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このページの作者:後藤 文彦

「飲み話」というのは、「茶飲み話」を拡張して、 お茶に限らず 酒やソフトドリンクを飲みながら、研究室の各種懇親会 (いわゆる「飲み会」秋田では飲み方のみがだ)で おしゃべりするような話という意味で使っている。

目次
はじめに—コロナ自粛中特別企画(21/5/24)
訛りが抜けない?直らない?(21/5/24)
血液型は*型です(23/11/21)
彼女いますか?好みのタイプは?きれいですねえ(21/5/24)
後藤くん、あ! 後藤さん(21/5/27)
〇〇ちゃん、あ! 〇〇くん(21/6/11)
レイディーズ アンド ジェントルメン廃止、でも若い女の人ばっかり(21/6/16)
へそ出しビキニパンツ問題(21/7/21)
「ジェンダー平等」ってジェンダーに囚われてる人限定の平等?(21/7/19)
「女子枠で多様性を」は「女性ならではの視点」と同類では?(22/12/27)
価値観や文化の多様性と人種や性別の多様性を同等に扱うのは危険では?(23/7/7)
ヨメって誰の配偶者?(21/7/1)
まあまあまあまあ、おっとっとっと(21/5/31)
絶対 け゚すなよ! (21/7/14)
夢見る若者と親の呪縛?(21/9/21)
「やる気」を「習得」させることは可能なのか?(22/1/7)
一人でやると労働でも、誰かとやると娯楽になる(21/11/4)
私は非常識?(21/6/4)
エアコン、勝手に入れていいんで... (21/6/7)
昔は良かった...(高校編)(21/12/6)
昔は良かった...(大学編)(21/12/6, 12/19追記)
戦争反対か侵略反対か(2022/4/1)
「戦争とはそういうもの」だろうか?(2022/4/10)
元首や政府が犯罪を犯し放題の国家と犯罪を犯しにくい国家(2022/4/20)
ネタメモ

はじめに—コロナ自粛中特別企画 (2021/5/24)

2020年の3月頃から、コロナ自粛のため、研究室の飲み会ができない状況が続いている。 私がよく研究室の飲み会でするような(社会学的なテーマに関わるような?)話というのがあるが、 今の学生たちは、私のそういう話を聞く機会がめっきり減ってしまった。 まあ、学生からしたら、私のそんな飲み話なんて聞きたくないかもしれないが、 私と飲みに行けないことを残念がっているような学生もいることだし (まあ、社交辞令かもしないが)、 いかにも私が飲み会でしそうな話をここに少しずつ書き散らしていきたい。

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訛りが抜けない?直らない? (21/5/24)

研究室の新歓飲み会では、大抵 自己紹介をする。 言いたくないことは言わなくていいことにして、 各自の趣味や出身など、差し支えない範囲で自己紹介してもらい、 それに対して質問するということを20人ぐらいでやると、 1時間以上かかったりする(ので、これで1次会が終わってしまったりする)。 ただ、こういう飲み会での質問コーナーは、 悪ノリしてくるとハラスメントが生じやすいので、 ハラスメント発言 (さすがに最近は「彼女いますか」的なあからさまなセクハラ発言が 出ることは減ってきたと感じるが)、 ハラスメント質問が出た場合は、私が却下するというルールでやっている。 今の学生は、喫煙者も減ったが、酒もほどよくしか飲まないので、 一気飲みをする人もいなくなったが (15年前ぐらいまでは、たまにいたが)、 「しゃべることがないので一気します」みたいなことをしようとする学生が いた場合も、教員はそれをやめさせなければならない。 その辺の話は、また次回以降のネタにとっておくとして、 今回は「訛り」の話だ。 新歓 飲み会では、自分の出身地の話になりやすく、 自己紹介した学生が「私は訛りが抜けないので」とか 「訛りが直らないので」と言ってくることがよくある。 それを聞くと私は黙っていられなくなる。 「訛り」というのは、 似通った言語の間で、 一方の発音を基準として他方の発音を比較した場合に、 違っている様子を表す言葉だと私は捉えている。 誰でも、自分が使っている言葉 (たいていは生まれながらに使ってきた母語)が、 自分からすれば、最も「訛っていない」普通の言葉なのであって、 それ以外の言葉は、自分の母語から遠くなるほど、 「訛った」言葉だということになる。 私の母語は宮城県の石巻弁であるが、私にとっては石巻弁が 最も訛っていない「普通の」言葉であって、 石巻弁とは かなり違う共通語やテレビのアナウンサーの言葉は、 私にとっては、かなり訛った (地方方言との関連性の強さから敢えて言えば「東京訛り」の)言葉であり、 それに比べると秋田弁とかは、石巻弁との共通点も多く、 それほど訛っていない言葉である(私にとって)。 私は 授業でしゃべるときは、 そこそこの共通語を喋っているが、 それは、(石巻弁を母語とする)私にとっては かなり「訛った」言葉だ。 私は自分の言葉をなるべく東京訛りに訛らせて、 無理をしてしゃべっているのだ。 私が無理をしないで、訛らずに喋るとすれば、 実際、飲み会の際には、石巻弁で訛らずに喋ることもしばしばするが (それが私にとっては、最も楽で心地よいコミュニケーションであるが)、

あんだ、こいなぐしゃべったって、だいたい わがっぺ。 こいな しゃべりがだか° おいの 普通のしゃべりがだなんだど。 いっつも 授業でしゃべってる 「せん断力と曲け゚モーメントは(東京訛りのアクセントと音韻で)」 みでえな 喋りがだは、無理して、東京訛りに無理くり訛らせで、 苦労して喋ってやってんだっつごど わがっか?

とか言ったりするのだが、 共通語だって、それを母語としない人から聞けば、 十二分に訛った「普通」ではない言語なのだ。 共通語に近い方言(東京地方の東京弁も含む)を母語として育った人も、 そういう相対的視点に気づいてほしいし、 共通語からは遠い方言を母語として育った人も、 常に共通語を標準として自分の母語を卑下するような捉え方をしないで ほしいと切に思う。 1996年頃、NHKのテレビ番組でアイヌの特集をやっていたのだが、 万博(私の記憶では1867年のパリ万博かなと思っていたのだけど、 検索しても出てこないので、1904年のセントルイス万博かもしれない)で、 アイヌの人たちが「展示」されたことがある。 その「展示」されたアイヌの人が言っていた言葉が、 当時の(共通語や英語の使用に苦労しなければならないことに疑問を持ち始め、エスペラントを やり始めたりしていた)私の心を打った。 記憶に頼っているので、正確ではないかもしれないが、 およそ以下のような言葉だ。 もちろん、本人はアイヌ語で語っている (この言葉の出典がわかる人は教えてほしい)。

 あなたがたには私たちの着ているものや 食べ物が奇妙なものに見え、 私たちの喋っている言葉が奇妙に聞こえるかも知れない。しかし、 どうか理解してほしい。私たちにも、あなたがたが着ているものや 食べ物は奇妙なものに見えるし、あなたがたの喋っている言葉は 奇妙に聞こえるのだということを。

そうなのだ。 (石巻弁を母語として育った)私にとっては、 アイヌの人が感じるほどではないにしても、 共通語は十二分に「訛った」奇妙な言葉なのだ。 それは、 (石巻弁を母語として育った)私にとって、 英語や他の外国語が奇妙に聞こえるのと全く同じことだし、当たり前のことだ。 共通語が「標準」語で、自分の母語方言が「訛って」いるとか、 英語が国際語で、日本語が特殊な言語とか、そういう卑屈な 発想を持たないでほしいと切に思う。 一方で、共通語に近い方言を母語として育った人も、 「あの人、なかなか訛り抜けないね」みたいに自分を標準視する発言は 典型的な差別になり得るということを理解してほしい。 自分では「訛っていない」と思っている 共通語に近い方言(例えば東京弁)だって、 それとは違う方言を母語として育った人から聞けば、 十分に「訛った」「変な」言葉に過ぎないのだ。 どっちを基準にするかで、どんな言葉も「普通」にも「変」にもなり得る。 そういうふうに、相対的に捉えられるようになってほしい。 誰でも私的な場に限らず、公的な場でも自分の母語を使う権利はある。 それは「言語権」という権利なのだ。

なぜ「標準語」ではなく「共通語」と書くかについては、またそのうち書くことにする。 ある程度の説明は、この辺この辺とか。

小ネタ:私は石巻高校というところに行っていたが、 友達はみんな石巻弁または石巻周辺の方言を話していた。 そこに、都会の方からの転校生が来て、 共通語みたいな言葉を喋っていると、 「なんだが おめえの言葉 おがっついな」 (なんだか、お前の言葉はおかしいな) と言われたりする。 まあ、それが いじめになったりしてはまずいわけだが、 実際、私もそう思った。 石巻弁が普通のコミュニケーション言語のコミュニティーにおいては、 それ以外の言葉(たとえそれがテレビのアナウンサーに 近い言葉であっても)は、「変」な言葉になり得るのだ。

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血液型は*型です (23/11/21)

自己紹介で血液型を言う人は、この10年ぐらいはいなかったような気がするので、 いわゆる血液型占いや星座占いみたいなものは、 さすがに今どきの大学生たちにはニセ科学・オカルトとして認知されるように なったのかなぐらいに思っていたが、 先日の研究室の新歓飲みで、久しぶりに自己紹介で血液型を言う人がいた。 なので、一応、ここにも少し書いておこう。 自分の血液型を言ったり、他人の血液型を聞いたりすることには、 主に二つの問題がある。 一つは、 血液型と性格に関連があるという説には科学的な根拠がないということ。 もう一つは、 仮に血液型と性格とに関連があったとしても、 個人が自分の努力で変えられない属性 (性別とか人種とか出身とか母語とか)に対してレッテルを貼る発言は、 差別につながりやすいということ。 例えば 「やっぱり男の子だねえ、車が好きなんだあ」とか 「あの人、関西人だから面白いよ」みたいな発言は、 日常でもよく聞くかもしれないが、 典型的なレッテル貼りではある。 例えば政治家とかが、 「この性別の人は他人を思いやるから育児や看護に適している」とか 「この人種の脳の大きさの平均値は他の人種に比べて小さいから知能が劣っている」 みたいな発言をしたら大問題となるだろう。

血液型と性格に関連があるという説の問題点については、 「 血液型-性格関連説について 」というサイトで非常に丁寧に解説しているので、 私の説明を読むより、このサイトを参照してもらった方がいいだろう。 ところで、土木業界の人はヘルメットをかぶる機会が多いし、 個人専用のヘルメットが支給される組織も多いだろう。 最近は減ってきているとは思うが、昔は、 ヘルメットに自分の名前の他に、自分の血液型を書かせる風習が 一部の組織にあり、今もそういう風習が残っているところもあるかもしれない。 この風習の意図するところは、事故で怪我をして輸血が必要になったときのため、 あらかじめヘルメットに血液型を書いておくということなのだとは思うが、 今どき、血液型を調べもせずに、 ヘルメットに書かれている自己申告の血液型を信じて輸血するなんて危険な 真似はしないだろう (「医学的には血液型を調べておく必要なし」)。 私が勘ぐるに、 こういう風習というのは、 どうも、自分が親近感を覚えるレッテル貼りの習慣を、 「だって、緊急時には医学的に必要だから」みたいな 大義名分を振りかざして正当化したいという心理が働いているんじゃないかなと 思ったりする。 例えば、昔の中学校の英語の授業で、 「結婚してない女の人には Miss を、 結婚している女の人には Mrs.をつけなさい」 なんて 嬉々として教えてた世代の先生たちが、 文法という大義名分を振りかざして 自分が親近感を覚える差別習慣を正当化していた心理にも似ているんじゃないかなあと。 「ヒロミは女だからヒーローはまちがい!」みたいな。

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彼女いますか?好みのタイプは?きれいですねえ (21/5/24)

最近の学生だと、新歓の自己紹介の質問コーナーの際に「彼女・彼氏いますか」みたいな質問が出ることはなくなってきたかなと感じているけど、10年ぐらい前だと割と定番の質問で、それが出たら私がそれはセクハラだからダメと却下することになる。 恋愛パートナーがいるかどうか、更にはそれが同性か異性かといった性的指向に 関することは、他人に教える必要のないことだし (その意味では「好みのタイプは?」も同様)、集団の雰囲気的強制力の中でそれを言わせることは明らかに典型的ハラスメントだ。そういうことは、世の中の変化にともなって学生たちもそれなりに啓蒙されてきていると感じる一方、むしろ、ある年代以上の教員の方が無頓着かもしれない。教員と学生では立場の違いがあるので、この手の質問はましてや重大なハラスメント事案となる。 世の中では様々なことがセクハラと認知されるようになり、その感覚が最近の学生たちの間でも常識化していく中で、私が違和感を覚えるのはテレビのバラエティー番組が未だに典型的なセクハラを規制せずに垂れ流しているということだ。

