの左側に置いてあったとして、 もし、聴衆に顔の表情やジェスチャーを見せることの方が、 スクリーンの前を横切ることよりも優先すべきと考えたなら、 スクリーンを横切ってスクリーンの右側に立てばいいだろうし、 スクリーンを横切らないことを優先すべきと考えたなら、 スクリーンの左側にたって、左側の席の人には顔が見えなくても 我慢してもらうとか。

 指し棒が使えるような発表会場の場合、 スクリーンとパソコン(やOHP)の距離は、 せいぜいい二、三歩で行き来できる近さであることがほとんどだと思う。 仮に十歩ぐらい離れていても、 私だったらポインターではなく、スクリーンまで歩いていって 指し棒で発表する。 で、二、三歩とはいっても、 そこを往復し、パソコンで画面切り替えの操作 (やOHPでシートを置き換え)をするのには、 数秒間の時間を要する。 この間 完全に黙りこくってしまうのは、時間の浪費でもあるし、 発表の流れがそこで完全に途切れてしまって 興味や集中力をそがれてしまう。 どんなにシートの一枚一枚のストーリー展開の流れが なめらかにつながるように構成されていたとしても、 シートとシートの切り替え時に数秒間の沈黙が入ると、 せっかくのストーリー展開の流れがそこで止まってしまい、 演出上 かなりマイナスになる。

 一枚のシートで言うべきことが終わりそうになったら、 喋り終わる前にパソコン(OHP)に向かって歩き出して、 シートの切り替え操作をしている間も、 「で、ここでどうなったのかというとですね……」 「……実は、なかなか面白いことが起きたんですよ……」 みたいな適当なつなぎの言葉を欠かさないこと。 操作に手間取って、シートの切り替えに もたついたとしても、 「あれ、おかしいですね」 「ここをクリックすればいい筈ですよね」 とか、何か喋ってること。 焦って沈黙するのは良くない。 で、画面が切り替わったら、その時点で、 「はい、これなんですけど……」 みたいな感じで、スクリーンに向かって歩きながら 次のシートの発表を始めて構わない。 だから、発表練習の時は、 たとえ机に座ってパソコン画面や紙を 見ながら練習するとしても、 シートの切り替えのときは、 喋り続けながらいったん立ち上がって、その辺を歩き回るとかして、 シート切り替え時につなぎの言葉を喋る練習もちゃんとやっておくこと。

目次先頭

配布資料はあった方がいいか
スライドシートの集約印刷を配布する風習

学会発表などの場合は、 その会場で行われる発表内容の概要は、 事前に講演概要集の冊子やCDなどの配布資料として 参加者に配られたり売られたりしている。 発表を聞いていて 記号や用語の説明などを聞き逃したときに、 配布資料を見て確認できるという利点はあると思うし、 特にわかりにくい発表などでは、 配布資料の方を先読みしながら、わかりにくい発表の 趣旨をかろうじて解読しながらついていくなんてこともある (司会を頼まれたときなどは、 この配布資料が重宝する)。 だから、プレゼンだけではわかりにくい部分を補うという意味で、 あるいは、プレゼンを聞いた後にじっくり熟考するために 配布資料があった方がいいとは思うが、 それも程度問題ではあると思う。

最近、やや長めの講演などで、 プレゼンに使うスライドシートそのままの画面を、 A4縦1ページにスライドシート6枚ぶんぐらいずつ 縮小して集約印刷したものを配る風習がある。 もし配布資料を配るんだったら、 発表内容の概要として ちゃんと配布資料に適した形式に編集し直したものを 配るべきだと思うが、 配布資料を全く用意しないよりは、 スライドシートそのままの集約印刷でもないよりはあった方が 親切だというぐらいの考えなのかも知れない。 人によっては、 ちゃんとした配布資料を用意してあるのに、 わざわざスライドシートの集約印刷をも配布したりすることもあるので、 配布資料を用意する暇がなかったからという理由だけではなく、 積極的に スライドシートの集約印刷を配りたいと考えている人たちが いるようだ。

先日、ある講習会で、発表者のプレゼンを聞いていたら、 プレゼンシートが7枚目ぐらいにさしかかったときに、 会場じゅうで、かさかさと紙をめくる音が鳴り響いた。 なにかと思ったら、どうやらみなさん、 配布されたプレゼンシートの集約印刷を見ながら発表を聞いていて、 スクリーンの方のプレゼンシートが、 7枚めになったところで、 集約印刷の方の2ページめをめくったということらしい。 ということは、会場の大多数のみなさんは、 プレゼンを聞くときに、集約印刷の方も見ながら聞いているようで、 私はちょっと驚いた。 プレゼンというのは、前述したように、 発表者の表情やジェスチャーによって伝えられる情報がばかにならないが、 聴衆が手もとの集約印刷ばかりを注視して、 肝心の発表者の表情やジェスチャーを汲み取るのがおろそかになってしまったら、 プレゼンの演出上、かなりの損失だと思う。

私は、前述したようにプレゼンにおいては表情やジェスチャーが伝える情報量を 軽視すべきではないと思っているから、 こういうふうに聴衆が発表者の表情やジェスチャーを見る頻度を 落とす方向性の余計な配慮はやるべきではないと思っている。 その意味での典型的な悪い例は、 大学の情報端末室を使った授業などで、 学生は、机の前のパソコン端末に映し出されたプレゼンシートを見ながら、 教員の声だけを聞くといったようなスタイルの プレゼン方法ではないかと思う。 もちろんこれは、設備がそうなっているから、 教員の方ではどうしようもないということもある。 例えば、秋田大学の情報端末室は、 前後左右の壁に1つずつ4つのスクリーンがあって、 学生は、そのうちのどれか最寄りの1つのスクリーンを見ながら 授業を聞いてくださいという仕様になっていた。 スクリーン上に映し出されたパソコン画面を自分の手で 指さしながら授業をしたい私としては、 この配置はとてもやりにくかった (私のジェスチャーを見てほしかったので、 正面のスクリーンだけにパソコン画面を映して授業をやったりしたが、 後ろの方の席の人は見にくかったかもしれない)。

というようなわけで、 聴衆に自分の表情やジェスチャーをちゃんと見てほしい人は、 プレゼンシートの集約印刷を配るべきではないだろう。 自分の表情やジェスチャーを見てもらうことを特に重視するのであれば、 配布資料も事前には配らずに、 発表が終わってから配るという方法もあり得るだろう (発表だけでじゅうぶんに理解してもらえるわかりやすい 発表ができるという前提でだが)。

それからもう一つ、 プレゼンシートの集約印刷を配布する風習が一般化してくると、 集約印刷にしたときに、 発表内容の概要となる配布資料の機能もかねようとして、 プレゼンシートの内容が、 プレゼンには適さないスタイル (長い文章や過剰な補足説明)になってしまうような 悪い影響もありそうだ。 私の大学院時代の指導教員の一人と後輩の共著 『鬆徒労苦衷有迷禍荷苦痛 』 の プレゼンテーションの項でも、この件について触れているので引用しておく。
口頭で説明を加えることによってはじめて完結する情報発信が, プレゼンテーションの目的である。 したがって,口頭の説明を聞かずにスライドのコピーだけを読んだ場合には, 実はその内容は正しくは伝わらないのが当然であって, それでもそのスライドの価値は下がらないのである。 (p.617) (html版) 」
私もこの意見に同意する。 前述したようにプレゼンシートには、 短いキーワードやデフォルメされたイラストなど、 短い時間に認知されやすく単純化された情報だけを適切に配置しておくべきだ。 それらの単純化された情報の組合せがいったい何を意味するのかは、 発表者のプレゼンを聞いてその意味が理解できた時点で、 「なるほど」と思えるわかりやすいものであればいいわけで、 初めてそのプレゼンシートだけを見た人が、 なんの解説もなく理解できるようなものである必要はない。 プレゼンシートだけで理解できるようなものを作ろうとすれば、 補足説明の長い文章なり詳細な図面なりが必要になってくるだろうから、 既に述べたようにそんなものは当然、 プレゼンシートとしては全く適さないだろう。

目次先頭

質問の答えかた

質問に対する答えというのは、 話し相手のいる会話なのだから、 プレゼン以上に話し言葉であるべきだろう。 例えば、 (卒論発表会などではありがちなことだけど) 質問者(である先生とか)の側が、 「あれ、そこのプロットだけ飛び出してるのはなんでかな?」みたいに 普通の話し言葉で質問しているのに、 発表者(である学生とか)の側が、 「はい、それにつきましては、さきほど申し上げましたように、 ××の影響ではないかと考察しております。 では、こちらのスライドにて説明させて戴きます」 みたいな用意してきた想定質問に対する回答をそのまま読み上げているかのような 返答をしてくることが多々あるんだけど、 これでは対話にも議論にもなってないし、 自分の言葉で普通に話しかけてきた相手に、 自分の言葉ではなく用意しておいた書き言葉で返答するというのは、 逆になかなか失礼なことだとすら私は思う。

基本は、質問者と一対一で話すとしたらどういう言葉を使うのかという ことだと思う。 研究室で自分の指導教員に何かを聞かれて、 「はい、それにつきましては、さきほど申し上げましたように…」 なんて口のききかたは普通はしないだろう。 せいぜい、 「あ、さっきの絵にもあったんですけど、 たぶん××の影響じゃないかなと思うんですけど…」 とか、せいぜいそのぐらいじゃないだろうか。 卒論発表とか学会発表の質疑応答は、 それくらいでじゅうぶんだし、むしろ自然だと私は思う。 とはいえ、指導教員とは友達感覚でタメ口や方言で話すという 学生もいるかも知れないが、 発表会での質疑応答というのは、一応は、 プライベートな会話とは区別されるものだろうから、 人前で話すことを意識した程度の 「そこそこの丁寧語」「そこそこの共通語」にしておいた方が無難だろう。 例えば、親子で学会に参加していて、 子の発表に対して親が、 「そいづおがしいべ」と質問したり、 子が「んだってやー」ど答えたりというのも、 個人的にはほほえましいと思うが、まあ、その辺は その親子関係が場に周知されているかとか、 会の雰囲気とかに依存する 程度問題ということで。