例えば、所さんの番組(たぶん「笑ってコラえて」)で、 駅前とかの待ち合わせ場所で待っている人にいきなり声をかけるというコーナーがある。 そこで声をかける相手は、 (私がたまにこの番組を見るときがたまたまそうなのかわらないが) どうも若い女の人ばかりで、 更に勘ぐると、世間的な価値観で「きれいな」人にばかり声をかけている ようにも見受けられる。 この時点で既にだいぶ怪しいコーナーだなという感じになるが、 レポーターが 「すいません」とか 「誰か待ってるんですか」 みたいな一言、二言を交わした後に、いきなり 「きれいですね」 だの「かわいいですね」と言ったりする。 おそらく、2021年現在でも。 ちょっと待ってほしい。 駅前で待ち合わせをしているときに、 知らない人が近寄ってきて、 「誰か待ってるんですか」 「きれいですね」 なんて言ってきたら、それはもう相当な恐怖を感じるような 状況だと思うのだが。 もちろん、このレポーターだって、 (番組では、レポーターの一人称視点なので、 レポーターがどんなふうにカメラやマイクを構えているのか、 あるいは他の撮影スタッフなどを同行しているのかはわからないが) カメラやマイクを持って(あるいは撮影スタッフを同行して) 撮影だとわかってもらえているという状況だから、 (あるいは番組からそう言うように指示されて) 「きれいですね」 と言っている(言わされている)んだろうし、 さすがに、番組とは関係なく、プライベートでも 知らない人に突然「きれいですね」と声をかけたりは していないだろうとは思う。 しかし、テレビを見ている人はどう思うだろうか。 これが、三人称視点のレポートで、 テレビを見ている人も、 話しかけられた人がカメラや撮影スタッフ等が見えている様子が わかるんだったら、 ああ、テレビの撮影とわかる状況だから、 レポーターがセクハラまがいのことを言っても、 番組で言わされているんだと理解しやすいかもしれない。 しかし、こういうメタな情報の読み取りが苦手な人の中には、 一人称視点のレポートを見て、 突然 知らない人に「きれいですねえ」と言うのが、 普通に許容されるコミュニケーションだと思い込んでしまう人だって いるかもしれない。

だから、放送倫理というのは重要だと思うのだが、 日本のテレビのこうした(特にセクハラに関わる)放送倫理は、 日常の会話感覚からも、既に相当に乖離して立ち遅れているように私は思う。 だって、 例えば研究室内で、学生どうしが「きれいだね」なんて コミュニケーションを交わすことはまずあり得ないことだし、 ましてや教員が学生に言ったりしたら完全にアウトのセクハラ事案だが、 テレビのバラエティー番組では、 ゲストに対して「きれいですねえ」というのが、 当たり前の社交辞令として罷り通っている。 「きれいですねえ」と褒めているのだからいいじゃないかと 思う人もいるかもしれない。 でも、「きれいですねえ」がどんな文脈(状況)でどういう意味合いで 発せられることが多いか考えてほしい。 例えば「字がきれいですねえ」とか 「歌がうまいですねえ」とかと同じような意味合いの褒め言葉として 使われているようには、私には観察されない。 大体において頻度が違い過ぎるし、 女の人に対して言われることが多いし (もちろん、男の人に対する「イケメンですねえ」とかも同様だが)、 世間的な価値観で「きれいな」人 (または、アイドルとか役者とか、そういう「美しい」外見が売りの人)に 対して言われることが多いし、 やはり、そういう意味合いで言われているものと私には受け取れる。 わかりやすく言うと、 「あなたの外見は私の好みで、ぐっと来る」 とか、 「あなたの外見は私のストライクゾーンどまんなかだ」 とか言っているのと、大して変わらないと私には感じられる (というか、テレビではこうした直接的表現すら頻出する)。 さすがに、こんなことを他人から言われたら (その人がたまたま自分の好きな人だとかいうことでもない限りは)、 なかなかキモいと思わないだろうか。 しかも、例えば恋の告白として、そういうことを言われたのなら、 (まあ、恋の告白でいきなり外見のことを言うのもどうかと思うが)、 恋の告白は言われる方もストレスを受けてしまうことは 免れないから、一回切りの恋の告白で、 その後ストーカーされたりしないのであれば、 それはまあ、ある程度は仕方ないことかもしれない。 しかし、 社交辞令として、挨拶代わりのように「きれいですねえ」 (あなたは私の好みのタイプです)と言われるのである。 正直、私でもなかなかキモいと思う。 今は、2021年だけど、たぶん、今のテレビでもそんな感じだ。

更にあり得ないのは、外見をけなす発言すら、テレビでは許容されている (特にお笑い芸人に対しては)。 日常の会話の中で、他人の外見をけなすなんていうのは、 もはやあり得ないレベルの非常識なことなのに、 テレビではそれが未だに許容され、 お笑いのお決まりのネタの一つにしていいことになっている (これもまた次回以降のネタにしよう)。 飲み話ということで「彼女いますか」からだいぶ逸れてきてしまったが、 テレビの(特にバラエティー番組の)司会者やレポーターの しゃべっていることは、 既に日常のセクハラ(やその他のハラスメントの)感覚からも だいぶずれているので、 そんなものを真似してはいけないということだ。 まあ、普通の人は、それを承知した上でテレビを見ているんだとは 思うが。

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後藤くん、あ! 後藤さん (21/5/27)

コロナでオンライン授業ばっかりになってから、なかなか 学生の名前を呼んで出席をとることがなくなってしまったが、 だから最近の学生は、私が出席をとるときに学生を「さん」で呼ぶということを 知らないかもしれない。 私は、2002年に秋田大学に来たときから (厳密には、その前に東北大学で助手をやってた時から)、 出席を取るときに学生の名前(名字)に「さん」をつけて出席を 取っている。 もし、同じ名字の人が並んでいる場合は、氏名(名字と名前)に「さん」をつけて 呼んでいる。 2021年現在、恐らく大学の先生の多数派は、 (名前や声や外見から)男(と思われる)学生には「くん」をつけて呼び、 (名前や声や外見から)女(と思われる)学生には「さん」をつけて呼んで いるのではないかと思う。 ちなみに、 秋田市では、うちの子が小学生だった2010年頃から、 すべての学生に「さん」を つけて呼んでいたと思う。 今は、もう児童の性別で区別して敬称を変えるということを やめたのだなと、これに関しては いい傾向だなと思っていたのだが、 一方で 中学校や高校では、どうも2021年現在も 男(と思われる)学生には「くん」をつけて呼び、 女(と思われる)学生には「さん」をつけて呼ぶ というやり方らしい。 つまり、小学校では、 男女区別せずに児童を「さん」で呼ぶようにという指導が行き届いている のではないかと察するが、 一方の中学や高校、ましてや大学では、 そういう指導は全く浸透しておらず、 未だに昔ながらの 男(と思われる)学生は「くん」、 女(と思われる)学生は「さん」が続いているのだろう。 数年前、コース長会議というのに出た際、 「最近は、学生の呼び方は男女区別せずに「さん」で呼ぶのが 推奨されている」 という話をされて、 ようやくそういう話が、大学でも上から下りてくるようになったのかなあと 思ったのだけど、 そうすべき理由というのが、ちょっと?だった。 LGBTの学生への配慮だというのだ。 つまり、 自分の性自認が生物的性と違う学生は、 名前や声や外見から推測される生物学的性別を明示する 呼称では呼ばれたくないだろうということだ。 それ自体は、その通りだろう。 しかし、学生(に限らず人)の名前を呼ぶ際、 更には、三人称として誰かに言及する際に、 常に対象の性別を区別して明示する言語習慣や文法 (「くん」や「さん」による区別もそうだが、 ヨーロッパ諸語における男女や更には女だけ未婚か既婚かを区別する敬称や 常に男女を区別する三人称代名詞)は、 LGBTへの配慮などには留まらない、 より根本的な次元で大きな性差別の問題だと私は捉えている。

誰かの名前を(出席を取るといった)何らかの目的で呼ぶとき、 あるいは、誰かについて、その人の注目すべき特徴 (例えば、プログラミングが趣味で、 最近のプログラム言語のことを聞くと、だいたい何でも答えてくれるとか)を 話そうとしているとき、 常にその人の性別を(「くん」や「さん」の区別)で明示したり、 あるいは代名詞(「彼」とか「彼女」とか)で明示するということは、 その人について、名前を呼んだり、話題にあげたりする 目的と関係ありそうな情報: 例えば、構造力学の授業を取っている土木コースの2年生だとか、 いつも5分ぐらい授業に遅れてくるので、出欠に遅れることが多いとか、 プログラム言語の他に各種外国語も基本単語や基本文法のことは知っていて、 何語だかわからない単語のこととかを聞くとだいたいわかるとか、 そういう その人についてのどんな情報よりも、 性別についての情報を特別扱いしているということだ。 人間についての情報はたくさんあるのに、どうして常に、性別についての情報のみを、 特別扱いして、常に明示しようとするのだろうか。 もちろん、ヨーロッパ諸語のように、 三人称代名詞を男女で区別することが、文法レベルで組み込まれている言語も多い (ちなみに、 ハンガリー語の三人称代名詞は男女を区別しない)。 どうして常に性別を明示するのかと言われたって、 それが文法で決まっているのだから、それ以外の選択肢を選べない。 そう答えてしまったら、思考停止だと私は思う。 そして、こういう思考停止が多くの差別を再生産しているのだとも思う。 文法が性区別を要求する場合、それは、単に社会的な性差別の反映だと私は捉える。 もし、敬称や三人称代名詞で人種を黒人と白人と黄色人とで常に区別し、それを明示する 言語があったらどう思うだろうか (もちろん、性別と同様、人種に明確な境界はないのだが)。 例えば、名前を呼ぶときに、黒人は「くん」、白人は「さん」、黄色人は「ちゃん」と呼び、 三人称で言及するときに、 黒人は「彼黒」(かのこく)、白人は「彼白」(かのはく)、 黄色人は「彼黄」(かのおう)と常に区別する言語があったとしたら、 どう思うだろうか。 さすがに、差別的だと感じないだろうか。 しかし、この言語を話す人たちは、それが文法的に決まっているから、 他の選択肢はないと、そういう言葉づかいを続けているのである。 私は、英語を筆頭とする現在の多くの民族語における性区別を要求する言語習慣や文法がやっていることも、 まるで同様のことだと捉えている。

ちなみに、英語で性区別しない代名詞としては各種の提案があるが、 代表的な一つとして、they を単数として使うというのがある。 実際、古い英語では、theyが単数として使われていたそうで。 その場合、動詞は複数形のtheyと同じようにthey areとかを使うそうだ。 単数のyouでもyou areとなるのと同じ扱いとか。 また、再帰代名詞は themselves でなく themself を使うとか。 私からすると、英語でいちいち she だの he を使わされるのもなかなかストレスなので、 さっさとこういうのが一般化してほしい。