さて、質問の答えかたで一番 問題になるのは、 「わからない」質問にどう対処するかということではないだろうか。 明らかに一番まずい態度は、沈黙であろう。 質問者にしてみれば、質問に答えようと考えているのか、 質問がわからなくて黙っているのか、判断できない。 後者だとわかれば、すぐに質問の仕方を変えるとかできるかも知れないし、 司会の判断で他の(答えられそうな)質問をしそうな人の質問に移ることもできるのに、 「わからない」からと沈黙することは、 発表・質疑の時間が限られている学会などの発表会では、 それなりに罪が重い。 卒論発表の心得とかの中には、 「わかりません禁止」みたいなものがあったりもするようだが、 わからないからと沈黙されるよりは、 「わかりません」と答えられない理由をさっさと教えてもらえた方が 質問方法を変えるなり別の質問に移るなりできるぶん、 ずっとましだと私は思う。 では、わからないときは「わかりません」とすぐに答えればいいのかというと、 一概にはそうとも言えない。 特に学生とかの場合、 わからないときはわかりませんと言っていいよと言っちゃうと、 ちょっとでも答えにくそうな質問に対してなんでもかんでも 「わかりません」とだけ答えて思考停止してしまうような態度を とりかねない (「わかりません禁止令」みたいな発表心得も、要はそういう態度を 防止しようという意図だろう)。 一概に「わからない」と言っても、実際には 様々な段階や状態がある。 おそらく多いのは、 聞いたことのない言葉や、なぜそういう話題が出てくるのか 関連がまるで想像できないような話が出てきて、 質問の意味や意図がまるでわからないために、 まったくちんぷんかんぷんでうろたえてしまうといった状態ではないだろうか。 一般に、 専門を知っている人は、相手も専門知識があるという想定のもとに、 専門用語や、その業界でよく使われる独特の言い回しを 使ってしまったりしがちである。 そういう場合、 ちゃんと質問者の意図さえ伝われば、知識的には答えられる質問であること もある。 だから、質問の意味がわからないときは、 「質問の意味がわからない状態なのだ」ということを 早めに質問者に伝えた方がいいと思う。 例えば、 「それ、アイソパラメトリック要素だと思いますが、 シェアロッキングとか起きてませんかね」 とか聞かれて、 「アイソパラメトリック要素ってなんだ?」 「シェアロッキングってなんだ?」 という状況だったら、 まずは、「アイソパラメトリック要素ってなんですか」みたいに 聞き返してみることだと思う。 もちろん、自分の専門に関して当然 知っているべき用語を 知らなかったりすれば、それはそれで恥ずかしいことだけど、 恥をかくかもしれないからといって沈黙するのは、 それ以上に恥ずかしい態度だと私は思う。 「アイソパラメトリック要素」と言われて、 これは要素のことを聞かれているようだと察して、 「ええと、使っているのは節点が8個ある直方体の形をした要素なんですけど」 みたいに、とりあえず自分の知識で 掌握している範囲のことを答えてしまうとうい手もあるかも知れない。 その辺の答えかたで、 質問者の方でもこれはシェアロッキングという言葉も知らなそうだなと 察して、 「ええと、直方体みたいなソリッド要素だとすると、 もっと軸方向の要素分割を細かくしないと精度が悪くなりそうだと 思ったんですが、軸方向の要素分割はどれくらいなんですか」 みたいな答えやすい質問に変えてくれたりするかも知れない (特に学会とかの発表会では)。

逆に、質問の意味はわかるけども (あるいは、質問を言い直してもらったら意味がわかるようになったものの)、 それに答えられる知識を自分は持っていないことがはっきりしている 場合は、自分にはわからないということを (できれば、わからない理由とともに)きちんと答えるべきだろう。 例えば、入力データは他の人が作ったものをそのまま使ったので、 自分は要素数とか細かいことを把握していないということであれば、 「私は入力データの中身はチェックしなかったので、要素数とか その辺のことは把握してないんです」みたいにはっきりと 答えるべきだと私は思う。 そうすれば、もう入力データに関する質問はこなくなるから、 答えられない質問で時間が無駄になるのを避けられる。

もちろん、答えられると思った質問は、 どうどうと簡潔に答えればいいだろう。 質問された側が、 「質問、ありがとうございます」みたいな余計な言い回しを 付け足す習慣はそれほどないとは思うが、 質疑の時間が限られた学会などでは単刀直入に簡潔に答えることが 大事だと思う。

質問のしかた

発表・質疑の時間が限られている学会などでは、 限られた時間内に少しでも多くの疑問が解決した方がいいから、 質疑・応答は単刀直入に簡潔になされることが優先されると私は 思うのだが、 どうも回りくどい前置きを入れたりする風習というか 学会方言のようなものも一部にはあるようだ。 例えば、 「興味深い発表でとても勉強になりました。一つ教えていただきたいのですが…」 みたいな前置きを入れる人はときどきいるけど、 こういうのは不要だと私は思う。 質疑というのは、質問する側が質問される側を攻撃しているかのように 映る要素もあることにはあるから、 「あなたを非難してる訳ではないよ」「ほんとに教えてほしいだけなんだよ」 というニュアンスの前置きを入れて穏便に聞きたいということなんだとは 思うけど、 私からすると、 質疑・応答や議論が白熱して一見 攻撃的やりとりになったとしても、 それは 疑問解決に向かう充実したステップであって、 人格攻撃とはまったく違うのだから、 別に多少 攻撃的な感じになったって構わないと思う。 とはいえ、学会に初めて出てきてびくびくしているような学生とかに 対しては、 なるべく相手を脅さないように質問したいというのもわからなくはない。 例えば「あの式は間違っているな」と思ったとしても、 「その式は間違っていると思います」なんて言ったら、 仮にその前に「一つ教えてほしいんですが…」なんて前置きが入ったところで 学会初出場の学生とかはびびってしまうから、 例えば 「ええと、 スペースの関係で式を略してるということだとは思うんですが、 変位の増分をとったら、実際にはその括弧の中身の微分とかが いっぱい出てくるんですよね」 みたいな善意の解釈をしてみるとか (これはこれでわざとらしいかも知れないが)、 そういうことはあるとは思う。 ただ、この文章の読者に想定されているようなプレゼン初心者に関しては、 そういうことはあまり気にしないで、 疑問に思ったことは率直に聞けばいいと私は思う。

一般に 質問には「はい」か「いいえ」で答えられるようなことを問う 質問と、 「なぜ」かや「どういうふうに」かを問う質問とがある。 「はい」や「いいえ」で答えられるような質問は、 質問をする側に質問を考える労力が必要とされ、 質問に答える側は労力を必要としないのに対し、 「なぜ」や「どういう」を問う質問は、質問するのは簡単だけど、 それに答えるには結構 考える必要があったりする。 しかも、「なぜ」や「どういう」を問う質問では、 回答範囲が広いため、 質問者の意図が正確に伝わらずに、質問者の意図とはずれた 回答が返されることも多い。 そういう意味で、限られた時間内の質疑では、 「はい」か「いいえ」で答えられる質問の方が望ましいとは思うものの、 「あれはなぜだろう?」「どういうことなんだろう?」と 思ったときに、とっさに「それはこういうことですか」みたいに 「はい」か「いいえ」で答えられる質問を作るのはなかなか難しい (これができるには、その答えをある程度 予測できることが必要である)。 だから、ついつい「なぜ」や「どういう」と聞いてしまって、 質問者の意図と回答者の意図が食い違って平行線なんてことはよくある。 例えば、 有名な例だが 「氷がとけたらどうなりますか」という質問に対して、 質問者の想定する答えは「水」だったが、 「春になります」という答えが返ってくるなんてことは、 もっと難しいやりとりがなされる学会とかでは日常茶飯事だろう。 そういう場合、 仮に「なぜ」や「どういう」で質問するにしても、 具体例などを交えて質問の意図を見えやすくするのも大事かと思う。 例えば、 「雪がとけると水になりますが、氷がとけるとどうなりますか。 やっぱり水ですか」とか、 「花が咲いたり、枯葉が落ちたりすることで季節の 変わり目を象徴することがありますが、 氷がとけることで象徴づけられるのは何の始まりですか」 とか。

とはいえ、質問者の意図が回答者になかなか伝わらないということは、 実によくある。 卒論発表会とかだと、本当に多い。 一つには、発表する学生の側は、 「先生は知っていることを(自分たちの知識を調べるために) 聞いているんだ」みたいな思い込みがあったりすることも、 その一因かも知れない。 特に私の質問はそうだが、 私の場合、本当にわからなくて、 初歩的な部分を確認する質問をしたりするのだが、 「そんな初歩的なことを聞いてくる訳がない」という思い込みがあるのか、 なぜかこちらの聞きたいところとは別のところを答えようとされたり してしまうのである。 もちろん、これはこちらの語彙力の問題でもあり、 前述した日本語の苦手な留学生との会話と同じように、 質問する側が、相手の語彙範囲や知識範囲を汲み取って、 意図が伝わりやすいようにどんどんくだけた表現に 変えてみることが大事なのだ。 相手の語彙範囲や知識範囲に応じて表現をくだけさせることのできる 能力は、わかりやすいプレゼン技能にも通じるだろうし。

それから、質問は一度に一つずつ聞くべきだろう。 ある質問への回答次第で、それと関連する問題についての別の疑問が 生じるといったことはあるが、 いきなり「3つ質問があります。一つめは、××なのかということ。 2つ目は××なのだとすると△△なのかということ。 3つ目は△△なのだとすると、□□なのかということをお聞きしたいのですが…」 なんてやられちゃうと、 よほど脳内の一時記憶容量に余裕のある人でないと、 最初の質問に答えようと色々と考えている時点で、 2つ目以降の質問は忘れてしまって、結局 聞き返すことになるので 時間の無駄でもある。 司会者によっては、 「質問は一度に一つずつにしてください」と釘を刺す場合もある。 これは、回答者の混乱を避ける意味もあるし、 一人の人が質問を独占するのを避ける意味もある。 関連する複数の項目について確認したい場合は、 一つ答えてもらってから、 「だとすると、こうこうなのですか」 みたいに、次の質問を出した方が親切だろう。 前述したように、質問というのは、質問者の意図が 正確に伝わらないで議論がすれ違う可能性が結構 高いので、 なるべく一方的に話す量を少なくして、 対話の量を増やした方が、話のすれ違いを修正しやすくなると思う。

目次先頭

国際会議での発表の場合

ブロークンでいいから話し言葉で

私は、国際会議での発表経験は それ ほどないので、あまり 偉そうなことは言えないが、 (でも、先日、数年ぶりに 国際会議で発表してきて少し言いたくなったので ちょっとだけ言うけど) 英語(など日本人にとっての外国語)を発表言語とする 国際会議での発表についても、 ここで述べてきたことがそのまま適用されると思う。 英語は、日本語ほどには話し言葉と書き言葉が違うということはないが、 それでも、書いた原稿を(覚えて)読み上げるのと、 その場で思いついたことを (その人が会話で使える程度のブロークンな)話し言葉で話すのとでは わかりやすさに雲泥の差があると思う(後者がわかりやすいという意味ですよ、 念のため)。 私はもちろんのこと、英語で自由に会話ができるほどの英会話力を持たない 多くの日本人や英語を母語としない各国の発表者にとって、 そもそも英語で自由に話すことができないのに、 英語の話し言葉で発表するというのは、 一見、無理な注文のようにも思えるが、 私は必ずしもそうは思わない。 自分が会話で使える程度のブロークンな英語にまで品質を下げれば、 その人なりの話し言葉での発表はそれなりには可能だと思う。

先日、参加した国際会議では、日本人に限らず、 英語を母語とするであろう英米人でも原稿を手に持って読みながら発表している 人がいたが、 英語を母語としない人であろうと母語とする人であろうと、 原稿をそのまま読み上げる発表は極めてわかりにくいと思う。 特に、英語を母語とする人の難解で長文の英語を、 ネイティブ特有のリエゾンで単語どうしをくっつけて早口で読み上げられたら、 私はもう何も聞き取れない。 あと、日本人の発表者で、発表原稿の文章をスライド画面に出しながら、 それを読み上げている人もいたが、 (まあ、発音が悪くても画面を読んでもらえばわかるだろうという意図もあるのだろうが) これじゃあ、 別に発表なんかしなくても論文原稿を読んでもらえばいいことになるよね。 やはり、どんなにブロークンでもいいから、自分の言葉で発表した方が 好感が持てるというのが私の意見。