さいわい、日本語は、(文法レベルで性区別が組み込まれてしまっている ヨーロッパ諸語等と比べると)こういう性区別をしないことが割とやりやすい言語だ。 例えば、「さん」は性別に関係なく使えるし、 代名詞だって、別に「彼」だの「彼女」を使わなくたっていい。 というか、そもそも「彼」だの「彼女」を日本語の中で使うようになったのは、 ヨーロッパ諸語からの翻訳の中で使われ始めたことであって、 今だって、子供はこんな代名詞は使わない。 子供は、 名前を繰り返したり、「ママが」「じいじが」「あの人が」などを使っているはずだ。 私は会話で「彼」だの「彼女」を使わないが、 大人だって、「彼」「彼女」を使わない人は、 多いのではないだろうか。 子供に、「おかあさん どこ?」と聞いて、 「彼女は留守です」なんて答えるようになったら、 それは日本語の危機だと私は感じる。 私が宮城県の仙台の大学に通っていた頃、 訛りの話題とも関連するが、 私は共通語をしゃべらないといけないと思い込んで、 苦労して共通語を練習したものだが、 割と共通語に近い方言をしゃべる友達で、 「彼はねえ」みたいに三人称を使う人がいた。 だから、私は、こういうふうに三人称を使わなければならないんだと 思って、何度か「彼はねえ」というのをまねてみたことはあるが、 なかなか、慣れなかった。 特に「彼女はねえ」なんていうのは、自分でも気持ち悪くて、 なかなか言えなかった (たぶん、私は、今まで「彼女は」という三人称は使ったことは ないように思う)。 石巻弁を話すときと同様に、 名前を繰り返したり「あの人は」とかで十分に誤解なく表現できるのだから、 別にそこまで共通語?に合わせなくたっていいのではないか。 これは、共通語の方が「彼」「彼女」を使う傾向が高いという要素だけではなく、 大学生という年頃の要素もあるだろう。 「彼」「彼女」という代名詞を使って話ができるようになると、 なんか大人っぽいという憧れ?とかもあるのではないだろうか。 だから、「彼」「彼女」を使っている大人が、「彼」「彼女」を使い始めた時期というのは、 だいたい大学生ぐらいの年頃なんではないだろうか。 少なくとも中学生は使わないだろうし、 英語の時間にhe, sheを「彼」「彼女」と訳させられて、 それがなんとも違和感いずい と感じたはずだ。 高校生でもまだ使わないんではないだろうか (まあ、アニメとかの影響を受ける場合はあるだろうが)。 「いずい」は「違和感を覚える」というような意味の東北弁だが、 これもまた、別のネタとしていつか詳述する。

今回のテーマはあまりに根深い問題なので、 また改めて、ネタにするかもしれないが、 私は そういうような問題意識を持っているから、 学生を呼ぶときは「さん」だけを使うことにしているということ。 私が大学生のときも、ほぼすべての先生は「くん」「さん」方式で出席をとっていたが (たまに呼び捨ての人もいたかも)、 私が特に不自然に感じたのは、 名簿を見ながら名前を呼んでいって、 工学部だと(特に当時は)男ばかりだから、 ずーっと「くん」が続いて、そのまま「後藤くん」と呼んだときに、 その声が女の人と思われる声だったりすると、 「あ! 後藤さん」と言い直したりする先生が結構いた。 うちの子に聞いたら、これは今時の中学や高校でもよく起きる 「出席あるある」のようだ。 さらに、同じ名前の人が2人 並んでいる際に、たまたま性別が違う2人の場合は、 氏名(名字と名前)を呼ばずに名字だけで、 「後藤さん、後藤くん」みたいに区別して済ます先生もいる。 私は、こういうのが気持ち悪いと思うので、 名字が同じ学生が複数 並んでいるときは、 氏名(名字と名前)に「さん」をつけて呼んでいる。

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〇〇ちゃん、あ! 〇〇くん (21/6/11)

上の子が、2才とか3才とかの小さい頃、 つまり、2000年代の前半だが、 病院につれていくと、秋田市の病院では (日本全国かもしれないが)、 女の子の名前を「ちゃん」で呼び、 男の子の名前を「くん」で呼んでいるようだ。 だから、名前を見て「ちゃん」とか「くん」で呼んで、 本人を見たら、(外見から推測される)性別が 想定していたものと違った場合は、 これまた例によって、 「〇〇ちゃん、あ! 〇〇くん」だの 「〇〇くん、あ! 〇〇ちゃん」だのの言い直しが発生することになる。 私の子供の頃は、 小さい子は男女関係なく「ちゃん」だったような気がするが、 どうだろう?  ちなみに、秋田市の幼稚園では(全国的にかもしれないが)、 うちの上の子のときも下の子のときも 男の子が「くん」で女の子が「ちゃん」だった。 まあ、昔は小学校辺りから、 学校で先生が呼ぶときは、 男子は「くん」、女子は「さん」と区別していたから、 その風習を幼稚園児にも適用しようとして、 さすがに幼稚園児が「さん」では不自然だから、 じゃあ、女の子の方は「ちゃん」にしようかという感じで、 そんな風習が定着していったのかもしれない。 一方で、(少なくとも秋田市の)小学校は、2000年代前半の時点では、 既に男女区別なく「さん」で呼ぶようになっているというのに、 そういう(不要な区別を増やす方向の)風習を新たにつくるのは、 つくづくやめてほしい。 しかも、 「〇〇ちゃん、あ! 〇〇くん」みたいに言い直したりしたら、 それを聞いた子供は、 「ちゃん」を男の子に対して使ってはダメなんだなと間違った理解を するかもしれない。 これから言葉づかいを覚えていく子供に対して、 そういうおかしな区別習慣を植え付けていくのは、いかがなものかと思う。

「ちゃん」と言えば、もう一つ小ネタがある。 研究室内で学生たちが、お互いをどう呼んでいるかである。 これは学年ごとのノリで、様々なのだが、 割となかのよい学年だと、 お互いを名前に「ちゃん」づけで呼んでいることもある。 まあ、それはたいていは好ましいことだろう。 でも、ちょっと注意が必要だ。 例えば、男の学生は名字の呼び捨てや名字に「くん」づけで呼んでいるのに、 女の学生だけを名前に「ちゃん」づけで呼んでいるような状況が あったとすると、それはセクハラになる可能性がある。 「ちゃん」は、大人にとっては親しい間柄での呼称であって、 特に親しい間柄だと思ってない人から、 「ちゃん」づけで名前を呼ばれるのを気持ち悪いと思う人は多いだろう。 職場の上司が女の社員だけを「ちゃん」づけで呼ぶのは割と典型的な セクハラだが、 教員が女の学生だけを名前に「ちゃん」づけで呼んだりしていたら、 同様にセクハラ事案だろう。

もう一つ関連する小ネタ。 私が子供の頃は、というか、大学院生をやっていた 1990年代ぐらいでも、 「きょうだい」と言えば、男女関係なく「きょうだい」の意味で使っていたと思う。 というか、私は日常の中で、 「姉妹」なんて言葉を使ったことはない。 「姉妹校」だの「姉妹都市」という用語として使うことはあるが、 女のきょうだいの意味で姉妹というのを使ったことはない。 というか、私は個人的な文章(ここみたいな)を書く際には、 用語といえども、なるべく性的に中立な表現を模索するようには している。例えば、私はピアノが好きだが、 きょうだいで連弾するピアニストはよくいるが、 二人とも女のきょうだいのときは、ラベック姉妹だのペキネル姉妹だのと 表記される。下手をすると、更に「兄妹」だの「姉弟」みたいな表記も 使われるかもしれない。 どうしてそんな性別だの年の上下をいちいち区別して表記しようと するのだろう。ぜんぶ「きょうだい」でいいのでは。 たぶん、今も子供は男女関係なく「きょうだい」を使っているのではないかと 思っているが、ちょっと自信がなくなってきた。 というのは、テレビの中で、 兄弟は男のきょうだいだけを意味し、女のきょうだいに対しては姉妹を 使うという言語用法が、少しずつ蔓延してきているように感じて、 ちょっと気持ち悪い。 「きょうだいはいますか」と質問されたのに対して、 「兄弟はいないけど姉妹はいます」みたいに答える人がいたりとか。 これは、英語教育の弊害ではないだろうか。 確かに兄弟と書いてしまうと兄と弟なので、 男のきょうだいだけしか意味しないようにもとれるので、 性的に中立な「きょうだい」を表記するために、 ひらがなで「きょうだい」と書く向きもある (少なくとも20年以上前から「きょうだい」の表記はあったと思う)。 中学のとき、 英語で「きょうだいはいますか」を表現できない (「男のきょうだいか女のきょうだいはいますか」と表現しなければならない) なんて、英語はなんと不便な言葉なんだろうと 思ったものだけど、実は sibling という単語が、 性別に関係ない「きょうだい」の意味で使えるようだ。

中学の英語の時間に、どうして男女を区別しない「きょうだい」はないんですか。 と先生に質問すると(私に限らず、この質問をする人は結構いた)、 日本語のきょうだいは男女は区別しないけど、 年上、年下は区別しますよね、 英語では、男女は区別するけど、年上、年下は区別しないんです。 という答えがほぼ必ず返ってくるものだったが、 まあ、確かに年上、年下も区別せずに、「きょうだい」の一語だけで、 兄でも姉でも弟でも妹でも表せばいいと思うのだが、 実は私は、次男だの次女というのが、 何番目のきょうだいなのか未だによくわからない。 上の子が、学校の書類だかを書くときだったか、何かのときに聞かれたけど、 「実は、とうちゃんも わがんねんだ」ということになった。 次男というのは、上から二番目のきょうだいで性別は男なのか (つまり、姉の次の二番目とかでもそう言うのか)、 男のきょうだいに限定して上から二番目なのか (つまり姉が何人いようが、兄が一人だけなのか)、 未だに迷う。 しかも、長男とかそういう言葉は、家父長制で特別な意味を持つ用語でもあるから、 こんな言葉は、自分からは使おうとは思わない。 なので、扶養控除の書類とか、 その手の書類の自分の子供の 続柄つづきがらの ところに、なんて書くかなんだけど、 私は今までのところ「子」と書いているが、 それで、特に書き直しになったことはない。 というか、見本の記入例が既に「子」になっていると思う。 そのうち調べたら追記するが、 今は役所の書類とかでも、「長女」「次男」みたいな区別は しない方向になってきているのではないだろうか。

関連する小ネタをいっぱい思い出した。 私は自分の子について言うときに、「うちの子は」だの 「うちの上の子は」としか言わない。 そうすると、「息子さん」なのか「娘さん」なのかわからなくて、 困る人もいるようだ。 別に「お子さん」でいいんだけど。何才になっても。
保護者説明会のときだったか。 コース長挨拶かなんかで。 各コースのコース長たちが、 新入生のお子さんたちの入学おめでとうございますの意味で、 何か、私の聞きなれない言葉を使っていた。 最初に挨拶したコース長がその言葉を使うと、みんな、 同じ言葉を使っていたが、 「ご子息しそく、 ご息女そくじょ」だったか?  初めてコース長になった若い先生とか、 舌を噛みそうになりながら、その言葉を使っていたところから邪推すると、 もしかして、この場で初めてこの言葉を使った人もいるんじゃないかと 疑ってしまうのだが、 仮に、他の人たちが、自分の聞きなれない決まり文句で 挨拶をしていたとして、 それに倣っておこうみたいな発想はやめてほしい。 もちろん私がコース長で挨拶したときは、 「お子さんがた」みたいに言ったと思うが...

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レイディーズ アンド ジェントルメン廃止、でも若い女の人ばっかり (21/6/16)

国内線の航空会社が、 機内の英語アナウンスで乗客に Ladies and Gentlemen と呼びかけるのをやめて、 all passengers や everyone と呼ぶようにしたそうだ。 それはいいことだ。人を呼ぶ際に常に男女で区別して呼ぶのは、 「黒人、白人、黄色人のみなさん」と言っているのと 同じように差別的なことだから、是非やめた方がいいだろう。 ところが、このやめる理由というのが(ニュースをちゃんと見てないから 誤解してるかもしれないが)、これがまた 大学で学生を「さん」で呼ぶのを推奨の理由と 同様で、LGBTの人への配慮とかと報道されてたりする。 いや、そんな小さなことではないだろう。 常に性別を区別して人に言及する言語習慣や文法は、 LGBTの人への配慮に留まらない、より根源的な性差別の問題だ。 とはいえ、国内線の航空機で、 レイディーズ アンド ジェントルメン (日本語のカタカナはどうでもいいとは思っているが、 ladiesをローマ字読みでもなく、レディースと表記する不可思議については、また 今度のネタにする) をやめたこと自体は、性差別のない社会へ向けてのとても良い変化だと評価できる。 一方で、 レイディーズ アンド ジェントルメン よりももっと気になっていることがある。

国内線の航空会社が、本当に性差別の解消について真面目に考えているのであれば、 客室乗務員が、若い女の人ばっかり (更に邪推すると、世間的な価値観できれいな人ばっかり) という状況こそ、 改善の優先度は遥かに高いのではないかと私は思っている。 実は国内線でも男の客室乗務員も僅かにはいるようではあるが、 アファーマティブアクションでもやらないと、 この状態はしばらく改善できないだろう。 日本というのは、こういう感覚が非常に遅れていて、 客室乗務員とか、アナウンサーとか、お天気キャスターとか、 そういう特定の技能を要求される職業の人に対して、 若い女性の「外見のきれいさ」を鑑賞価値として利用すること を差別的だと認識する人が未だに少ない。 人の外見のきれいさやかわいさといった性的な要素だけを、 その人らしさを表す様々な要素から切り離して鑑賞価値として 商業的に利用する手法のことを、 昔の言葉では「性の商品化」と言ったのではないかと思うけど、 最近は「性のモノ化」といったりするようだ (この辺は、私の捉え方で噛み砕いているので、 本来の用語の定義については、またそのうち補足するかもしれない)。