質問が聞き取れない

私自身、英語は発話に比べて聞き取りが非常に苦手だ。 発表自体は、自分が話せる程度のブロークンな話し言葉で何回も練習しているうちに なんとかなるが、質問が聞き取れないのはなんともならない。 こちらの英語力が怪しいことを質問者が悟って、ゆっくり簡単な表現で 質問してくれればいいけど、 早口でまくしたてられるとお手上げ。 先日の国際会議では、なんとか聞き取れたのでなんとかなったけど、 聞き取れなかった場合には、 「もっともっとゆーっくり喋ってちょうだい」 と言うつもりでいた。 とは言え、相手がまくしたて始めたところを途中で遮るのも、 ちょっと抵抗があるので、なんか穏当な方法がないものかと思っていたら、 スライドの最後に 「Thank you for your attention!」 とか「Any questions?」みたいなことを書いている人が 日本人に限らず結構いたんだけど、 だったら、スライドの最後についでに 「... but speak slowly!」 みたいに書いておけばいいんではないかと思ったのだが、どうだろう (もっと気の利いた表現があったら、教えて下さい)。

発表内容の予告編

特に欧米の発表者に多いと思うが、 発表の冒頭に目次みたいなのを見せて、 「まず、最初に、◯×の手法について示します。 次に、解析結果を示します。次に実験結果を示します… そして最後に考察を述べます」 みたいな感じで発表内容の予告編を最初に述べる スタイルがあるんだけど、 あれはどこの風習だろう? 私には、あれが時間の無駄のような気がするんだけど、 論文審査とかのスタイルから来ているのだろうか。

国際コミュニケーションのツールとしての英語の実態

国際会議というと、英語がペラペラじゃないと参加できないんじゃないかと 構えてしまう人もいるかも知れないけど、 実際には、日本人に限らず(ヨーロッパ系の参加者ですら)、 英語が得意でない参加者はいっぱいいる (まあ、国際会議によっては、参加者のペラペラ率の高いとこも あるのかも知れないが)。 それでも、発表自体は前述したようになんとでもなる。 発表者が質問を聞き取れなくて、 質問者が何度も言い直したり、司会者が助け船を出したりという 光景は普通にある。 そんなもんだと思う (ひどいセッションだと、発表者がただひたすら原稿を読み上げ、終わると、 司会者が「質問は?」と聞いて、質問がないとそのまま「ありがとうございました」 で発表が終わり、それ以降の発表も 同様に読み上げるだけの発表と質問なしが続くなんてとこもある。 まあ、司会者自身、質問を喚起したりするだけの英語力がないという場合も あり得るだろうが)。

で、趣味で エスペラント をやっている身としての 感想を述べるとすれば、やはり、 英語というツールは、国際コミュニケーションを成立させるツールとしては、 あまりにも使用困難な代物 (でそのことがコミュニケーションの 大きな障害になっているん)だなあと実感させられる面は多々 ある。 英語(に限らず民族語は普通そうだが)が使用困難なのには いっぱい理由があるが、 まずは発音が難しすぎる(区別しなければならない母音、子音の数が多く、 それらを正確に発音し分け、聞き取り分けるのが困難な)上に、 単語の末尾が子音で終わる単語が多いために単語どうしがくっつきやすく 単語の区切れが判別し難く、極めて聞き取りが難しいし、 基本単語を組み合わせて造語する機能が未発達なため、 自分の言いたい事柄を表す表現が思いつかない時にとっさに 自分の手持ちの語彙を組み合わせて新しい表現を作れないなど、など、など (他にもいくらでも挙げられるけど)は、 私がいつまでたっても変わらず痛感する英語の使いにくさだ。 で、英語が得意でない国際会議の参加者たちは、 こうした使いづらいツールと格闘しながら国際会議での 情報発信・情報収集を行わなければならないという意味で (自分の母語だけを使って会議に参加できる人たちに比べて) 明らかに言語的な不利を被っていると思う(例えば、 私程度の英語力の日本人参加者なら、 英語で発表する場合には、論文原稿書きや発表練習に日本語の場合の 数倍以上の時間と労力を要すだろうし)。 エスペラントの普及が現実的でないとするなら、 同時音声通訳機の進歩とか、 どうしたら、 こうした言語的不平等の現状が改善されるかというのは常に私の関心事である。 例えば、 質問が聞き取れずに困っている人がいるときに (ゆっくり簡単な表現で言い直すのは基本として、それでもダメそうなときに)、 その人と母語が同じで 英語の得意な参加者が通訳してあげるなんてのは、どうだろう (前述の、質問が全くないセッションとかに比べればよっぽど 建設的な国際コミュニケーションではないかと思うんだけど……)。 あと、コミュニケーションに支障がある場合には、 絵や文字による確認はとても有効だと思うんだけど、 ホワイトボードを置いててもらえると、 質問や返答がだいぶやりやすいかなあと。

「だから英語で恥をかかないように、授業を英語にすればよい」 といった安直な発想を抱かないでほしい。  良くも悪くも、日本語は漢字を導入したことで、 専門語をカタカナ外来語としてではなく 「日本語」として造語/翻訳することができたため、 多くの教科書や専門書も、ちゃんと翻訳された日本語で読むことができるし、 大学レベルの専門教育もちゃんと日本語で受けることができるようになった。 この意義を過小評価してはいけないと思う。 世界には、 義務教育レベルの初等教育すら自分の母語によって受けられない人たちがいる。 英語教育の一環として、 大学の専門教育の一部に英語の授業を導入したりする試み自体は、 (留学したりするような学生を対象とするなら) 結構だと思うが、一方で、 英語や専門科目の学力がそれほど高い訳ではない (あるいは明らかに低い)学生たちが、 日本語でならそこそこ理解できそうなことを わかりやすく学べる機会を与える工夫も軽視してはいけないと私は思う。

追記青葉工業会ニュース No.42, p.12の「外国人教員便り」で、 バラチャンドラン・ジャヤデワン氏が 「日本経済・教育・研究発展の秘密の理解と今の私」と題して、 日本の発展の秘密は、教育が完全に日本語で行われ、 各種の取り扱い説明書などもすべて日本語で書かれていていることに 解の一つがあるのではないかとの考察を述べている。少し引用する。
「(前略) 高校までの学校での教育は、各民族の言葉であるタミル語および シンハリー語で行われる。 しかし、大学に入学した時点ですべての講義が突然英語になるという 現実に直面する。 (後略)」 「(前略) 高校までの教育をタミル語もしくはシンハリー語で受けた学生は、 英語での講義の理解が不十分であることを理由に留年あるいは退学する 例もある。 (後略)」 「(前略) 日本に留学してきた私には、日本の発展は最初の大きな謎であり、 その謎を解くことが私にとって最初の大きな課題であった。 (後略)」 「(前略) その謎の解の一つは、日本の教育が百パーセント日本語で 行われていることではないかと考えるようになった。 (後略)」 「(前略) どんな設備、あるいは機械のことにおいても、 取り扱い説明書等は日本語で書かれており 教育の面でバリア・フリーである。 (後略)」
英語を非母語とし、英語で大学教育を受けた外国人が このような考察をしているというのは傾聴に値する。 (参考: ここここ)

目次先頭

どんな服装がいいか?
もしかすると問題の本質?

プレゼンなんてものは、特に学会発表みたいなものの場合、 発表の中身が大事なのであって、 服装なんてものはどうでもいいことだと私は思っている。 が、そのどうでもいいことに、 「フォーマルな格好じゃないといけない」 「男はネクタイをしないといけない」 「女はリクルートスーツなら無難」などと心配して、 なるべく大勢に従おうとする態度こそが、 書き言葉によるプレゼンが蔓延する一つの本質になっているかも知れない。 例えば、学生が卒論発表会でプレゼンする目的は、 「自分の研究内容を先生たちにわかりやすく伝える」ことが必ずしも 第一ではなくて、 例えば 「卒業単位をもらえること」 「そのために、厳しい先生から変に思われないこと」 だったりする。 だから、周りの人がみんな書き言葉による発表をしていたら、 それがいかにわかりにくい「悪いプレゼン」であることが自明でも、 下手に目立ったことをして卒業に不利にならないように、 周りの人たちの真似をして 「…についての研究と題しまして、わたくし後藤が発表させて戴きます」 なんて発表をしてしまうのだろう。 世渡りの方法という意味では、 それはそれで理解できる学生なりのリスク管理だと私も思う。 世の中には、何の合理性もない(あるいは明らかに不合理な)のに、 多くの人がなぜか従っている風習というのはたくさんある (金額を表記するときの3桁コンマとか)。 まあ、その合理性の判断には個人や民族の価値観がかかわってくるし、 古くからの風習には差別的な要素の強いものも多い (男が賃労働、女が家事・育児といった性役割固定化の風習もその典型だろう)。 そんな中で、 自分が自分の価値観で、 この風習は明らかに不合理だ(または差別的だ)から変えたいと思っても、 「卒業できるかどうか」「就職できるかどうか」 「結婚できるかどうか」などなどがかかった— つまり、その部分に弱味を持つ立場の低い人間ほど、 不本意ながら風習を踏襲せざるを得ないというところはあるだろう。

その意味では、 既に「卒業できた」「就職できた」「結婚できた」などなど、 少しでも(ある価値観にとって)高い立場にいる人間の方が、 風習を変える牽引力を持ちやすいだろう。 ここからは雑談になるが、 私は(ちなみに性別は男であるが)好みの問題として、 スーツもネクタイも嫌いである (あ、ネクタイをしている人が嫌いだという意味ではないので、念のため)。 特に夏など、ただでさえ首の周りが汗をかきやすいのに、 その襟元をわざわざ紐で締めて風通しを悪くして ますます不快性を増す道具に なんの合理的な機能性も感じない。 しかもそれを男にだけ強要されたりすると、 男女平等主義者の私には性役割の象徴のように思えたりするところも嫌だ (一方、女にはスカートを強要されたりすると、 ますます性役割の象徴っぽくて気持ち悪い)。 あと、スーツネクタイはフォーマルな格好といったって、 それはあくまでヨーロッパ民族の最近のフォーマルな格好であって、 欧米標準主義反対の意味からも抵抗を覚える (まあ、ヨーロッパ由来でも、 洋服とかズボンとかは自分でも機能的だと思うから身に着けるけど)。 という訳で、私はネクタイをしたくないとは思いつつも、 保身のためもあり、たぶん大学院生ぐらいまでは学会などでネクタイを していたような気がする。 私の当時の指導教員の一人は、学会などでもネクタイをしないことも 時々あったので、そういうのを見て私も少し勇気を得て (まあ、助教授や教授と大学院生では立場は違うものの)、 大学院時代の後半からか、あるいは助手になってから、 私も学会にはネクタイをしないで参加している。 私の印象では、学会(といっても土木学会だが)でネクタイをしない人の 割合は前よりも増えてきているような気がするがどうだろうか。

という訳で話を戻すが、 発表するのに「どんな服装がいいか」という話は、 わかりやすい発表をすることが第一の目的ならば、 本来はどうでもいいことだし、 場合によっては、 発表内容に関係する服装をするという演出だってあり得ると思う (民族文化についての発表を民族衣装でやるとか)。 ただ、発表の目的が「卒業させてもらえること」や「採用してもらえること」で あるならば、 聴衆(審査員とか面接員とか)が服装のことを気にする人かどうかを 見積もった上で、 その発表会での多数派の服装に合わせておくといったことは世渡りの範疇だろう。 「フォーマルな服装で発表」とうい風習を変えたいという 価値観を持つ(私みたいな)人は、 少しでも高い立場を確保してから、少しずつ (ネクタイをやめてみるとか)実践してみてはどうだろうか (それで仕事を首になったとしても私は一切 責任をとらないが)。