例えば、国際線の飛行機に乗ると(これも国によって傾向があると思うが)、 航空会社によっては、 客室乗務員は、(外見で判断する限り) 女の人も男の人もいるし、 年齢も若い人も年配の人もいるし、 体型も細めの人も太めの人もいるし、 (国にもよるが、人種的なばらつきもあったり) 様々である(国によって女の人が多いとか、そういう傾向はあるだろうが、 日本の国内線ほどあからさまではない)。 何らかの差別的な選別をしない限り、それが 客室乗務員という技能者の 自然な分布になるはずだと私は思う。

コロナ騒動の中で「接待を伴う飲食業」という言葉が、 用語として使われるようになったが、 若くてきれいな女の人に接待されたいとか 若くてきれいな男の人に接待されたいと 思う客を対象とした「接待を伴う飲食業」のお店が、 若くてきれいな女の人ばかりを選択的に雇うとか、 若くてきれいな男の人ばかりを選択的に雇うとか、 そういうことは、あってもいいかもしれない。 もちろん、やっていることは差別的なことではあるが、 こうしたお店を利用する人は、 「若くてきれいな女の人による接待」 「若くてきれいな男の人による接待」という サービスを求めて、 自分でなんらかの入場制限(例えば看板を見ればそういう店だとわかるとか、 会員登録しないと利用できないとか) を乗り越えて、 そういうサービスのお店を利用しているわけである。 もちろん、そういうところで働く人が、 未成年だったり、なんらかの社会的弱者で、 騙されたり搾取されたりしている構造がある場合は、 それはそれで問題視すべきであるが。

しかし、飛行機に乗る人は、第一に移動手段として 飛行機に乗る人が大多数であって、 「若くてきれいな女の人による接客」を求めて 飛行機を利用しているわけではないはずだ。 しかも、国内線というのは、公共性の高い輸送機関であるから、 「若くてきれいな女の人による接客」といった 極めて特殊なサービスを求める客に特化したサービスを デフォールトに設定するのはおかしなことだ。 飲み会の二次会、三次会で、 (普通に酒を飲む店に入ろうとしていて) 適当な店に入ったところ、 若くてきれいな女の人ばかりが接客してたら、 店を間違ったと思って、 慌てて飛び出すことになると思う (そんなサービスを求めていたわけではないし、 そんな特殊なサービスを提供する店は、料金がとても 高いだろうから)。 秋田から東京まで移動しようと思って、 選択できる航空会社の飛行機に乗ったら、 客室乗務員が若くてきれいな女の人ばっかり、 というのを見る度に、私は「あ、間違った店に入ってしまった」という 感覚を覚える。

関連する小ネタ。 タイヤ交換とかで車屋(ディーラー)に行くと、 待っている間にお茶と菓子を出してくれるのだが、 この お茶を出す担当の人が、いつも若い女の人 (更に邪推すると世間的な価値観できれいな人)だ。 その車屋は、 我が国が誇る世界的な自動車メーカーのディーラーだ。 一方で、タイヤ交換とか定期点検とか、客に車に関する対応をする人は、 (外見で判断する限り)男の人ばかりだし、整備士も男の人ばかりだ。 担当ごとに固定された性別役割があるように観察されてしまう。 まあ、日本というのは、先進国の中では特に性別役割が未だに強い社会なので、 大学も女の教員は少ないし、 学科等が秘書として雇う非常勤職員は女の人ばっかりだし、 そういう意味では、日本の自動車メーカーに限らず、 日本の大学だって似たようなレベルではある。 だから、お茶を出してくるのが、いつも若い女の人なのは、 まあ、そんなものなのかなあとは思っていた。

それが、数年前、このお茶を出す若い女の人が、 それまでは、(記憶が定かではないが)私服っぽい服装だったような気がするが、 あれ? と思うような制服になってしまったのだ。 携帯ショップで接客する若い女の人の制服みたいな制服とでも言えばいいだろうか。 携帯ショップの制服で十分に通じると思うが、 (ファッション用語が正確でないかもしれないが) ワンピースで下がやや短めのスカートになってるとでも言えばいいのだろうか。 携帯電話会社各社は、昔から「若くてきれいな女の人による接客」を 露骨に利用していたから、 これはこれで、国内線の航空会社と同様、どうかと思うことではある。 だって、携帯電話って、誰でも買うもので、 「若くてきれいな女の人による接客」を求めて、 なんらかの入場制限を乗り越えて、携帯ショップに行くわけじゃないよね。 だから、レベルとしては、車屋よりも、携帯ショップの方が遥か昔から、 もっと酷かったのであるが、 その携帯ショップの制服を車屋も真似して取り入れたという感じだ。 どうして、そう逆行する方向に行くのだろうか。 今は、2021年だ。 この車屋は、世界的な自動車メーカーなのだが、 海外支店のディーラーでは、どうしているのだろうか。 ちょっと興味がある。
2022/8/3追記: 2022年3月頃に、大型電気店でスマホを新しくしたのだが、 携帯コーナーの店員は、見た目で判断する限り女の人も男の人も同じような 長ズボンだった。上に書いた「携帯ショップの制服」というのは、 私が2010年代に大型電気店や携帯ショップで見て印象に残ったときの 記憶を脳内一般化して、 最近もそうだと記憶を捏造していたのかもしれない。 少なくとも、2022年現在の大型電気店の携帯コーナーの制服は、 男女とも普通に長ズボンとかだ。これはいい傾向だと思う。 もしかして電気店から携帯コーナー店員の制服に対してそういう要請が あったりしたのなら、更にいい傾向だ。 携帯ショップの方は確認してないが。 携帯ショップの方も今は男女とも長ズボンなら、更にいい傾向だが... (ついでに、私はズボンのことを「パンツ」というのに反対?だが、 これについてはまた今度)

さて、大学というところも、 (社会学やジェンダーを専門にしている人たちでもなければ) 残念ながら、こういう意識は、なかなか低いので、 女の学生を広報誌にカバーガールのように載せたり、 ポスターやパンフレット類に、 女の学生を選択的に(かわいさを強調して)載せたりといったことをやりかねない。 だから、私はいつもハラハラしている。 ある大学では、高校生への大学紹介や研究紹介を 女性に限定した大学院生のグループにやらせていたりする。 まあ、その大学では、男女共同参画の組織がそれをやっているので、 何か勘違いしているのではないかとも思うのだが、 ネガティブキャンペーンはやめておこう。 秋田大学の男女共同参画の組織も、そういう他大学の勘違いしたやり方を まねしたりしませんようにと、 ハラハラしているこの頃である。 なお、女性に限定した大学院生のグループに参加してる大学院生にせよ、 ポスター類にカバーガール的に載せられた学生にせよ、 大学側からそういうふうに利用されている被害者的な側面もあるので、 こうした学生たちを責めないでほしい。 責めるんだったら、そういうことをしている大学の各組織や、 それを指示している大学執行部とかだろう。 もう少し補足すると、理系で活躍している女の人がいるという情報を 発信し、広報すること自体は悪いことではない。 だから、高校生に広報活動をする教職員や大学院生のグループの 中に、女性が一定数入るように配慮するとか、そういうことであれば、 理解はできる。 しかし、女性だけのグループを作って広報をすることは、 「女性という価値が利用されている」というメッセージも発信 してしまうため、注意が必要だ。 特に、ポスターやウェブサイトなどで、 かわいさを強調したような演出をしてしまったりすると、 アイドルグループと同じような手法で 「女性という価値が利用されている」というメッセージを 受け取る人もいるだろう。

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へそ出しビキニパンツ問題 (21/7/21)

そろそろオリンピックが始まるらしいので、 一応、この問題にも触れておこう。 各種の女子スポーツ競技で、 肌の露出とか、体の線が強調されるウェアとか、 競技中にめくれあがるスカート状のヒラヒラとか、 その手の性的要素が鑑賞価値として抱き合わされる問題のことだが、 フィギュアスケート女子を始め、テニス女子とか、新体操女子とか、 露骨な「性のモノ化」が放置されている (エスカレートしている)競技は多々ある。

そんな中で、 ノルウェーの女子ビーチハンドボールチームが、 ヨーロッパ選手権の際にビキニの着用を拒否して短パンを着用して プレーしたところ、ヨーロッパハンドボール連名に約20万円の罰金を 払わされたんだとか (HUFFPOSTの記事)。 なんでも、 国際ハンドボール連名のユニフォーム規定では、 ビーチハンドボールの女性選手は 「女性用ビキニパンツを着用しなければならない」と定めれれているんだとか。 こんなことを恥ずかしくもなく規定にしてしまえる 感覚にはびっくりだが、 罰金を払ってでもそんな「性のモノ化」を強制する規定に抗議しようとする ノルウェーのチームは立派だ。 一方で、 イギリスの女子陸上のオリヴィア・ブリーン選手は、 イギリス国内大会の際に「(ビキニパンツの)ユニフォームが短すぎて不適切だ」と 注意されて、 「男性アスリートも同じ批判を受けるだろうか、と疑問を感じました」 などと反論したようだ (HUFFPOSTの記事)。 うーん、そもそも、男子陸上も男子ビーチハンドボールや 男子ビーチバレーも、 ビキニパンツなんて履かないし (もしかしてごく小数いるかもしれないが)、大部分は短パンだし、 ヘソも出してないし (男子ビーチバレーとかも、たぶんヘソは出してないんでは?)、 もし、 女子選手が着用する肌の露出の多い、体の線を強調するウェアが、 本当に機能的なんだったら、 少しでも記録を伸ばしたい男子選手だって着るはずだ。 そうなってないということは、 女子選手が着用する肌の露出の多い、体の線を強調するウェアが、 機能性のためでないことは自明かと。 こうした ウェアが規定で決まっていたり、 コーチなどの指導者やスポンサー等から強要されていたりするんだとすると、 不本意ながらそれに従わなければならない女子選手は 気の毒だと思うが、 ブリーン選手のように、自分から望んでそういうウェアを着用 している選手も多いのだろう。 特にウェアに対してそんな (ヘソを出してビキニパンツを履くこと)みたいな規定がない 競技(陸上もたぶんそうでは?)で、 そういうウェアを着ている選手たちは、 割と自分から望んで着用しているのかもしれない。 うーん、 ノルウェーの女子ビーチハンドボールチームを見習ってほしいところだ (まあ、ヘソは出てるけど)。

数年前、フィギュアスケートの村主 章枝さん(だったと思うが)が、 テレビのバラエティー番組で、あのおしりが見える衣装が恥ずかしかったみたいな ことを言っていた。 ああいう恰好がいやだと思いながら、 監督とかに強制されて拒否できない選手たちもきっといるのだろう。 普通、スカート状のものがまくれ上がっておしりの線が見えたら、 恥ずかしいと思うのが普通の感覚であって、 そういう光景を当たり前のようにテレビで眺めながら、 「だって、フィギュアスケートだから」で納得してしまえる 感覚の鈍麻に、私は恐怖すら覚える。

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「ジェンダー平等」ってジェンダーに囚われてる人限定の平等?