その態度をプレゼンにも適用するなら、 今まで口をすっぱくして強調してきた 「話し言葉」によるプレゼンも、 審査員や面接員に 「ふざけている」と思われて自分の卒業や就職に不利になる恐れがある場合には やらない方がいいのかという話にもなってしまう。 そういう意味で、この服装問題に象徴される 風習の循環構造が、書き言葉プレゼンがなくならない本質の一つ かも知れないと言ったのである。 もちろんこれは程度問題である。 「話し言葉」と「書き言葉」が完全にはっきりと区別される訳ではない。 「話し言葉」にも、友達どうしで普段 話しているような 完全に「地」のくだけた話し方から、 偉い人の前で話すことを意識した丁寧な言葉づかいまで様々ある。 くだけた言葉づかいに不快感を示しそうな審査員や面接員であっても、 実は 堅苦しい「書き言葉」によるわかりにくさよりは、 丁寧な「話し言葉」によるわかりやすさの方が好印象をもたらす ということはじゅうぶんにあり得ると私は思う。 話し方の丁寧さ、くだけ具合の設定の目安は、 想定される聴衆の一人と一対一でしゃべるとしたら、 自分はどんな言葉でしゃべるだろうかということだと思う。 どんなに立場的に自分よりも上の人と話す場合であっても、 一対一で話すときに「書き言葉」で話すということはあまりないと思う。 まあ、業界によっては「ご報告申し上げます」みたいな言葉づかいの 世界もあるかも知れないが、 普段「あのー…なんですけど…」ぐらいに話しかけている人 (指導教員とか上司とか)の前で プレゼンするということなら、 「あのー…なんですけど…」にちょっと毛の生えた程度の丁寧さで じゅんぶんなんじゃないかなと私は思うんだけど。

目次先頭

マニュアル敬語

コンビニやデパート、飲食店などの接客の人が用るマニュアル化された 敬語 (国語の教科書の用法に従っているかどうかに関係なく、 ここではマニュアル敬語と呼ぶことにするが)は、 プレゼンは書き言葉でやらなくてはいけないという思い込みを 作るのにそれなりに貢献しているのではないかと思う。 接客の人が、 明らかに日常的な話し言葉とはかけはなれた話し方で 話しかけてくるのを幼少期から青年期にかけての成長過程で 日常的に体験させられていれば、 こういう場でコミュニケーションを取る際には こういう言葉づかいを習得しなければならないのだと 擦り込まれてしまうことは不思議ではない (特に東京地方方言との相関の低い言葉を生活語とする地方ほど)。 次章で詳述するが、 私も高校生ぐらいから「標準語」コンプレックスが確実にあり、 服屋とか店員と会話する必要のある お店で買い物をするときなどは、 「標準語」の敬語モードでやりとりをしなければならないのだと思い込んで、 ドキドキしながら、 店員との会話を通して、 「標準語」の敬語モードの練習を積んでいったのだと思う。

ちなみに、 ここで「標準語」と「」つきで書いたのは、 「プレゼンはそこそこの丁寧語、そこそこの共通語でじゅうぶん」などと前述した 「共通語」とは区別しておきたいからだ。 互いに相関の低い方言(もちろん東京方言も含む)を話す人たちが 橋渡しの目的で使う言葉(これを私は「共通語」と言う)は、 発音やアクセントにある程度のばらつきがあっても じゅうぶんに機能するし、 むしろある程度のばらつきを許容する言葉でなければ、 (例えばほんのちょっとでもアクセントを間違えると 途端に意味が通じなくなったり逆の意味になってしまうような 言葉では)、習得も運用も困難で 橋渡し語としては極めて不適格であると私は思う。 「標準語」と言った場合、私はアナウンサーの話しているような 極めてばらつきの狭い「規範」的な言葉を思い浮かべるが、 そういう習得や運用が困難な規範語という意味合いで 「標準語」と書いた。

でも、やっぱり「標準語」の敬語モードで話すというのは、 言葉づかいを間違えたら恥をかくんじゃないだろうかというような 不安もあるし、 音節をいちいちはっきりと 例えば「…しなければならないのですが」を「…しねげねんだげっと」 みたいに圧縮せずに「し・な・け・れ・ば・な・ら・な・い・の・ で・す・が」のように一音節ずつ区切って発音しなければならないし、 当時の私にはそれなりのストレスを伴った。 特に、列車の切符の買い方が、周遊券を使う方法と 使わない方法と何通りかあって、 どの方法が最善かを駅員に確認するとか、 そういう込み入ったやりとりをするときに、 「標準語」の敬語モードを使わなければならないというのは、 色々と頭を使わなければならないときに、 言葉づかいだけのために余計な神経を使わなくてはならないので、 正に使い慣れない外国語で用を足さなければならないかのような ストレスを感じたのだ。

そういう思いもあり、 また次章に述べるように、20代後半ぐらいから 「標準語」にとらわれすぎることに疑問を抱くようになって、 30代ぐらいに入ってからの私は、 店員とか知らない人一般とやりとりするのに、 なにもそこまでコテコテの「標準語」を使わなくたって、 「そこそこの共通語で、そこそこの丁寧語」であれば、 じゅうぶんに意志の疎通ができるし、 相手だってそう失礼だとは思わないだろうし、 別にもっと気楽に普通に話していいんじゃないかと 開き直った。それ以来、 コミュニケーションが以前よりもだいぶ楽にスムーズに 行えるようになった気がする。

この 「そこそこの共通語で、そこそこの丁寧語」という目安は、 その土地その土地の言語状況に応じて、 例えば東北の地方都市の飲食店とかだったら、 かなり東北弁よりの方にシフトしても構わないと私は思っているし、 店員側が普通に方言を話すような店なら、 こちらも完全に地の方言でしゃべったっていいし、 私にとっては、それが最も自然なコミュニケーションだと思っている (お互いの方言が完璧には聞き取れなくても)。 その意味で、マニュアル敬語でしか対応してくれない チェーン店のようなところの接客は、 私には どうも書き言葉によるプレゼンを聞かされているかのような 印象を受けることが多々ある。 特にこちらが普通の話し言葉で聞いたことに対して、マニュアル敬語で 答えられたりすると、 卒論発表で 「はい、それにつきましては、さきほど申し上げましたように、 ××の影響ではないかと考察しております。 では、こちらのスライドにて説明させて戴きます」 みたいな書き言葉の返答を読み上げる学生を連想してしまう。 例えば、東北の飲食店で こちらが割と方言に近い丁寧語で 「このセットのコーヒーっつうのは紅茶に変えらいねえのすか?」 みたいなマニュアルにないことを聞いたりすると、 店員は (たぶん、バイトとかなんだろうけど)、 見るからに動揺しながら、 「はい、こちらのセットにはサービスのコーヒーがつくことになっております。 紅茶はつきません」 みたいな質問意図とはちょっと ピントの外れた返答をしてきたりする。 もちろん、前述したように質問者の意図が相手に正確に伝わらないことは よくあることだから、そういうときは、 何回かやりとりをしてこちらの意図を理解してもらえばいいわけで、 「えっと、コーヒーの代わりに紅茶にするっつうのは でぎないんですね」 と聞き返したりしてやりとりするわけである。 それでやっぱりダメということもあるし、 紅茶に変えてもいいというオプションがあるかどうかを 新入りバイトのその店員はわからないので 店長に確認してくるまで待ってほしいということもあると思うのだが、 こういうやりとりが込み入ってくれば込み入ってくるほど、 私は店員の側もマニュアル敬語ではなく、 もっとその人の話し言葉に近い話し方で 普通に話してくれたら話が通じやすいのにと思うのだ。

例えば、セットにコーヒーしか出せない理由が、 コーヒーなら作り置きができるけど、 紅茶は長時間 保温状態で放置すると色が濁ってしまうから 作り置きができないということだとしよう。 そういうときに、 話し言葉でなら、 「紅茶って、時間が経つと茶色くなりますよね」みたいな感じで そういう事情をすぐに説明できると思うし、 あるいは、「あ、わたしバイトなんで、ちょっと店長に聞いてみます」 みたいなことも言いやすいだろうけど、 マニュアル敬語で説明しようとすると、 マニュアルにない文例をその場でとっさに敬語化したのでは、 言葉づかいを間違ってしまうのではないかと不安になったり、 「作り置き」なんて表現を使ってもいいのだろうかと迷ったり、 自分がバイトだってことを言ってしまってもいいのだろうかと迷ったり、 そういうことで動揺してしまうのだろう。 まあ、接客業の言葉づかいというのは、プレゼンと違って、 必ずしもわかりやすさが最優先項目ということではなくて、 店の雰囲気とか、 客への敬意を表すとか、 そういう要請から それぞれの業種の独自のマニュアル敬語を教育するのだろう。 その点、 保険の外交員とか 込み入ったやりとりが必要な業種の接客の場合、 わかりやすさの優先度が高くなることから、 経験的に自己到達した結果として、 より話し言葉に近い言葉づかいにシフトしてくるのではないかと思う。 わかりやすさに加えて、 親切さとかも重要になってくる 役所の窓口とか病院とかは更に話し言葉に近いだろう。 私としては、 コチコチのマニュアル敬語を蔓延させている 世の中の各種の接客業が、 もっともっと「そこそこの共通語で、そこそこの丁寧語」程度の 話し言葉の側にシフトしてくれれば、 世の中の人が自分の言葉でコミュニケーションを取れる場が 増えていいのになあと思っている。

目次先頭

なぜ人は教条主義的になるのか
目的と手段の取り違え

人は特に言葉づかいに関しては教条主義に陥りやすいようで、 「その言葉づかいは間違い!」だの 「正しい言い方はこうこう」みたいなのを指摘するテレビ番組やら 「正しい日本語」だの「正しい敬語」なるものを「お教えしましょう」 といった趣旨の書籍やらが次から次へと書かれている。 なんてことを他人事のように言っている私も、 若い頃は 言葉づかいに関して相当に教条主義に毒されていた。 その辺の恥ずかしい過去などをふりかえりながら、 人はどうして言葉に関して教条主義的になってしまうのかを 考察してみたい。

まず私の場合の背景として、 高校時代の後半から大学時代の前半にかけての私には、 「標準語」コンプレックスがあったし、 東京コンプレックス(という以前に仙台コンプレックス?)があったし、 英語コンプレックス (というより欧米コンプレックス)があったしで、 「標準語」の発音も英語の発音も 国語辞典や英和辞典でアクセントの位置を調べてまで覚えたりしたものだ。 まあ、英語のアクセントの位置を辞書で調べる人は、 結構いるだろうが、 日本語の「標準語」アクセントの位置まで辞書で調べて覚えようとする人は、 少数派だろう (「標準語」のアクセントが示されている 三省堂新明解国語辞典は重宝したが、 現在の私は、日本語というのはアクセントが違っても じゅうぶんに意志の疎通が可能な言語だと思っているので、 国語辞典の範疇で辞書に「標準語」アクセントのみを規範のようにのせる必要は ないのではないかと思っている。 辞書にのせてしまうと、かつての私のようにそれを 覚えようとする人まででてきてしまうし)。

そんなふうに大学1,2年の頃の私は、「標準語」アクセントに うるさかったのだが、 ある時、テレビで流れたカレーのCMにひっかかった。 確か、バーモントカレーのCMで 西城秀樹が、「新しいうまさとからさ」と言うのだが、 この「からさ」のアクセントが、 三省堂新明解国語辞典のアクセントとは逆になっていたような気がする (20年も前のことなので記憶違いかもしれないが)。 つまり、三省堂新明解国語辞典だと 「うまさ」も 「からさ」も1アクセント(「う」と「か」にアクセント)なのだが、 西城秀樹は、「うまさ」を1アクセントで 「からさ」を0アクセント(無アクセント)で言っているとかそういうことだったと思う。 当時の私はこれに腹を立て、 友人たちに、あの西城秀樹のアクセントはおかしいよなあと 同意を求めたものだが、 誰一人として、 東京地方の出身者も含めて、 「別にいいんじゃないの」という実に まっとうな答えしか返してくれなかった。 もちろん、現在の私は日本語においては アクセントなんてどうでもいいと思っているし、 共通語の単語に特定のアクセントを指定することは、共通語の ばらつきを狭くし、共通語の習得と運用を困難にすることでしかない と思っているが、 あのときの私は、 テレビでしゃべる人は、 ちゃんと規範の通りにしゃべるべきだと思い込んでいた。

どうして私がそういうふうに思い込んでいたかと思い返せば、 やはり前述したような様々なコンプレックスのせいだとは思う。 この辺の話は、私が30才頃から趣味で エスペラント を始めた動機にも深く 関わってきてしまうが、できるだけ簡潔に書いてみたい。 私は宮城県の石巻市に生まれ、 石巻地方の方言を母語として育ってきた。 宮城県の仙台市の大学に進学して、 私は友人たちとコミュニケーションをとるには、 「標準語」を習得しなければならないものと思い込み、前述の通り 辞書でアクセントを調べてまで「標準語」の練習をしたものだ。 が、そんな私を尻目に、相手がどこの出身者だろうと 堂々と関西弁でまくしたててくる友人に出会って 私はなかなかショックを受けた。 まず、こちらが相手のためにわざわざ使いづらい「標準語」を 努力して 使ってあげているというのに、 あちらは、堂々と自分の言葉をそのまま話してくるという ことに腹が立った。 西城秀樹の「うまさとからさ」以上に腹が立った。 もちろん、今から思い返せば、当時の私はあまりにも視野が狭すぎて、 相対的な視点をまるで持ち合わせていなかった。 関西出身の友人だって、実は 自分の言葉をそのまましゃべっているわけではなくて、 それなりに「共通語」化された関西弁をしゃべっているのであって、 自分の言葉をそのまましゃべっているのは、 むしろ東京出身者なり、 仙台などの都市部出身者で「標準語」に近い言葉をそのまま母語として 育った人たちである。 それなのに、私は、「標準語」に近い言葉を母語としてそのまま 使っている人たちに対しては、まるで腹を立てていなかったのだから、 典型的なダブルスタンダードである。

ちなみに、私が趣味として エスペラント を始めた動機の1つは、 その辺のことについて、 20代後半ぐらいから色々と考えるようになって、 言葉の違う人どうしの橋渡しの言葉を、 特定の人たちの母語と極めて近い言語(東京弁であれ、英語であれ)に してしまったら、 物心ついてからなんの苦労もなくその言葉をつかえる人と、 相当の努力をしてなおその言葉の使用に困難を伴う人との 間には原理的に大きな不平等が生じるということに納得したことである。 つまり、橋渡し語は、「誰にとっても外国語」として習得する必要があって、 ばらつきを許容する言語であるべきだと。

私は、方言(もちろん東京方言も含む)の異なる人どうしの意志の疎通には、 「標準語」の習得が当然だと思い込んでいて、 そもそも「標準語」を使う目的はなんなのか、 なぜ「標準語」でなければならないのか、 もっといい方法、あるいはましな方法はないのかといったことについては、 まるで掘り下げて考えようとはしなかった。 「標準語」は、極めて規範的ではあるけれど、 それでも方言の異なる人どうしの意志の疎通という 「目的」のための「手段」であることには変わりはないと思う。 現在の私は、その「目的」を達成する「手段」としては、 「標準語」はあまりにもばらつきが狭すぎて習得・運用が困難なので、 もう少しばらつきを許容する「共通語」ぐらいを「手段」にした方が より効率よくその「目的」が達成されると考察しているが、 かつての私は、完全に「目的」と「手段」を取り違えていた。 自分がその「手段」の習得のために労力を払えば払うほど、 その「手段」を一定のレベルで習得できてしまえれば習得できてしまえるほど、 その「手段」自体がいとおしくなり、 その「手段」を「規範だから」と正当化することが目的化してしまって いたのだろう。

つまり典型的な思考停止である。 「標準語」を使う目的が何か、 その目的を達成するより良い代替案はないのか、などといったことに まるで思いを巡らせずに、 自分にコンプレックスをもたらす自分の弱点なり 社会構造なり社会通念なりと 対立せずに適応しようとしていたのだろう。

私の場合、石巻弁に対して母語としてのかなり強い愛着があって、 それを公の場では使ってはいけないという思い込みが 「標準語」コンプレックスを始めとする 前述の各種のコンプレックスの一因になっていると思うので、 やや特殊なケースなのかも知れないが、 世の中の人は(「標準語」に近い言葉を母語とする人も含めて)、 多かれ少なかれ言葉に対してなにがしかのコンプレックスを持っている ものだと思う。 もちろん私も前述した以外にも、言葉に関して 様々なコンプレックスを様々なレベルで抱いていると思う。 例えば、 難解な語彙(「敷衍する」だの「看過し難い」みたいな)を 知らないとか、 かしこまった作文が苦手だとか、 人前でしゃべると緊張するとか、 いろいろあると思う。 あるいは、 言葉のコンプレックスの背景には、 エリートとか、学歴とか、教養とか、そういうことに対する コンプレックスもあるかもしれない。 私も高校の頃は、 難解な語彙で難しい哲学的な議論をしている人たち (小説の中の登場人物も含めて)に憧れたものだし、 自分も難解な語彙を習得して、そういう難しい哲学的な議論が できるようになりたいと思ったりしたものだ (現在の私は、難解な問題こそできるだけわかりやすい語彙を 用いて誰にでもわかりやすく明快で平易に論ずるべきだと考えているが)。

で、コンプレックスを抱いている人というのは、 その点に関して自分が弱者だと感じているので、 なんとか強者の側にまわろうと考えるものだと思う。 それも、自分のコンプレックスの原因となっている自分の弱点なり 社会構造や社会通念に 真正面から立ち向かったりして、 周りの人から変人扱いされてますますコンプレックスをつつかれるような ことはせずに、なるべく手っ取り早く強者の側にまわりたいものだろう。 そうすると、既に「規範」として強者たちがふりかざしている 「言葉づかい」なり作法なりを自分たちも そのまま採用して強者の側に同化したいという心理が働くのではないだろうか。 まあ、この辺は私の粗雑な考察にすぎないが *、 プレゼンに関しても、 どうも 書き言葉によるプレゼンというのは、 自分の言葉ではなく用意してきた書き言葉を読み上げさえすれば、 自分の無知さ加減がばれずに済むとか、 自分の言葉ではなく書き言葉でやりとりすれば、 自分の緊張や動揺や本心がばれずに済むとか、 そういうコンプレックスに対する後向きの適応という面もあるような 気がするのだ。

言葉というのは第一に意志の疎通という目的のための手段だと思うし、 この目的のためには言葉はわかりやすく習得しやすく使いやすいことが 重要だと私は思う。 しかし、ある種のコンプレックスを抱える人たち (前述したように私もあるレベルで含まれるだろう)は、 むしろ、一定の修練を積んだ選ばれた人物であることを示してくれる 使いづらい言葉づかいとか、 自分の意見に内容がないことをごまかしてくれる 難解な語彙とかにこそ、 自分のコンプレックスに対処するツールとしての別の目的を 見出だしてしまって、そういう本来の目的と逆行する目的が 肥大化してきたような面もありそうだなと思うのである。

2010/12/10追記: これは私の偏見も入っているかもしれないが、 小学校教育というのは、教条主義的な傾向が強いように感じる。 もちろん、 科学的な意味での正しさではなく、 誰かが決めたことを それが「正しい」と修得しなければならない 国語とかが教条主義的になってしまうのは、ある程度 仕方のない ことだとは思うが、 科学的な意味での正しさが保証されている算数の 計算方法などにおいても、 不必要に教条主義的になっていないだろうかと思うことがある。 例えば、最近 ネット上で話題になっているかけ算の順序問題である。 「お皿3枚にみかんが4個ずつのっています。 みかんはぜんぶで何個でしょうか。」 みたいな問題で、3×4=12と計算すると小学校で×をつけられるという話だ。 黒木さんが丁寧に解説しているように、 これは、 「1あたりの数」×「いくつ分」の順番に書かなければならない というローカルルールなのだが、もちろん、数学にはそんな決まりはない。 指導要領 でもそんな決まりを強制していないそうだ。 うちの子のベネッセの教材(チャレンジ)の解説でも、 このようなかけ算の順序を指定していたので、 なかなか根の深い問題だと思う。 ちなみに、 「1あたりの数」と「いくつ分」をどういう順番でかけるのを好むかは、 その人の使う言語とも関係しており、例えば、 アメリカの学校では、 「3×4を足し算に直せ」を「3+3+3+3」にすると×にされて、 「4+4+4」が正解 という日本とは逆のローカルルールを強制しているところもあるようだ。 学校教育が不必要に教条主義的になってしまうのは日本だけではないようで 興味深い。 かけ算の順序問題の問題点については、 kikulog菊池さんも明快にまとめている
あと、私が小学校の時は、4を「よん」ではなく「し」、 7を「なな」ではなく「しち」と言うように指導されたが、 そうすると、「4こ」は「しっこ」、「4人」は「しにん」となってしまい、 極めて不自然だ。 今は、どうなんだろう。 かけ算九九の間違いだって、「し」と「しち」の混同が大きな割合を 占めているんじゃないかと思う。 「し」を「よん」にするか、「しち」を「なな」にするか、 その両方をするかすれば、九九の間違いはだいぶ減るような気がするんだが。 というか、足し算や引き算でも、暗算でやってるうちに、 頭の中で「し」が「しち」になったり、「しち」が「し」になったりという ことは結構ありそうな気がする。 日常で使われる「よん」「なな」を使った方が多くの利点があると 個人的には思うのだが (よんななにじゅうはちに賛成)。 そういえば、うちの子によると、 「20こ」は、「にじっこ」と言いなさいと指導されたんだとか。 それじゃあまるでNHK方言みたいだ。 「20こ」を日常で「にじゅっこ」ではなく、「にじっこ」と言う人は、 共通語圏でも少数派ではないんだろうか。 しかもここは秋田だというのに。 あれ、秋田弁が「にじっこ」だったりするだろうか...
 