最近 政治家等に使われだした「ジェンダー平等」という言葉に違和感を覚えた。 男女の他にLGBTも含めたという意味の(区別を増やす方向にピントのずれた)配慮でもしたのか、はたまた 日本人が、genderの意味をわからずに、安直にsexの代わりの婉曲表現として 使いだしたのかと思ったら、英語でもgender equality が既に sexual equalityの代わりに(婉曲表現?として)使われているようだ。 Wikipedia によると 「 欧米では一般でもジェンダー(gender)は、性(sex)と同義の言葉として婉曲的に用いられるようになった 」 ということのようだ。 それはいいことではない。 こういう言葉の使い方を許容すると、 ジェンダーを本来の 「社会的につくられた女らしさ・男らしさ」の意味で使う人と、 単に sex(生物学的性)の婉曲表現として使う人との間で混乱が生じる。 現に「ジェンダー平等」という 言葉を聞いて私は混乱した。

ちなみに、私は「体の性と心の性が一致しない」という表現を 最初に聞いたときも混乱した。 「体の性」はたぶん生物学的性のことで、 「心の性」はたぶん (「自分は女だから女らしく振る舞いたい」とか 「自分は男だから男らしく振る舞いたい」といった意味での) ジェンダーのことだ。 ジェンダーというのは、 「やさしいのが女らしい」とか「力強いのが男らしい」 といった社会的につくられた「男女らしさ」のことだが、 「自分は男だから男を好きになったらおかしい」とか 「自分は女だから女を好きになったらおかしい」という 考え方も私はジェンダーだと捉える。 だって、そうではない人も一定数いるわけで、 それを「おかしい」と捉えるか 「中には同性を好きになる人もいるでしょ」 と捉えるかは、 社会的な捉え方の問題だから、これもジェンダーの範疇に入ると私は捉える。 それなのに、 さも「心の性」というのがあるのを当然の前提として、 「体の性と心の性が一致しない」人が、 手術等により 「体の性と心の性」を一致させる「治療」の対象となる (もちろん本人が希望すればだが)というのは、 「心の性」というものが存在し、 それが「体の性」と一致しなければならないと思い込んでいる人々 (手術を望むLGBT当事者も含まれる)の 社会通念に、 「体の性と心の性が一致しない」人を適合させて「矯正」しようとする治療 ということになる。 つまり、 「体の性」に一致した あるべき「心の性」があるという考え (例えば「生物学的性なり本人が自認するジェンダーなりが男なら女を好きになるはず」とか)を 再生産することにもなり、 私の感覚では、ちょっと恐怖を覚える (まあ、本人が希望している限りにおいては、 美容形成の一種とも捉えられるが。ちなみに、 同性愛の「矯正」治療を受けたチューリングとかの話は 悲劇でありホラーだ。あと、 チャイコフスキーは同性愛がばれそうになって自殺させられたという 説が本当だとするとこれも悲劇でありホラーだ)。 単に、ジェンダー(心の性)なんて思い込みだと捉えられるようにさえなれば、 「体の性と心の性が一致しない」なんて考える必要自体がなくなる。 恋愛対象として生物学的男を好きになる人もいれば、 生物学的女を好きになる人もいれば、 そんな生物学的性にとらわれずに人を好きになる人もいれば、 恋愛感情を抱かない人もいれば、様々な人がいる。 恋愛のことに限らず、 おしゃれの好きな人とか、運動の好きな人とか、 料理の得意な人とか、工作の得意な人とか、 色んな人がいる。 それらのことと、 生物学的性との間にある程度の相関関係が認められる場合もあるが、 その場合も常に個人差はある。 社会からのジェンダーの刷り込みが減れば個人差は更に広がる。 だから、自分の生物学的性が男だから女だからということで、 女を好きにならなければならないとか、おしゃれに気を使わなければならないとか、 そんなことを考える必要はない。 というのが私の理想とする社会の姿だが、 「体の性と心の性が一致しない」といった表現を当然の用語として 使いだした現在の社会は、 私の理想とはむしろ逆行しているようにも思える。

さて、「ジェンダー平等」に話を戻す。 性的平等とか性の平等だったら生物学的性によらない平等ということで理解できるし支持できるが、 ジェンダー平等なんて言ってしまったら、 自分の「心の性」は女だから女らしくしたいとか、 自分の「心の性」は男だから男らしくしたいと思い込んでいるような 完全にジェンダーに囚われている人(保守的な男女であれLGBTであれ)に限定した平等であって、 別に女らしくも男らしくもなりたいなんて思わない(私みたいな?) ジェンダーに囚われていない(というか囚われたくないと思う) 人の平等は対象にしていないかのように感じてしまう。

ジェンダーというのは、そもそも社会的につくられた「女らしさ」だの「男らしさ」 だのに過ぎないから、 そんなものは思い込みだとしか思っていない私みたいな人間からすると、 そもそも自分にジェンダーがあるなんて思っていないし、 将来的にはジェンダーが消滅することが理想だ。 自分の生物学的性がどうかということにかかわらず、 例えば髪を伸ばしたい人は伸ばせばいいし、 リーダーシップをとりたい人はリーダーシップをとればいいし、 他人にやさしく接したい人は、やさしく接すればいいし、 女の人に魅力を感じる人は女の人に魅力を感じればいいし、 男の人に魅力を感じる人は男の人に魅力を感じればいいし、 そんな個人が好きなように選べばいい「自分らしさ」を 無理やり「女らしさ」か「男らしさ」のどちらかに類別して 納得しようとしなくたっていいのではないだろうか。 そうすれば、わざわざLGBTみたいな新たな区別を設ける必要もなくなる。 もちろん、女だの男だのの区別自体も日常において 大部分はたぶん必要なくなるだろう。

例えば、服だったら誰でも自分が着てみたいと思った服を買えばいいだけの話で、 それをいちいち婦人服だの紳士服と区別して売る必要はないのではないか。 そう言えば、私の生物学的性は男だが、私は腕時計や眼鏡に関しては、恐らく女性用として売られていたらしいものを買ったことが何度かあると思う。というのは、買うときに店員から「女性用ですけどいいですか」と確認されたことが何度かあるからだ。 私は小さめの腕時計がほしかっただけだし、フレームの赤い眼鏡がほしかっただけだ。メーカーが女性用と想定していようが男性用と想定していようがそんなことはどうでもいい。 そういえば、「後藤」のハンコを彫ってもらったときに、書体見本を見せられながら「草書体もいいですね」と言ったら、 店員から 「草書体は柔らかい感じがするから女の人が多いですねえ。 男の人は力強い篆書とかが普通ですね」 と言われたこともあった。当然、「じゃあ、草書体にしてください」と頼んだが。

飲み話なので話がそれていくが、私は将来的にはジェンダーなんてなくなって、 すべての「らしさ」が個人差として捉えられるようになるのが理想だと思っている。 昔(1990年代とか)、 国内で「ジェンダーフリー」という言葉が流行ったが、 和製英語だからダメだとか(Wikipediaによるとそうでもないようだが)、 英語で使われているのと意味が違うとか批判された。 しかし、ジェンダーがなくなることを理想としている私からすると「ジェンダーがない」「ジェンダーから自由な」という文字通りの意味でのジェンダーフリーはなかなかいい言葉だと思う。 Wikipediaによると、 「 本来はジェンダーフリーが「社会的性別(日本語の「ジェンダー」)からの離脱の自由」を認める風潮を目指すはずが、「社会的性別(日本語の「ジェンダー」)そのものが悪であり、無くす必要がある」という誤解にいつしか摩り替わった。 」 と書かれているが、 私は、割とジェンダーそのものが諸悪の根源だと考えている。 「 内閣府男女共同参画局が言うとおり、ジェンダーそれ自体は良いものでも悪いものでも無いからである。 」 とも書かれているが、 ちょっと正確ではないと感じる。 「自分は(古典的ジェンダー観の文化に帰属して)女らしくしたい」 とか 「自分は(古典的ジェンダー観の文化に帰属して)男らしくしたい」 という個人の選択はもちろん自由であるべきだろう。 でも、その古典的ジェンダー観の文化が 「女らしい」とか「男らしい」と規定している「らしさ」 (それこそ文化に依存するが、 やさしいのが女らしいとか、力強いのが男らしいとか、 料理ができるのが女らしいとか、 お金を稼げるのが男らしいとか、その他いろいろ)は、 現代においては、別に生物学的性と結びつける必要のない「らしさ」ばかりだ。 それなのに、 例えば、共稼ぎの夫婦に子供が生まれて子供の養育のために 仕事を減らしたりやめたりしなければならなくなったとき、 2021年現在の日本でも、ジェンダーを暗黙の前提として、 女性が子供の養育等の家事労働を担当し、男性が家計労働を担当するのが当然という通念がまだまだ 幅を利かせている。 この例に限らないが、2021年現在の日本でも、 古典的ジェンダー観を前提とした根強い社会通念のせいで、 生物学的性に固定された性別役割を不本意ながら選択せざるを得ない 人々はまだまだ多いだろう。 これは、古典的ジェンダー観が、それに共感していない人にまで、 社会通念として強要させられるという意味での差別になっていると私は捉える。 政治家が本当に男女共同参画を指向するのなら、 保守派だろうとリベラルだろうとこういう状態を放置してはいけないと思う。
2022/8/3追記: 2022年7月に安倍元首相が銃で打たれて殺されて以来、 政治家と統一教会の関係が騒がれているが、 夫婦別姓反対とか同性婚反対といった 古典的なジェンダー観に固執している政治家っていうのは、 もしかして統一教会と関係していたりするだろうか。 あるいは、もともと古典的なジェンダー観の政治家が、 統一教会に親近感を抱くということなのか...

関連ネタ: 将来的にジェンダーがなくなるのが理想だとすると、 その社会では、 公衆トイレだの公衆浴場はどうするのかという話もある。 スウェーデンでは、公衆トイレは 個室タイプで男女共用が普通ではなかったか。 公衆浴場は水着前提で混浴という方向もある。 まあ、この辺は文化とのかねあいもある。 というか、文化自体が変われば話は早いのだが。 (自分の|自分が)性的対象になり得る人とだろうと誰とだろうと一緒に裸で風呂に入っても気にならないというぐらいに文化が醸成?されれば、風呂は 一種類でよくなるかもしれない (今だって、外見から判断される生物学的性が同じでさえあれば、 その人の性的指向がどうかということは気にしていない)。 例えば、痴漢は国によって(つまり文化によって)発生する国と ほとんど発生しない国があり、 例えばドイツでは痴漢は発生しないようだ。大体において痴漢犯罪は男から女に対するものが圧倒的に大部分だという時点で、 それは文化によるところが大きいのではと私は疑う。 同じ国(というか同じ文化圏)なのに、 そこで男女の行動に(他の国では必ずしも認められない)明らかな差がある場合、 多かれ少なかれ、そこにはその文化圏の強烈なジェンダーが影響していると 私は見積もる。 例えば日本の場合、確か数年前だか10年前ぐらいのニュースでやっていたデータでは 成人男性の体型の平均はメタボだか肥満で、 成人女性の体型の平均は痩せ型ということだったような気がする (男は30代で女は20代とかだったろうか。そのうち調べる)。 同じ国の(少なくとも選択可能性という意味では)同じ食環境にありながら、 男女の違いで平均が肥満と痩せ型の両極端に偏るなんて、 如何に日本はジェンダーの支配が未だに大きいかということだ。 それが種明かしだと私は解釈する。 この辺のネタはいっぱいあるが、またそのうち。

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「女子枠で多様性を」は「女性ならではの視点」と同類では? (22/12/27)

日本の大学では、理系の学部に進学する女子の比率が極端に低い。 恐らく、海外の大学と比べても最低ぐらいだろう。 海外の大学でも、女子の方が男子よりも理系に進学する 割合は少ないものの、それでも、せいぜい男子の半分から1/3ぐらいは 女子が理系に進学する国は多いと思うが、 日本の場合は、女子が男子の1/5とかで、たぶん、世界の最低ぐらいに位置している。 工学系に限定すると、日本の大学の女子比率は更に下がりそうだ。 ちなみに、2022年度の秋田大学理工学部のパンフレットによると、 女:13.8%, 男:86.2%となっている。

そのような背景のもと、最近、 国内の理工系の大学が入試の「女子枠」を設けたりして、話題になっている。 わかりやすく捉えるなら、社会的な差別を受けている女子を 優遇するアファーマティブアクションということだ。 企業の雇用等の場合であれば、 (実際、露骨な女性差別が行われてきた現実もあるので) こうしたアファーマティブアクションは 比較的 受け入れられやすいのではないかと思う。 まあ、やっていることは男性に対する差別に他ならないが、 既に社会に存在する女性差別とつりあいをとるために、 男性差別をするという手法だ。 一方、教育に関しては、 小学、中学、高校の教育は、 (少なくとも形式上は)男女で特に差別されているわけではないから、 入試で女子を優遇するのは、男子に対する一方的な差別になるのではないかと 反感を抱く人もいるだろう。 それも理解できる。