まちがいにくい九九の提案

目次先頭

まとめ

このページは今後も加筆し続けていくとは思うが、 この辺で一旦まとめておきたい。 今まで考察してきたように、 書き言葉プレゼンが蔓延するのには、 まず、 学校教育を始めとして、 テレビのニュース報道、コンビニや飲食店のマニュアル敬語 などなど身近な手本とすべき言葉づかいを通して、 公の場では「標準語」の書き言葉でコミュニケーションをとらなけらば ならないかのように擦り込まれ、 またそのことが、そのようなコミュニケーションツールを獲得している人間を 高級だと感じるコンプレックスを再生産してしまう 実に根深い社会的構造があるのだと思う。 じゃあ、 そういう社会的構造があるのだから、 公の場では「標準語」の書き言葉でコミュニケーションをとるのが 処世上は最善かというと、そうとは言えない。 「標準語」の書き言葉によるコミュニケーションは、 冒頭の「悪いプレゼン」の例でも示した通り、 現実問題としてわかりにくく、 コミュニケーションの効率がとても悪い。 だから、 現実問題として「わかりやすいコミュニケーション」を用いることが、 自身の処世上の利益からも極めて大きくなるような業種で プレゼンする人の場合、 例えば、 学会や会議で発表する大学の先生や研究者はもちろんのこと、 顧客と込み入った話が必要となる接客業務の人ほど、 「そこそこの共通語で、そこそこの丁寧語」による 話し言葉でコミュニケーションを取る方法を おそらく経験的に自己到達して獲得しているのだろう。

私は、 学会発表のようなプレゼンにおいては、 話し言葉によるわかりやすいコミュニケーションの 有用性・優位性は割と自明だと思っているので、 学会発表に限らず、より様々なプレゼンにおいても 話し言葉でプレゼンするのがごく普通になればいいと願っているし、 このページが、 話し言葉によるプレゼンの普及に少しでも役に立てれば うれしいと思っている。 しかし、仮に私の願い通りに、多くのプレゼンの現場で 話し言葉でプレゼンすることが当り前になったとしても、 初めて卒論発表や学会発表する学生が、 最初のうちはどうしても書き言葉の呪縛から逃れられないといった 状況は当面はなくならないだろうと思う。 どんなにプレゼンの現場で 話し言葉の有用性が認識されて話し言葉を使うことが当り前になったとしても、 小学校から始まる学校教育の中で 書き言葉でしゃべることを叩き込まれ、 毎日のテレビのニュースを書き言葉で聞かされ、 コンビニや飲食店の店員に書き言葉で応対され、 人前で話すときは書き言葉を使わなければならないとさんざん擦り込まれて きた人に、 いきなり 「いや、もっと普通に話し言葉でいいから」 と言ったって、なかなかすぐには話し言葉が使えるようにはならない ものなのだ。 私はそこに問題の本質があると思っている。 だから私は、 学校教育の中で、 もっと話し言葉に近い自分の言葉で、 事実と意見を区別して述べることを訓練してほしいし、 テレビのニュース番組も もっとわかりやすい話し言葉で報道してほしいし、 コンビニや飲食店の接客も もっと話し言葉に近い普通の話し方で応対してほしいと思っている。 そうなれば、 世の中の様々なコミュニケーションの敷居が下がったり、 情報伝達の効率が上がったり、 種々の言語的なバリアの解消に一定以上の効果があるのではないかと 夢想している。 つまり、 このページの本音の?主旨は、 「プレゼンは話し言葉で!」ということに留まらず、 「身の回りのあらゆるコミュニケーションを話し言葉で行える ようになったらいいな!」 というところにあるのである。

目次先頭

注釈

* この本のウェブ版に対して かっこが多くて読みにくいと書いている方がいたが、 確かに私の文章は(推敲時間の短いものほど)(←こんなふうに) 括弧が多い。 括弧に挿入された注釈で文章の流れが分断されるのをきらう人に配慮するなら、 注釈は、長さに応じてフットノートとか別ページに分離した方がいいのかもしれない。 実際、この文章自身を含め、この本にはフットノートも別ページによる注釈も 設けてある。 ただ私の場合、 本などを読んでいて注釈がある場合には、注釈も一通り読みたい人間だが、 注釈が別ページにまとめてあったりすると いちいち別ページをめくるのがとてもめんどくさくて、 短い注釈なら、できるだけ文章中に埋め込んでほしいと感じてしまうのも事実だ。 ウェブページの場合、注釈を読むのにいちいちリンク先をクリックして 行ったり戻ったりするよりは、できるだけ文章中に埋め込まれた形で 注釈を読みたいと思うことも多い (まあ、注釈の長さにもよるが)。 つまり、この辺は好みの問題もあると思うので、 ウェブページなら、 括弧書きされた注釈をすべて隠して注釈印*だけの表示にするか、 注釈を括弧書きですべて文章中に埋め込んで表示するかをクリック一つで 切り替えられるようにできれば最善ということかもしれないが、 本ではそういうわけにはいかないので、 適当なところで折り合いをつけることにする。 というより、そもそもかっこによる補足説明だの 注釈をできるだけ使わずに説明するのがよいという考えも あるかもしれないが、私は文章情報の各部がどれだけ要点や文法構造に 寄与しているかに応じて、 要点や文法構造に大いに寄与する骨組の部分と、要点には寄与しないけれども それなりに重要な情報のこともある補足説明的な部分とを かっこや注釈を使って数段階に 分けておくのがそう悪いことだとは思わない (関係代名詞などによる補足説明がいっぱいくっついていて、 どこが主語だか目的語だかわからないような英語の長文とかを 読んでいると、補足説明的な関係節とかはかっこでくくってくれたら、 もっと文法構造が見えやすいのになんて思うことはある。 まあ、コンマコンマがかっこの代わりなのかもしれないが)。

* 1887年にポーランドの眼科医ザメンホフが発表した人工言語。 語彙の多くはヨーロッパの言語から取り入れているものの、 語尾をoにすれば名詞、aにすれば形容詞というように 文法に例外がなく、造語機能に優れているので 通常の外国語に比べて習得が容易である。 エスペラントは母語の違う人どうしがコミュニケーションする ことを目的とした橋渡し言語であるが、 現在 多くの分野で事実上の橋渡し言語として使われている 英語とは違って、 誰もが外国語として学習しなければならないという意味で 中立である。 日常会話や手紙程度の作文ができるレベルのエスペラントの使用者数を 推定することはとても難しいが、 おおざっぱな楽観的な見積りでは世界に100万人程度と 言われることもある(まあ、これはないと思うが)。 各国の様々なエスペラント組織の登録者は2万人程度ということなので、 組織に入っていない人を含めると、 その数倍は確かにいるかなとは思う。 日本エスペラント協会 (http://www.jei.or.jp/) の会員は、変動はあるものの1000人前後であろう。 私も1996年から趣味でエスペラントを始めたが、 エスペランティスト(エスペラント使用者)たちの エスペラントの使用用途は実に様々である。 一昔前は、 エスペラントによる海外文通などが盛んだったらしいが、 現在は、インターネット上で盛んに使われている。 例えば、エスペラントで書かれたブログなども、 Googleで言語をエスペラントに設定して検索すると 大量にヒットする。 YoutubeでもEsperantoというキーワードと (これだけだと、Esperantoという名前の音楽グループだの 他言語によるEsperantoへの言及などが混じってしまうので) 適当なエスペラントの単語(intervjuo=インタビュー、 sinprezento=自己紹介)などで検索すると、 エスペラントをしゃべっている人の動画もそれなりに 見つかる。 そういうふうにインターネット上でエスペラントを活用するのも、 確かに一つの楽しさではあるが、 やはり、実際に外国のエスペランティストに 会ってエスペラントで会話するのが、私はエスペラントの楽しさだと 感じる。 例えば、出張で外国 (イタリアの例韓国の例ニュージーランドの例) を訪れる前に、 現地のエスペランティストと事前にメールで連絡を取っておいて、 現地を案内してもらったりというのは、エスペラントならではの醍醐味 だと思う(特に非英語圏では)。 逆に、日本を観光や仕事目的で訪れる外国人エスペランティストが、 訪問先の地方エスペラント会や個人にコンタクトを取ってくるという こともある。 その他に、エスペラントには、世界大会、世界青年大会、 日韓中青年エスペラント合宿、日本大会、 東北大会ほか各地方支部の大会、地方都市のエスペラント会の 合宿などなど、催しがいっぱいあって、 国内のエスペラントの催しにも、それなりに外国人エスペランティストが 参加するので、そういう場で 外国人エスペランティストと交流することもできる。

* 学会に限らず、会社にも方言があるようだ。 糸井重里 著 『オトナ語の謎。』 (東京糸井重里事務所) (http://www.1101.com/otona/) の中で多数の会社ジャルゴン (「スケジュールを切ってください」 「アテンドです」 「ご笑覧ください」などなど)が紹介されている。

* インターネットの普及にともない、 これからの書き言葉はどんどん話し言葉に近づいていくと私は見積もっているし、 それは望ましい傾向だと思う。 私が見習うべき良い例だと思うのは、 山形浩生さん (http://cruel.org/jindex.html) による経済やオープンソースや環境問題などの専門分野についての 文章(英語からの翻訳も含む)だ。 山形さんは、専門的な話を噛み砕いて、話し言葉に近い自然な文体で 分かりやすく書いてくれる。 私は、教科書やテキストの類いも、もっともっと話し言葉に近い文体で 書いた方が分かりやすくていいと考えている。 また、私は学生にとって大事なのは、 くだけた文章を硬い文章に書き換える訓練よりは、むしろ わかりにくい文章をわかりやすく書き換える訓練だと感じている。 そのような書き換えの例題集として、 結城浩さん (http://www.hyuki.com/)の 文章教室 (http://www.hyuki.com/wl/) はとても参考になる。

* 子供の絵本の中で、小さい子供が 「わたし(あたし)」や「ぼく」といった一人称を使っていると、 私はどうも違和感を覚える。 というのは、 実際に幼稚園児とかがしゃべっているのを聞くと、 ほとんどの子供は一人称に自分の名前を使っているのが普通だからだ。 さらにひどい絵本だと、幼児が「…だわ」だの「…かしら」みたいな 女言葉を使っていることもあるが、 幼児はそんな言葉づかいはしない。 というか、都市部の共通語圏の大人だって、 そんなわざとらしい女言葉(というかオネエ言葉)を使う人は少数派だろう。 ところが、絵本に限らず、大人用の小説でも、 アニメでもドラマでも、 さらには女言葉なんてものの存在しない言語からの翻訳文学や 映画の吹替えですら、なぜかなぜか、こういう非日常的な女言葉が 使われ続けているのである。 これは、日本語による創作活動にたずさわる人々が、 そろいもそろって、 実際の話し言葉には、ことごとく無頓着・無神経である ことの証しだとも言えるだろう。 この件に関しては、山形浩生さんが『群像』(1990年夏?)の 「言語表現の現実味」の中で共感できることを書いているので 一部引用する。

< 文の世界だけで流通するコードに頼る文は、やはり文の世界の中でしか通用しない。だから、ぼくが翻訳で、人に「〜さ」としゃべらせることはないし、女も男も、一般の小説類よりは区別がつきにくい話しかたをさせる。人は現実にそういうしゃべりかたをしているんだし、書きことばの変なコードに義理立てして、それを歪曲する理由なんてまったくないんだから。 > (http://cruel.org/other/wordreal.html)

* 実は、ちゃんと学のある著明な著述家たちの中にも、 読者を煙に巻くために こけおどしに一般人のよく知らない 難解な語彙を乱用している人たちも結構いるかもしれない。 アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著 (田崎 晴明、大野 克嗣、堀 茂樹 訳) 「知」の欺瞞 ── ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波書店) という本では、フランスのポストモダン思想の著述家たちが 使っている数学用語や物理用語が、まるでデタラメで無意味な使われ方を していることを実例とともに暴露していて、 ある意味、あきれてしまう。

* 若くない人の場合(あるいは、若くても「今どきの若者」には 共感できない人の場合)、 単に気に入らない「今どきの若者」を蔑むのに、 手頃な大義名分になるからということもあるかもしれない。 教科書や辞書に採用されるような言葉づかいのモデルは、 現行の話し言葉よりはやや古い年代の言葉だから、 そういうやや古い年代の言葉づかいや価値観に心地よさを感じる 人たちにとっては、 自分たちが心地よさを感じる「古き良き」時代のモデルを 「正しい言葉づかいは...」と振りかざすことを 権威づけてもらえることは、さぞ心強いということもあるかもしれない。

* Linuxというのは、 プログラム本体が公開されていて、それをコピーしたり改造したりが自由にできる GPLというライセンスで開発されている フリーのOSである。 1991年にフィンランドのLinus(リーナス)さんという人が、 自前でゼロから作ってみたOSをインターネット上に 公開したことに始まり、 誰でも改造できるというライセンスの特徴を活かしながら、 多くの人が改良を加えながら、発展し続けている。 プログラムの本体(ソース)が公開されているから、 プログラムの中身が分かる人は、 不具合や欠陥を指摘したり修正したりすることができる。 これが、プログラムのソースが公開されていない 市販の OS やソフトウェアだと、 ユーザーたちは不具合やバグを見つけても それを自分たちで修正することはできない (せいぜいバグ報告して、ソフトウェア製作会社がそれに対応してくれるのを 待つしかない)。 たとえどんなに優秀であろうとも完璧ということはあり得ない 人間たちが集まって何かをしようとするとき、 その成果を不特定多数のユーザーに公開・共有しながら (限られた数の関係者だけではなかなか気づかない欠点や 間違いを指摘し合い修正しつつ)改善していくというやり方は、 (完璧ではあり得ない)人間の欠点を補う とても効率的で合理的な方法だと思う。

* このような科学におけるエラー修正機能と 民主主義との類似性については、 カール セーガン 『 人はなぜエセ科学に騙されるのか』上巻 下巻 (新潮文庫) (単行本の時のタイトルは『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』だが、文庫化する際に改題)で論じられている。 1996年に英語の原書が書かれたこの本の中では、 オープンソースソフトウェアのことや、 クリエイティブ・コモンズのことは触れられていないが、 この本の内容に深く共感したことが、 私が、オープンソースの運動やクリエイティブ・コモンズを 支持するようになったきっかけである。

* ちなみに、 大学の教員が作成した教材などについての取扱いがはっきりと明記されている例として、 大阪市立大学の知的財産知的財産に関するQ&A ( http://www.osaka-cu.ac.jp/cooperation/commons/property_faq.html#Q1-2 ) では、 「講義のために作成した教材やマニュアル、プログラム、あるいはホームページの掲載物は著作物ではありますが、本学の知的財産取扱規程上の知的財産とはみなされません。」 と書かれている。 さらに教員の発明に対しても教員が公開・共有を選択することを許していると思われる例として、 京都大学の知財ポリシーFAQ ( http://www.saci.kyoto-u.ac.jp/ip/2_d.html#1_5 )では、 「(前略) 確かに学問分野や研究者によっては権利化ということを意識せず、 積極的に公開することが公共の利益になる、 という考えが主流を占める場合があります。 (中略) 発明を届け出ずに発表を行うことに拘束はありませんが、(後略)」 と書かれている。

* とこんなふうに「である」調の文章の中に「ですます」調を混在させたりすると、 「そういう日本語の使いかたは云々」と言う人もいるかもしれないが、 そういう教条主義的な言葉づかいにとらわれる必要はないというのが 本書の主旨なので、謝辞的な締めとなるこれ以降の文章は 確信犯的に (もちろん、こういう「確信犯的」という 使い方にケチをつける人もいることを知っていて、 確信犯的にこの言葉を使うのだが)「ですます」調に切り替えます。

* 私は、文章中で用いる 他人に対する敬称はなるべく「さん」で統一したいし、 私自身を呼んでもらうときも 「後藤さん」で構わない と学生も含め呼びかけているのだが、 私自身が指導を受けたり、あるいは仕事上の関係において 実際に「先生」と呼んでいる人に対しては、 その個人的な関係を踏襲して「先生」と書くことにする。

参考文献(リンク)

プレゼンの手引き関係

私の大学院時代の指導教員の一人 岩熊哲夫先生と 大学院時代の後輩 小山茂さんとの共著 『鬆徒労苦衷有迷禍荷苦痛 』は、 基本的には構造力学のテキストで、 私も大いに参考にさせていただいているのだが、 この中にプレゼンに関する章 (html版) も加筆された。 あとがきにも書いたが、 「プレゼンは話し言葉で」という私の主張は、 岩熊先生から「わかりやすい普通の言葉で」という 指導を受けたことに基づいている。 ただし、私の考え方は、岩熊先生の教えを独自に曲解して発展させたものなので、 岩熊先生の本来のプレゼンの思想については、 上記の著作を参照してほしい。

Garr Reynolds(ガー レイノルズ)さん ( http://www.garrreynolds.com/ ) による 講演のヒント トップ10 ( http://www.garrreynolds.com/Presentation/nihongo.html )(日本語)。 スライドの内容から話がそれるときは、スライドを消してもいいとか、 スライドよりも発表者が見えるように照明はつけたままでいいとか、 共感できるヒントが書かれている。 ガー レイノルズさんは、 関西の私立大学でマーケティングやマルチメディアプレゼンテーションなどを 教えているそうだが、 Garr Reynolds著 PresentationZen: Simple Ideas on Presentation Design and Delivery (Voices That Matter) (ペーパーバック) (出版社: New Riders Pub)という プレゼンに関する本を書いていて、 Presentation Zen( http://www.presentationzen.com/ )というプレゼンについてのブログも書いている。 これらは英語だが。

関山健治さんによる 私家版学会発表マニュアル ( http://members.tripod.com/~sekky/presman.html )は、 ウェブ上に、プレゼンの手引きがあまり散見されない 時期(99年増補版改定ということなので)から、 ウェブ上で参照することのできた プレゼンの手引で、 細かい一通りの項目ごとにまとめられている。

田崎晴明さん の 「大輪講での発表について」 ( http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/presentation.html )では、 私の「良いプレゼンと悪いプレゼン」のページをいち早く紹介していただいた。 「OHP の書き方について」 ( http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/OHP1.html )も含め、 私も共感できる発表心得である。 ちなみに、田崎さんは、『「知」の欺瞞』の 訳者の一人 である。

松田卓也さん の 「プレゼン道入門 ——科学研究の口頭発表、ポスター発表のよりよい手法———」 ( http://www.edu.kobe-u.ac.jp/fsci-astro/members/matsuda/review/PLAIN99.html )も、 話し言葉やジェスチャーの重要性に言及している。

市川 周一さんの 「発表のしかた [初心者編]」 ( http://meta.tutkie.tut.ac.jp/~ichikawa/misc/Presentation.html )は、 「起承転結」構成のプレゼンの手引きを簡潔にまとめている。 原稿を見るべきでないことなどにも触れている。

夏井 睦さんの 「私見:わかりやすいプレゼンテーション」 ( http://www.asahi-net.or.jp/~kr2m-nti/wound/next/wound165.htm )は、 「1分間に最低でも2〜3枚のスライドを映す」といった 私とは逆方向の提案もあるが、スライドに 書く文章はせいぜい6行ぐらいが上限だといった話は、 私も同感である。 夏井さんは以前、自分のサイト上で、 「書き言葉と話し言葉」 という文章を書いて、 東京大学の入学式で蓮實重彦総長が、書き言葉の原稿をただ読み上げただけの わかりにくい式辞を述べたことを批判していた。 その文章に共感したことも、 私が「良いプレゼンと悪いプレゼン」を書こうと思ったことに それなりに影響したような気もするが、 この文章は現在の夏井さんのサイト内では見当たらない。



『これから論文を書く若者のために (大改訂増補版)』 (共立出版)や 『これからレポート・卒論を書く 若者のために』 (共立出版)を書いた酒井聡樹さん (http://hostgk3.biology.tohoku.ac.jp/sakai/index-j.html) が、今度は 『これから学会発表する 若者のために: ポスターと口頭のプレゼン技術』 という本を書いたようだ (2008/11/21配本開始とか)。 ウェブ上に公開されている目次と概要 ( http://hostgk3.biology.tohoku.ac.jp/sakai/ronbun/honG.html ) を見ると、これから学会発表する若者が心がけるべき ことを、細かい技術的な部分も含めて網羅的にまとめてあるようだ。 私のページなんかよりも要求レベルは確実に高そうだ。

その他

スティーブ・ジョブスに学ぶプレゼンのスキル (確かにスティーブ・ジョブスのプレゼンはうまい。 模範的だ(プレゼンの天才スティーブ・ジョブズの“ブーン”)。 よく「スクリーンの前に立っていいんですか」ということを気にする学生が いるけど、それはプロジェクターが下に置いてあるのが悪いだけ。 私はスクリーンに自分の影が映っても気にしないけど)
わかりやすさは、ただの表現技術の問題ではないのだ。 (山形浩生さんの 文章はとても読みやすい。翻訳も)
less プレゼンのすすめ (テキストだけでもプレゼンできる! 啓蒙的。 gnuplotでset term dumbでコマンドライン上にアスキーアートなグラフを描かせれば、 図も使える! ほんとにコマンドライン上でlessコマンドで 発表したら、演出効果もばっちり)
高橋メソッド (「巨大な文字」「簡潔な言葉」を特徴とするプレゼンメソッド。 私自身は、抽象的なことがらを話題としている場合でも、 少しでも概念図のような視覚的要素があった方がわかりやすくなる と思うけど、図を使わないでやるんだったら、 パワポでごちゃごちゃ文章を書き並べずに、潔く高橋メソッドで やってほしい)
色盲の人にもわかるバリアフリープレゼンテーション法
LaTeX を pdf 化してプレゼンしよう後藤資料

手描き図の例

アインシュタインの夢 ( ニセ科学関連文書菊池誠さん手書きの式手描きの図 の方が見やすいという好例。 ちゃんと そういう思想 に基づいて確信的にやっておられる。 でも、絵心のない 私の手描きは下手だよなあ)。
理論物理学者の生き様を見せてくれるような 田崎晴明さん手描きOHP (昔の例だそうで)

目次先頭

書籍版に向けての「あとがき」(まだ草稿)

最初、 カットシステムの石塚さんから「良いプレゼンと悪いプレゼン」のウェブページを 本にしませんかというメールがきたときは、 失礼ながら新手のスパムメールかななんてことも思いながら、 「クリエイティブ・コモンズでもよければ」とためしに返信してみたところ、 「それでやりましょう」ということになったので、私も快諾した。

私は、ウェブ上には、あちこちにいっぱい文章を書き散らしているけど、 自分の本を出すというのは、初めてのことであり、 以下に詳述するように個人的に感慨深いところもあるし、 今さら?照れ臭くもある。

ウェブが普及する前の時代、つまり、 私が高校生から大学生、大学院生にかけての1980年代から1990年代初めに かけての時代、私は自分の本を出版するのが夢だった。 というか、あわよくば作家(それも小説家)になりたかった。 思えば、私は高校生の頃から、家族や友人には内緒でこそこそと 自分の小説を各種の文学賞に応募したりなど やっていたものだ。 一番いい線までいったのは、1991年のすばる文学賞の最終候補作5編に残って落選した。 当時は、自分の書いたものに日の目を見せるには、 とにかく文学賞でもとって有名になり自分の本を大量に出版してもらえる状態を 作るという以外の手段は思いつかなかった。 それから時代が変わり、1990年代後半からウェブが普及し始め、 私も1997年頃から自分の私的なウェブサイトを公開してみた。