では、そもそも、どうして日本では理系に進学する女子が、 世界と比べて最低となるレベルで極端に少なくなってしまうのだろう。 まあ、簡単に捉えるなら、 「女子は理系には向かない」という思い込みが、日本社会には深く浸透していて、 家庭や学校やテレビ等のメディアで、そういう思い込みを刷り込まれるからだろう。 他にも、「かわいいのが女性の価値」とか「賢いとかわいくない」とか、 勉学よりもオシャレや花嫁修業を志向させるノリは、 昔ほどではないにせよ、今でも方々に残っているだろう (日本のアニメの主人公が美形の女の子ばっかりなのも、 私としてはなかなかキモい。これはまた今度のネタ)。 そうすると、学校では同じ授業を受けているにもかかわらず、 女子が理数系の科目でモチベーションを失い、 本来 達成できたレベルの能力を獲得していないということは、 あり得るだろう。 OECDが行っている15才を対象とした学習到達度調査(PISA)の 数学の平均点で男女差の国別を比較すると、 日本は6位で、極めて数学平均点の男女差が大きい方の国ということになる。 多くの国は、男子の方が女子よりも数学の平均点が高いが、 ロシア、スウェーデン、フィンランド、アイスランドなどは、 女子の方が高くなっている。 まあ、男女の生物学的差が 国によって違うなんてことは、ちょっと考えられないので 特定の限られた課題では有意に認められる男女差もあるとしても、 それすら、個人差に埋もれて日常では気づけないような微妙な差でしかないし、 社会的影響が完全には排除されてないからどこまでが純粋に 生物的な差なのかもわからないし)、 要は、このような男女差は、単純に社会や文化 (それこそ「女子は数学が苦手だ」的な思い込み)によって、 作られているものでしかないだろうと、私は見積もる。

そうすると、日本の小学・中学・高校で、(少なくとも形式上は) 男女に平等な教育が行われているとしても、 家庭や学校やテレビ等のメディアで晒される 社会的・文化的な刷り込みによって、 女子が自分は理数系に向かないと思い込んで、 理数系を学ぶモチベーションをそがれているとしたら、 それも一種の社会的・文化的な女性差別となり得ると 捉えるなら、大学入試の「女子枠」も アファーマティブアクションとして捉えられないことはないとは思う。 ただし、今、私がここに書いたような背景をしっかり把握して、 それを裏付けるデータも一通り揃えて、 想定される各種の批判の声に対して、随時 丁寧な回答を用意できる ようでなければ、 なかなか危なっかしいと私は思ってしまう。 秋田大学でもそのうち「女子枠」という話が出てこないとも限らないので、 ちょっと、ハラハラしている。

というのは、(慎重に議論しないといけないので前置きが長くなってしまったが) とある大学の「女子枠」の説明の中で、 「女子枠を設けることで多様性を推進する」みたいな話が出てきて、 え、それって、「女性ならではの視点」と同類では? と思ってしまったからである。 アファーマティブアクションとして捉えた「女子枠」は、 社会的・文化的な差別により、本来の能力を発揮できていない女子を 本来の能力が発揮できるように優遇することであって、 女子特有の何らかの特殊能力(例えば「女性ならではの視点」みたいな) に付加価値を認めてそれを積極的に 活用しようという話ではない(と私は捉えている)。 仮に、「女子枠」が上述した社会的・文化的差別に対する アファーマティブアクションではなく、 「女性ならではの視点」のような女子特有の付加価値を期待するものであるとしたら、 私は強く反対する。 それは性別役割の思い込みに基づく、典型的な女性差別につながると 私は捉えるからだ。

企業や役所等でも、女性を積極的に採用・登用することがあり、 その際に(これからは)「女性ならではの視点」(が必要) といったキーワードで説明されることも多い。 ここで言う「女性ならではの視点」というのは、 実際には、毎日、家事や育児をしている人が、 こんな道具やこんなサービスがあったら便利だなと思うような視点とか、 少食の人が、もっと小分けで買える食品や、 少量でオーダーできる飲食サービスがあればいいのにという視点とか、 だったりする。 つまり、家事や育児をしていると気づく視点に過ぎないものを、 日本では女性ばかりが家事や育児をしている比率が高いので 「女性の視点」と一般化したり、 女性の方が生物学的理由のみではなく (痩せている方がきれいで、きれいなことが女性の価値だという) 社会的・文化的理由もあって少食をしたいと気づく視点に過ぎないものを 「女性の視点」と一般化したり、そういうことだ。 こういう視点(「家事をしている人の視点」とか 「少食をし(てやせ(てきれいになり))たい人の視点」)を 「女性の視点」と一般化してしまうと、 それを女性の性別役割や 「女性らしさ」(ジェンダー)として再生産してしまうことにもなるので要注意だ。 更には、 「繊細さ」だの「気配り」だの「優しさ」みたいな視点までも「女性の視点」 とするのに至っては、 完全に「女性らしさ」とはそういうものだというジェンダーバイアスでしかない と私は思う。

そのような意味で、「女子枠」を導入した大学が、 女の学生が増えることで「多様性」が推進されるなんて発言するのは、 なかなか問題発言だと私は見ている。 もしかして、 女の学生たちに「女性ならではの視点」みたいなものを期待してたりしないですよね? と。 将来、その学生たちが技術者や研究者となったときに、 「女性ならではの視点」を発揮して活躍すると思ってたりしないですよね? と。 もちろん、こらからの時代、 独自の視点で活躍する女の技術者や研究者はどんどん出てくるだろうけど、 それを「その人独自の」視点ではなく、いちいちまず第一に「女性の」視点と捉えることこそが、 性別役割や「女性らしさ」(ジェンダー)の再生産であり、 女子は(生物的に)理系に向かないと 思い込ませてきた 社会的・文化的差別をむしろ増長する行為ではないだろうか。 「女性は、生物的には理数分野が苦手なんだけど、 "女性ならではの視点"を発揮することで、 理数分野に多様性をもたらしてくれるから、そこを活かして使うべきだ」 みたいな、より悪質な(オカルト的な)差別の方向性すら臭ってくる。

というわけで、入試の「女子枠」は、 社会的・文化的差別により本来の能力を発揮できていない 女子に対するアファーマティブアクションとして捉える限りは、 私は絶対に反対というわけではないが、 運用や広報をよっぽど慎重に行わないと、 さも「女性ならではの視点」を期待しているかのような不適切な 広報をしてしまったりして、 社会的・文化的女性差別を再生産したりしかねないし、 この辺のことをしっかり理解できている人が、 大学の執行部に一定数いるとも思えないので、 なかなかハラハラしている。

2023/9/14追記: きのう、テレビで第2次岸田第2次改造内閣発足後の 岸田内閣総理大臣記者会見を やっているのを流し聞きしていたのだが、 何回か「女性ならではの」というキーワードがひっかかった。 具体的には、 「土屋品子復興大臣には、女性ならではの視点を最大限にいかし、被災地に寄り添った復興策に腕を振るってもらいます。」 「是非、それぞれの皆様方に、女性としての、女性ならではの感性や、あるいは共感力、こうしたものも十分発揮していただきながら仕事をしていただくことを期待したいと思っています。」 といったところだ。 2023年現在の日本では、 首相が女性の大臣に対して、 「女性ならではの視点」や「女性ならではの感性や、あるいは共感力」 というものを期待していると明言しても、 おそらくこうした発言は問題視されないまま受け流されてしまうのだろう。 弱者に寄り添ったり共感したりできる感性や能力を女性に特有の生物的な 特性として捉えているのならオカルトだろうし、 もし 「育児や家事を経験している人ならではの感性や能力」という意味で言ったのであれば、 「育児や家事を経験している人ならではの感性や能力」と言うべきだ。 それを「女性ならではの」と一般化することは、 それ (弱者に寄り添うこと、育児や家事等々)を 女性の役割と見なす性別役割・性差別の再生産にもなるし、 女性は生物的にもそういうことに適しているというオカルト・性差別の再生産にもなる。 私からすると、大いに問題発言だと思うが、2023年現在は首相のこうした発言も、 きっと受け流されてしまい、首相が言ってるぐらいだから、 「女性ならではの」が政府公認のキーワードとして、 方々で使われまくって、今後も日本ではしばらくこうした性差別が再生産されていくのだろう。

2023/9/15追追記:試しに 「 岸田内閣総理大臣記者会見 "女性ならではの" 」のキーワードで検索してみたところ、 割と批判が殺到していたようだ。 2023年現在は、さすがに「女性ならではの」発言はようやく問題視される 時代となってきたようだ。 少しは希望が見えてきただろうか。 その後、 松野官房長官が「多様性の確保や能力を発揮してもらう趣旨」 と弁明したようだが、 女性を入れることで「多様性」が確保できると思うのは、 正にここに書いたように 女性には女性ならではの 「女性特有の何らかの特殊能力」があるというオカルト的思い込みが あるからではないだろうか。 アンコンシャスバイアスの典型例かなと。

価値観や文化の多様性と人種や性別の多様性を同等に扱うのは危険では? (23/7/7)

米連邦最高裁が、ハーバード大などで採用する人種を考慮した入学選考を「違憲」と判断したことが話題となってる。 社会で既に存在する ある属性(特定の人種や性別)の人々に対する差別を解消するために、 差別されていない方の属性(特定の人種や性別)の人々に対する 差別を設けることによってバランスを取る手法を アファーマティブアクションと言うのだと私は理解しているが、 大抵の国の憲法というのは、 基本的に人種や性別といった個人の努力では変えようのない属性に 基づく差別を禁止しているから、 憲法を原理的に解釈すれば、 アファーマティブアクションが憲法違反になるというのは あり得る話だと思う。 まず、憲法違反かどうかは後で吟味するとして、 アファーマティブアクションを差別解消の手法として認めるかどうかというのは、 一つの価値判断だと思う。 例えば、 「差別解消のために別の差別をするのは、 差別自体を否定しておらず、差別の再生産だ」 といった考えもあり得るわけで、 そのような価値観が大勢を占める社会では、 アファーマティブアクションではなく、 社会的な教育と広報によって差別を解消すべきだという 価値判断がなされるかもしれない。 しかし、そのような手法では差別の解消にはあまりにも効果が薄く、 即効性のある手法として アファーマティブアクションに頼らざるを得ないという 価値判断もあり得るだろう。 その場合、憲法違反との折り合いをどうつけるかという問題であり、 憲法解釈だけでなんとかなるのか、 差別の例外として アファーマティブアクションを認めるように憲法を改正 すべきなのか、それぞれの方向性があり得るだろう。

で、今回 気になったのはそこではない。 アファーマティブアクションが憲法違反でできなくなってしまうと、 「大学の多様性が失われる」という主張についてだ。 「多様性」という言葉は、普通 良い意味で使われており、 多様性があることが、良い効果をもたらすという意味合いで使われている。 価値観の多様性や文化の多様性は正にそのような意味合いで使われる 典型例であり、これらに関しては私も良い効果をもたらすものとして 捉えている。 私が気になるのは、人種の多様性や性別の多様性が、 良い効果をもたらすものとして大学等の広報で使われる場合である。 大学というのは、学生たちが学習や研究をするところであるが、 学習能力や研究能力は、人種や性別と何か関係があるのだろうか。 確かに 学生の人種や性別に多様性がないことは、 なんらかの差別が反映されたものと見ることはできるから、 そのような差別がないことの指標として、 人種や性別の多様性を示すことは、特に問題だとは思わない。 私が気になるのは、人種や性別の多様性が、 学習や研究に良い効果をもたらすかのように強調する広報についてである。

例えば、体型や筋力とかだったら、 人種や性別ごとの平均値に有意な差があるかもしれない。 だから、服や家具や乗り物を作ったり販売したりするときに、 人種や性別の多様性を考えることは意味があるかもしれない。 では、学習や研究の場合はどうだろうか。 人種や性別ごとに有意に認められる生物的な能力差や 特徴の違い(理数系は苦手だけど、発想が柔軟とか)が あったりするだろうか。 空間把握とかの非常に限られた課題で 統計的に有意な男女差が現れたり する例もあるが、こういうのは個人差の方が圧倒的に大きい僅かな差なので、 社会的配慮の対象になんてなり得ない (秋田市の市営駐車場に、「女性専用駐車スペース」みたいな、 バックで駐車できない人が前からつっこんで駐車できるスペースがあったが、 こんなのは典型的な女性蔑視でしかない。 性別に関係なく駐車の苦手な人が「前から駐車できるスペース」とすべきなのだ)。 私は、人種や性別の違いによって、 社会的に無視できないレベルの生物的な学習・研究能力の差や特徴の違いが あるとは思っておらず、 そのようなものを想定して、ことさらに強調するのは、 悪質なレッテル貼り・オカルトであると捉えている。