これは、いろんな意味で、私にはすごく面白く思えた。 ハイパーテキストという書式は、私のやりたいことを やるのに、実に最適で合目的的であった。 私が作家になりたいと考えた第一の動機は、それで飯を喰いたい ということではなくて、 自分の書いた文章をより多くの人に読んでほしいということだ。 ウェブサイトというものは、 別に文学賞なんてとらなくても、 せいぜいプロバイダー契約さえすれば、 簡単に公開することができた。 そこで私は、 自分の論評やら小説やら、さらには自作のピアノ曲まで、 一通りウェブ上に公開してみて、 もし自分がちょっとした偶然の揺らぎ具合で作家になっていたとしても、 まったく売れなかったろうなということにようやく納得することができた。 一昔前は、「ミュージシャンになるために東京に行く」なんて話が よくあったものだが、今の時代は、自分の作品の世間的評価を ウェブ上でそれなりに確認できるから便利な時代になったものだ。

ウェブ上に論評やら小説やらの文章を公開しておくと、 それなりに、感想とか意見とかの反応がメールやら掲示板であることは あるものの、その数はたかが知れていた。 それでも、大衆向けではない私の特殊な価値観や感性に近いごく少数の人たちが、 どうやら私のウェブサイトを見つけ出して、 (批判的にであれ)反応してもらえるのは、とてもありがたくうれしかった。 つまり、 ウェブというのは、商業向けではない特殊な供給欲求を持つ人と、 その特殊な供給をこそ求めているような特殊な需要欲求を持つ人との 需給関係を成立させ得る機能を持った独特のメディアだと実感できたし、 私は別に大衆受けしなくても、それで満足だと思っていた。

自分の仕事用にもウェブサイトを作ろうと思ったのは、 2002年に秋田大学に来てからだ。 授業のテキストとか、 卒論生のパソコンの設定方法とか、プレゼンの手引きとかを 少しずつ講座のウェブ上に公開していった。 そしたら、そのうち、この仕事用のウェブサイトが、一日平均で数千ヒットも 記録するようになっていて、なんかおかしいなと思ったのである。

論評とか小説とか、自分としては、よっぽど読むべき文章があるように思っている 私的サイトの方は、一日平均でせいぜい百ヒットというところなのに、 パソコンの設定方法だのプレゼンの手引きだの、そんなつまらなそうな サイトの方が数千ヒットも一万ヒットも記録するのである。 まあ、確かにパソコンの設定方法とか、ツールの操作方法とか、 そういうことは私も日常的に頻繁に検索するから、 そういう技術的な話題のページの方が、つまらない論評や小説なんかよりも ヒット数をかせぐのだろうなというのはなんとなく想像できたが、 それでも、なんかおかしい。 アクセスログを見てみると、 「良いプレゼンと悪いプレゼン」のページが、 方々からリンクされまくっている。 特に「はてなブックマーク」というやつから数百件ぐらいリンクされて アクセス数が跳ね上がっているようなのだ。 なんかよくわからない現象だが、悪い気はしないので、 「良いプレゼンと悪いプレゼン」は、ときどき加筆し続けていた。 そうこうしているうちにカットシステムの石塚さんからメールが来たという わけである。

私はウェブの機能に共感して以来、 知人から本でも書いたらと言われるたびに、 「ウェブこそが自分にとって合目的的なメディアであって、 本なんか書かなくてもいい」— と強がっていたものの、 いざ「本を出しませんか」なんて依頼が本当にきたら、 にやけてしまって二つ返事で応じてしまったという次第。

そういうわけなので、 ウェブ上の私の文章を見つけて読んで、それを本にしようと持ちかけてくださった 石塚さんには第一に感謝しなければならない。 石塚さん、ありがとうございます*

また、プレゼンについての本を書くにあたって、 なんと言っても 私自身のプレゼン能力を鍛えてくださった 私の大学、大学院時代の指導教員である倉西茂先生と岩熊哲夫先生 *にも 感謝しています。 特に岩熊先生には、 普通の言葉で発表することのわかりやすさを指導していただいたし、 この本で述べた数式の示し方なども岩熊先生に教えていただいたことの 受け売りです。 ただ、 この本では、「わかりやすい普通の言葉で」という岩熊先生の思想を 私なりに曲解して独自に発展させてしまっているので、 この本に書かれているプレゼンについての思想は、必ずしも 岩熊先生が共有しているものではないことを断っておきます。 プレゼンについての岩熊先生の思想については、 参考文献にも挙げた岩熊先生と私の大学院時代の後輩の小山茂さんの共著を 参照してください。

それから、プレゼンについての様々な着想を得るにあたって、 これまで私が直接的、間接的に指導にかかわった卒論生のみなさんには、 いろんな意味で大いに勉強させていただきました。 ありがとうございます。

あと、当然のことながら、私を育ててくれ、 支えてくれている 家族や親戚には別の次元で感謝しています。 特に、私が通常の勤務時間の範囲で賃労働に従事できるように、 家事労働や育児労働に従事してくれているつれあいには、 いくら感謝しても感謝し足りないでしょう。 こんな本を書く暇があったら、今以上に家事や育児に協力しろと 言われそうですが、 この本の印税が少しでも家計の足しになってくれたらと密かに 願っております。






このページ への意見など

括弧が多くて読みにくい

このページは 括弧が多くて読みにくいと書いている方がいましたが、 このページに限らず、私の文章は(推敲時間の短いものほど)(←こんなふうに) 括弧が多いです。 括弧に挿入された注釈で文章の流れが分断されるのを嫌う人に配慮するなら、 注釈は末尾とか別ページに分離して、 文章中からはリンクで飛べるように書く方が親切でしょう。 でも私の場合、単にそういう書き方をするのがめんどくさいので、 注釈を入れたくなったら、 その場で書いてしまいたいというのが正直なところです。 その意味では、LaTeX の\footnote{}みたいな書き方ができると便利かなと。 一方で私の場合、 本などを読んでいて注釈がある場合には、注釈も一通り読みたい人間なんですが、 注釈が別ページにまとめてあったりすると いちいち別ページをめくるのがとてもめんどくさくて、 注釈もできるだけ文章中に埋め込んでほしいと感じてしまいます。 ウェブページでも、注釈を読むのにいちいちリンク先をクリックして 行ったり戻ったりするよりは、できるだけ文章中に埋め込まれた形で 注釈を読みたいと思うことも多いです (まあ、注釈の長さにもよりますが)。 つまり、この辺は好みの問題もあると思うので、 括弧書きされた注釈をすべて隠して注釈印*だけの表示にするか、 注釈を括弧書きですべて文章中に埋め込んで表示するかをクリック一つで 切り替えられるようにするのがより良いということかな。 こういうことって、 スタイルシートの切替とかで実現できるものなんでしょうか。

あと、そもそも注釈をできるだけ使わずに説明するのがよいという考えも あるかも知れませんが、私は文章情報の各部がどれだけ要点に寄与しているかに応じて、 要点に大いに寄与する骨組の部分と、要点には寄与しないけども それなりに重要な情報のこともある補足説明的な部分とを 注釈を使って二段階ぐらいに 分けておくのがそう悪いことだとは思いません。 しかし、私の書き方の場合、要点だけを知りたい人は、括弧の部分は 飛ばして読んで構わないということが十分に伝わらないので、 (括弧を読むことでことさらに読みにくくなるような場合については) せめて括弧の部分を小さい文字で書くぐらいはした方がいいのかも。 そういう意味では、 <div class="tyuusyaku">ここは注釈<div>みたいな書き方を しておいて、スタイルシートでdiv.tyuusyakuを括弧書きに小さい文字にするか、 (もし可能なら)文字を表示せずに注釈印*を表示するかを指定すると いったやり方が望ましいんだろうな。 でも、めんどくさいので、しばらくは現行の書き方を続けますが。

ついでに、言い訳がましい話をすると、 勿論、文章というのは 読みやすくまとまった無駄のない文章 を書けた方がいいとは思いますが、 読みやすくまとまった無駄のない文章 を書くには、それなりの時間と労力(と技能も)が 必要です。 読みやすくまとまった無駄のない文章 は、誰でも気軽にささっと書けるというものではありません。 一方で、話し言葉に近い文章で、 思いついたことを書きつづっていくと、 ダラダラとまとまらない(そして、しばしば付け足しの伴う)文章に なりがちですが、それでもそれなりの情報は伝達できるものです。 例えば、この「良いプレゼンと悪いプレゼン」程度の内容を、 この「良いプレゼンと悪いプレゼン」程度の話し言葉に近い文体でなら、 私は片手間に、ささっと加筆しながらこの分量まで書くことができますが、 これを例えば書籍向け?に 読みやすくまとまった無駄のない文章 に推敲し直せと言われたら、 とても片手間にささっと加筆しながら書くなんてことはできないでしょう。 文章においても話し言葉に近い方がわかりやすいという話については この辺

目次先頭
覚書きなど

書き言葉の謝罪には誠意が感じられない:
政治家や企業などが不祥事を起こしてマスコミの前で 国民や被害者に謝罪するけど、 覚えてきた書き言葉を読み上げて頭を下げられたって、 まるで誠意が感じられない。 謝罪というものは、その人の自分の言葉で述べるべきもの ではないだろうか。

このページのライセンスについて

Creative Commons License

このページは、 クリエイティブ・コモンズ (表示-非営利-継承 2.1 日本) のもとでライセンスされている。 具体的には、以下の条件に従うなら、このページを 複製したり 書き換えて二次的著作物を作成したりできるというライセンスだ。

なぜ、このページにそのようなライセンスを適用してあるかというと、 私は、 成果を 公開して共有し、欠陥などを指摘・修正し合いながら改善を図るという 考え方や手法に共感するし、 支持しているからだ (このページにだけ具体的に非営利のクリエイティブ・コモンズのライセンスを 適用したのは、書籍化出版との関係だ)。 このような公開・共有の手法がうまく機能している例としては、 Linux* に代表されるような オープンソースソフトウェアやフリーソフトウェアがあるし、 科学の発展だって、基本的には 研究成果を論文として発表して 他の研究者が利用したり追試したりできるようにする 公開システムに支えられてきているのだと思う。 さらには、言論の自由が保障された民主主義社会というものも、 こうした公開・共有方式に似た修正機能によってなりたっていると見ることも できるかもしれない *。 最近、大学でも、 授業の教材や授業風景の動画などをオープンコースウェアとして ウェブ上などで公開したり、 あるいは、学術雑誌に投稿した論文などをウェブ上で一般公開する オープンアクセスに対応したりと、 大学の成果物を公開して誰にでも自由に利用してもらえるようにしようという 流れがある一方で、 大学で生み出された成果物は知的財産として大学が一元管理して (お金設けに利用して) いこうという流れもある。 厳密に考えるなら この両者の流れは理念的にはもちろん、細かい運用面でも衝突するのではないかと 私には思えるのだけど、 今のところ、微妙に住み分けがなされながら二つの流れが 共存しているようだ。 それで、私もこのページにクリエイティブ・コモンズのライセンスを適用するに あたって不安になり、 一応、 秋田大学知的財産部門の人と、 このページにクリエイティブ・コモンズ ライセンスを適用したいということ について お話したのだが、 私が ウェブ上に公開しているようなテキストや プログラムは「職務著作」ではないから、私の責任で公開していて 構わないと思うとのことだったので、 クリエイティブ・コモンズ ライセンスを適用することにした *























検索用キーワード: プレゼンテーションの技術、OHP、パワーポイント、スライド、 latexでプレゼン、latex, dvipdfm, pdfでプレゼン、 xpdf, 話し言葉、書き言葉、NHKのニュース、発表原稿、 法曹用語、法律用語、判例用語、お役所言葉、お役所用語、 slide2.0, slide 2.0,