大学の(特に社会学や人文系の)学習や研究において、 多様な価値観や多様な文化の学生がいることで、 学習や研究の視野が広がり良い効果をもたらすというのは理解できる。 しかし、上述したように、価値観や文化の多様性と 人種や性別の多様性を同等に扱うのは危険だと私は感じる。 確かに、価値観や文化が多様な集団では、 人種や性別や言語も多様になるだろうし、そのため、 人種や性別や言語が多様であることが、価値観や文化が多様であることの 指標として広報等に利用されることも多いであろう。 しかしそれは、特定の言語を母語として文化を共有する集団が、 特定の国や地域に居住し、特定の人種に占められているために、 たまたま、 人種や言語の多様性が文化の多様性と疑似相関してしまうだけのことだろうし、 性別にしたって、 「女性は生物的には理数系には向かないけど、 女性ならではの視点(柔軟な発想とか?)を発揮できる」みたいな 極めてオカルト的なジェンダーバイアスが未だに根深く 浸透している日本みたいな社会では、 理系分野に対する価値観が男女で極端に偏ったりしてしまうため、 性別の多様性が、価値観の多様性と疑似相関してしまうだけのことではないだろうか。

もし、様々な差別が解消した遠い未来の世界において、 特定の人種や特定の性別だけを集めた集団を作った場合 (もちろん、そういう未来に特定の人種や特定の性別の 集団を作ること自体がなかなか不自然なことだろうが)、 誰も「この人種だからこのような価値観だ」とか 「この性別だからこのような価値観だ」と思うような発想を抱くこと自体が なくなるのではないだろうか(特定の人種や特定の性別の人だけを 集めてきたって、価値観はバラバラなはずだと)。 ある集団の 価値観や文化が多様であることの指標として、 その集団の人種や性別が多様であることをことさらに強調することは、 「人種ごとに特有の価値観がある」とか 「性別ごとに特有の価値観がある」といった思い込み (更には、これが社会的に作られた疑似的な相関ではなく、 生物的な違いだというオカルト的思い込み)を 再生産するのではないだろうかと私は危惧するのである。

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ヨメって誰の配偶者? (21/7/1)

10年ぐらい前からだろうか。 テレビで男のタレント(主にお笑い芸人)で、 自分の配偶者(女)のことを「ヨメ」と言う人が、どんどん増えてきた。 テレビの影響力は強く、 身近なところでも、自分の配偶者(女)のことを「ヨメ」という 男の人が、だいぶ増えたという気がする。 よめというのは、 いくつか意味があるが、 goo辞書の1番目の意味は、 「1 息子の妻。$\Leftrightarrow$婿。」である。 一応、2番目の意味として「2 妻、また、他人の妻」とあるので、 自分の妻の意味で使うことが間違いというわけではないだろう。 しかし、 昔のじいさんやばあさんが、 自分の子(男)の配偶者(女)の悪口を言うときに、 「うちのヨメは」とよく言っていたニュアンスがあるので、 (性的中立性の話は、ひとまずおくとしても) 私には「ヨメ」という言葉は、それなりに侮蔑的な印象を覚える言葉だ。 特に抵抗を感じるのは、4番目の意味 「4 旧民法2の下、息子の妻となりその家に入った女性。 「—に行く」$\Leftrightarrow$婿。」だ。 つまり、家制度時代の価値観を引きずった人によって 「〇〇家にお嫁に来た人」という意味合いで 使われる場合である。 まあ、家制度関連の話は、また改めてネタにするかもしれないが、 特に家制度の文化や価値観を引きずっているわけではない若い 男の人が、 テレビの真似をして、 自分の配偶者のことを「ヨメ」と言っているのは、 必ずしも悪気(配偶者への蔑意)があってのことではないだろう。

というのも、 結婚したばかりの人が、これから自分の配偶者のことを三人称で言及する際に、 何と言うかというのは、 それなりに悩ましい問題だとは思う。 だって、それまで使っていなかった単語を、 結婚後には、それなりの頻度で使うようになるわけだから、 何を使えばいいのか、それなりに迷う。 私も迷った。 私は確か、34才ぐらいのときに結婚したが、 当時、既に私は性差別反対主義者だったので、 配偶者に言及するときも、 できれば、 性的に中立な呼称を使いたいと思った。 さいわい、日本語には、 そういう呼称も複数あるので、 「つれあい」とか、 「相棒」とか「相方」とか、 英語だけど「パートナー」とか、選択肢はいくつかある。 ちなみに、「つま」も男女に関係なく使える単語だ。 goo辞書の1番目の意味 は、「1 夫婦や恋人が、互いに相手を呼ぶ称。」となっている。 これに「妻」だの(短歌でよく使われる?)「夫」の漢字を当ててしまうと、 女だけか、男だけかしか意味しないかのようにとられてしまうが、 それは あくまで漢字(要は中国語)の用法であって、 「つま」という日本語(やまと言葉)は、男女関係ない。 そういう意味では、せっかく性的に中立な「あなた」とかを 「貴女」みたいに書いたりするのは、つくづくやめてほしい。 というわけで、自分の配偶者を「つま」と言ってもいいのだが、 たまたま私の生物学的性は男で、 たまたま私の配偶者の生物学的性は女なので、 ああ、この人は「妻」(女の配偶者)という意味で 「つま」と言っているのだと思われてしまうから、 かしこまった場で、 性的に中立な言葉を積極的に使いたい場合は、 「うちのつれあいは」とかを使ったりする。 まあ、親しい人に対しては、 性的に中立ではないが、「うちのカミさんが」も それなりに使う。 というのは、実は私は子供の頃から 刑事コロンボ(旧シリーズ)が好きであり、 「うちのカミさんがねえ」というのを言ってみたかったというのもある。 コロンボが好きとは言っても、さすがにタバコだの葉巻を吸いたいとは 全く思わなかった。 ドラマ撮影時の時代背景を考慮しても、 (まあ、時代的に周囲に人がいても喫煙をためらおうとしないとかはおいておくとして、 今にも灰を落として綺麗な床を汚したり、高価な衣装などに タバコの火をくっつけそうで) あれはさすがにハラハラさせられて、真似したいと思うようなものではなかった。 もちろん、そういう無神経な人間を(わざと?)装っている という演出ではあるのだが。 ところで、コロンボには旧シリーズと新シリーズがあるが、 断然、旧シリーズの方が面白い。 話もよく練られているし、最後のどんでん返しも鮮やかである。 ヘンリー マンシーニの音楽もいい。 短調系のバロック調の曲とか。 それに比べて新シリーズは、今ひとつ面白くない。 性的なネタや場面が多く(ほぼ毎回あるのでは?)、 子供の前では安心して見れない。 飲み話なので話が逸れる。 ただ、「つれあい」にせよ「カミさん」にせよ、 日本語語彙の少ない留学生とか にはわかりにくかったりすることも多い。 そういうときは、わかりやすさを優先して 「うちのおくさん」ということもある。

「うちのつれあいは」というのは、文脈的に、だいたい通じるのだが、 三人称としては、なかなか使いにくい。 「おつれあいは、一緒に来るんですか」とか言えないこともないが。 まあ、わかりやすさを優先すると、 性的に中立ではないけど 「奥さん」と「ダンナさん」辺りが2021年現在では無難な線だろうか。 テレビとかYouTubeとかの影響力のあるメディアが、 「つれあい」とかを広めてくれると助かるが、 2021年現在で「ヨメ」とか言っているわけだから、 もうしばらくは、そういうのが続くだろう。

小ネタ: うちのつれあいが私のことを三人称で何と言っているのかは知らないが、 たぶん「うちのダンナ」とかだろうか。 言ってほしくないのは、「うちの主人が」だが、かしこまった場では 何と言っているのだろうか。 子供の学校関係の人に言う場合は、「うちのおとうさんが」とかが割と普通かもしれない。 ところで、ネット社会となった2021年現在でも、未だに スパム電話(要は勧誘電話)がなくならない。 マンション買えとか、財テクしろとか、ネットを光コラボにしろとか、 いろんなのがある。 大学にまでかかってくる。非常に迷惑である。 今は、個人が自分の知りたい情報を自分からネットで検索できる時代なのだから、 こちらが求めてもいない情報を「お得な情報があります」と アポもとらずに、こちらのプライベートな時間や勤務時間を中断して、 宣伝しようとする行為はつくづくやめてほしい。 大体において、今の時代、電話で勧誘してくるという時点で、 怪しい情報だと即断するだけの話で、本当に時間の無駄だ。 大学にかかってくる電話の場合、 「後藤先生でしょうか」とかと言われると、 研究や学生の就職関連について問い合わせてきた 企業の人かも知れないし、役所の人かもしれないし、 スパム電話かどうかを判断するまでに、多少のやりとりが必要になってしまう。 一方、家にかかってくる勧誘電話であるが、 ときどき 不思議なことを聞いてくる。 「ご主人様でしょうか」というのだ。 「ご主人様」っていったいどういう意味で使っているのだろうか。 マンション買えとかそういうお金に関する大事な話は、 「ご主人様」にしないといけないということなんだろうか。 仮にマンションを買うにしても、 そういう大きなお金を使うことは、 夫婦であれば、共稼ぎだろうと、家事労働か家計労働かどちらかの専業だろうと、 夫婦で話し合って決めるべきことではないのだろうか。 お金のことを決めるのは、お金を管理している夫婦の一方で、 そっちを「ご主人様」と捉えているのだろうか。 なかなか不思議だが、こういう電話がかかってきたときは、 ためしに「あ、主人は今、出がげでんだげっとも」と言ってみることにしている。 そうすると、電話の主は、「え! あ、そうですか。では、かけ直します」とか、 なぜか、びっくりするようである。 電話での私の声は、男に聞こえるけど、ご主人がいるということは、 実は女の人だったと思うのだろうか。 でも、お金を稼ぐのを専業としてお金を管理している方が主人という 捉え方を仮にするとしても、別に女の主人がいたっていいわけだし、 家に一緒に住んでいる人が夫婦とは限らないし (同性カップルかもしれないし)、きょうだいかもしれないし、 そもそも「ご主人様でしょうか」と聞くこと自体がおかしくないだろうか。

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まあまあまあまあ、おっとっとっと (21/5/31)

卒業生(十数年前の)からリクエストがあったので、 手酌主義のことも書いておこう。 私は酒飲みで、特に日本酒の熱燗が好きだが、 人からお酌されるのが好きではない。 アルコールというのは、日本では合法的な飲み物だが、 精神状態や運動機能や認知機能に影響を及ぼす飲み物なので、 飲む量には、細心の注意が必要だ。 私は未だについつい酒を飲みすぎてしまうので、 自分の飲んだ量を確認しながら、 自分の飲むペースを自分でコントロールして、 ゆっくり飲みたいのだ。 なのに、ちょっとでもグラスが空くと、すぐに ビールを注いだり、 おちょこの日本酒を二、三口飲むや、 待ち構えていたように注いで来る人もいる。 もちろん、学生はまだそういう社会人の悪しき文化に 染まっていないので、それほどしつこいお酌をされることはないのだが、 こういう文化を学生が再生産しないように、 私は手酌で飲むので お酌をしないように学生に言っている。 そう言えば、十数年前とか 昔の私は割と強く手酌主義を主張して、研究室の飲み会でも 徹底していたような気がする。 その後、就職担当とかで、 会社の人と飲んだりすることも多くなったが、 もはや、お酌するのが当然の文化という感じで、 一応、手酌でやりましょうと一回は提案することにしているが、 なかなかその提案を受け入れてはもらえない。 そういう、社会では当然の文化や風習を、 学生が社会に出てから恥をかかないように教えておくべきだという 先生もいるけど、私は反対だ。 社会で当然となっている文化や風習が、なんでもかんでも、 今後も存続した方がよいことだとは限らないし、 一気飲みや「彼女いるの?」「結婚は?」みたいに なくなった方がいい文化・風習もたくさんある。 セクハラとかに比べると、お酌はそれほど世の中の人が なくなってほしいと思っているわけではないかもしれないが、 程度によっては、お酌も十分にハラスメントになり得ると 私は思っている。

飲み話なんで、話がつい逸れていってしまう。 アルコールというのは、日本では合法的な飲み物だが、 精神状態や運動機能や認知機能に影響を及ぼす飲み物なので、 飲む量には、細心の注意が必要だ。 ビールは、まだアルコール濃度が(5%前後と)低いので、 多少 飲んだ量がわからなくなっても、 (私程度のアルコール分解能力の人は)それほど困らないかもしれないが、 日本酒はアルコール濃度が(15%前後と)それなりに高いので、 飲んだ量がわからなくなると、とても危険だ。 だから、私は、 1合なら1合と、自分が注文した徳利から、 少しずつ自分で手酌して飲みながら、 自分の飲んだ量を把握しておきたいのだ。 その意味では、私の徳利からお酌してくれるのなら、 一応、量は把握できるからいいのだが、 私は、おちょこが空になっても、すぐ次を飲まないときに、 そこに酒を注いでしまうと、飲むときに熱燗が冷めてしまうので、 なるべく、次に飲む直前に自分で手酌したい。 というか、この自分で手酌するという行為自体も 酒を飲む楽しみであり、おいしさの一部だ。 それが、あちこちの徳利からお酌されまくると、 一体 自分がどれだけ飲んだのか、全くわからなくなってしまうし、 おちょこだと、一口か二口 飲む度に、お酌されるので、 それが気になって、飲むのをためらってしまったりする。 あるいは、私の徳利が空きそうになると、 いつの間にか、同じ銘柄の熱燗を追加注文されていることも多い。 会社の人とかだと、そういうのが、当然の気づかいと教育されたり しているのかもしれない。 しかし、私は、自分が飲んだ量を把握したいということもあるが、 徳利が空いたら、次は別の銘柄を注文したいし、 そこで、次は何を飲もうかと品定めをするのも楽しみのうちだし、 徳利が空いてから次の注文をして、 次が来るまでに待たされるのも、休憩になってちょうどいい。 もし、徳利が空いた後、 飲むものが何もないという状態が気になるんだったら、 「チェイサー」として水でも頼んでもらった方が格段にありがたい。 飲みのときに、水やソフトドリンクで中休みを取るのはとても重要で 効果的だが、ついついそれを忘れて、飲み過ぎになってしまう。

でも、今の学生たちは、私の学生時代 (おそらく、一気飲みなど急性アルコール中毒で死ぬ人は、国内で年間 100人ぐらいとかいたのではないだろうか。 1970年代半ばが130人なんだそうで *)とは違って、 ほどよくしか酒を飲まなくなってきたし、 (自分も飲まないから) 他人に酒を無理に勧めたりもしなくなってきて、 とてもいいことだと感じている。 たまに、他人に酒を勧めるタイプの学生がいるが、 程度によってはそれは各種のハラスメントになり得るので、 そういう場合は注意しなければならない。 繰り返すが、 アルコールは 精神状態や運動機能や認知機能に影響を及ぼす飲み物なので、 それを他人に無理に飲ませようとすることは、 相手の 精神状態や運動機能や認知機能に影響を及ぼしたい、 つまり「酔わせたい」という意図で、 勧めているととられても仕方ない。 「あの人は酔うと面白いから」 と気軽な動機で酔わせようとすることは、 薬物で他人をコントロールしようとすることであり、 なかなか危なっかしい行為だ (これはまたそのうちネタにするためのメモだが、 ドラえもんから他人をコントロールできる道具を出してもらって、 しずかちゃんとかをコントロールしようとする のび太は、 なかなかストーカーの発想そのもので怖い)。

まあ、会社の人とかは、 客人に失礼にならないように、 客のグラスが空いたら、すぐに注ぐように教育されてきたのだろうけど、 それは のべつまくなし(それこそ吐くまで)酒を飲み続けるのが 美徳?とされた私の父親ぐらいの世代の価値観の名残のような気もする。 あの世代の人は、客が来ると、 もう既に泥酔している客なのに、とにかく酒を勧めまくった (そのせいで寝ながら吐いて窒息死した人も大勢いたことだろう)。 しかも昔は、飲み屋が夜になると閉まるので、 夜 遅く、子供のいる家庭に酔っ払いをつれてきて、 妻を叩き起こして、酒を出させたり食べ物を作らせたりする 親父たちが大勢いた(昭和一桁生まれとかそういう世代)。 私の父親も夜中に酔っ払いを連れてきて、 私はさんざんいやな思いをさせられたので(このネタもまたいつか)、 自分は酒なんて飲むまいと思っていたけど、 いつのまにか、こんな酒飲みになってしまった。 既に、今の学生たちは、ほどよくしか酒を飲まず、 のべつまくなし酒を飲まされることが もてなしだなんて思っていないわけだから、 もういい加減、 客のグラスが空いたら失礼のないようにすぐにお酌しろみたいな 時代遅れな文化は、 世代の入れ替わりとともに自然消滅してほしいところだ。
あ、お酌されるのより、もっといやなものがあった。 「返杯」だ。あんなことをしたら、確実にコロナに感染する。 これもまたそのうち。

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絶対 け゚すなよ! (21/7/14)

――おとうさんってこねえな――
もう寝る時間だ
――まだ酔っ払い つれでくんでね――
――絶対 け゚すなよ――
――だれえ、け゚すけ
酔っぱらい来たって寝でっちゃ――
――んだあ、酔っぱらい来たって寝でらいよ――
――んだ、寝でっちゃ――
――絶対、け゚すなよ――
――んだ、絶対 け゚ねっちゃ――
おかあさんど おねえちゃんど ぼぐで、そいな話してる
もうとっくに夜中になって
おかあさんも おねえちゃんも ぼぐも寝でる
ガダンゴドン!
あっ! ってきた!
玄関で話声 する!
――酔っぱらい つれできたあ!――
おかあさんは布団がら起ぎ上か゚る
――いいがら、寝でらいん!――
――そういうわげに 行がねっちゃ――
――絶対 け゚すなよ!――
おかあさんは、玄関さ出でいぐ
――あらー、せんせい、どうぞ上か゚って下さぁい――



なんで け゚んの!!!
おかあさんは台所 行って
酒コ だの つまみだの用意し始める
ぼぐ ど おねえちゃんの寝でる隣の部屋で
おとうさんど ナンダガせんせい か゚ っきい声でしゃべりなか゚ら酒飲みしてる
もう、うるせえし、ハラハラして
ぜんぜん寝らいね
そのうぢ 決まって酔っぱらいか゚ 言い出す
――あんだいのフミヒコくん、っきぐ なったべねえ――
とうとう来た!
ガラっと、ふすまか゚開ぐ
――ほれ、フミヒコっ、こっち来て挨拶しらいん――
やんだがったなあ
酔っぱらい
おらいのおとうさん
酔っ払ってってくっと
洗面所でゲーゲーって
よぐ吐いでだっちゃな
おいも子供の頃は、なして吐いでんだが、わがんねがったな
ほして、一通り吐ぐど
――吐いだがら腹 減った――
だど
――なんか、作ってけろ――
だど
ほして、おかあさん そーめんだの作り始めんだっけ
――おとうさん、吐いだがら、腹 減ったんだっつおん
なんだべ、好かねごだ――
おら、如何にも そーめん喰いでそうにして見でる
――フミヒコ、あんだも食べっか?――
――んー、食べる――
おいは、おとうさんど一緒なって、そーめん 食べでる

こいなごどもあった
さんざん酔っ払ってってきた おとうさんか゚
――あんまり飲んでこねがったがら
酒 燗にしてけろ――だど
おかあさんは台所で
――あんなに酒 飲んできて
まだ飲むんだど
水 混ぜだって わがんねんでねえ――
――んだ、んだ、水 混ぜろ――
おかあさんど おねえちゃんで 盛り上がってる
おねえちゃんは 徳利の日本酒バ 半分にして
あど半分 水 入れでる
おいも
――酢ぅ、ちょっと混ぜだほう いんでね?――
ど提案したげっと
――そんなのだめだぁ
いいがらまず――
ど採用してもらえね
電子レンジで日本酒の水割りバ 熱燗にして
おとうさんのどご 持ってぐど
しばらぐの間 機嫌よさそうに飲んでんだっけ
おねえちゃんだの
台所で もう笑い堪えでんのっさ
しばらぐ 機嫌コいぐ飲んでだ おとうさん
突然、顔色 変わって
――なんだ こいづ?
水 入れだな――
つって、立ち上がって台所さ来んのっさ
ほして、徳利の水割り捨てで
日本酒 注き゚始めんだおん
――だめだ、飲ませんな!――
おいは叫ぶ
とごろか゚ おかあさんは
――んだがら あんだだぢ、だめだっつったっちゃ――
だの責任転嫁する始末だ
いやー、惜しがった
ほんのちょっと酢ぅ混ぜれば
ばれねがったがもしゃねのに





これは、私の子供の頃の日常の一場面だ。 言語は当然、石巻弁だ。 こういう その時代、その場所のニュアンスを表すには、 母語方言を使うのが一番自然な選択だと私は捉えている。 もし、これを東京弁で書いたらニュアンスが全く変わってしまうだろう。 そんなことを言ったら、翻訳というもの自体が成立しなくなってしまうが、 「詩は翻訳できない」というのは、その意味ではその通りだと私も思う。 これは、私の詩である。 このニュアンスに共感できる人は限られても、 私自身が当時の感情・感覚を正確に追体験できれば、それでいい。 方言詩という表現があるが、詩は本来、 何語で書かれた詩であれ、方言詩だと思う。 言語は何語であれ、他言語から見れば外国語であり、 方言であり、それを母語として育った人にとっては母語だ。 だから、詩人が自分にとっての外国語で書いているのか、 母語で書いているのかという観点からは、母語詩という表現も あり得るだろう。 自分の感情や感覚をできるだけ正確に表現することを 目的とするなら、自分の言葉で書くのが いい方法だ。 その方法(正書法とか)が確立されていなければ、 それを確立してでも書こうとすることによって、 新しい文学表現が生まれたりする (トスカナ語で書かれたダンテの神曲とか)。 だから、 私はなるべく石巻弁によって書かれた文章を残していきたいと 思っている(また今度のネタ)。

ちなみに、私の石巻弁表記では、 発音をなるべく正確に表したい場合は、 ガ行鼻濁音を「か゚」みたいに書いてガ行濁音とは区別している。 この区別をしないと、石巻弁(というか、鼻濁音を使う東北弁一般)においては、 意味の判別に支障が出る。 例えば、上の例で言うと、 「あけ゚る」と言えば「上げる」の意味になるが、 「あげる」と言えば「開ける」の意味になる。 東北弁において(ある法則のもと、語頭以外の)カ行が濁音(ガ行)になると、 一見、カ行とガ行の区別ができなくなってしまうかのように 誤解されるが、 それこそ誤解である。 東北弁においては、東京弁系共通語におけるカ行とガ行の区別は、 ガ行とカ゚行の区別として厳格に行っているのである。 それどころか、最近では東京弁話者の方こそ、 鼻濁音を使う人がどんどん減って、 ガ行とカ゚行の区別が消滅しつつあるらしい。 関西だと、とっくの昔に鼻濁音は消滅しているだろう、たぶん。 石巻弁ネイティブの耳を持っている私からすると、 「わたしか゚」と発音すべきところで、 今どきの都会の若者とかが 東京弁訛りで 「わたしが」とか言っているのを聞くと、 なかなか「訛ってるなあ」と感じたりする。なんてね。 まあ、カ行とガ行の区別で意味の判別ができている東京地方等において、 更にカ゚行の区別まで行う必要はなくなり、カ゚行が消滅していくのは、 それなりに合理的な変化かもしれない。 一方、ガ行とカ゚行を区別しないと意味の判別ができなくなる東北弁においては、 ちゃんと東北弁が使われているうちは、しばらくは、 カ゚行はなくならないだろう。 とはいえ、秋田で生まれ育ったうちの子供たちも東北弁(宮城弁にせよ秋田弁にせよ)を 話さないし、なんとも言えない(これもまたそのうち)。

飲み話なので話があちこちに飛ぶが、今回ネタにしようと思ったのは、 酒飲みの話である。 私の父はなかなかの酒飲みだった。 昭和4年(1929年)生まれの典型的な昭和一桁世代だ。 あの世代の男の人は、ああいう酒飲みが多かった。 私が幼稚園から小学校低学年の頃とか、 つまり父が40代ぐらいの比較的 若い頃は、 ほんとによく吐いていたような記憶がある。 いったい、どれぐらい飲んでいたのだろうか。 私が小学中学年ぐらいになって、あんまり吐かなくなっていた 頃の記憶だが、 母から、「いったい何合 飲むの? 四合にしらい!」と 言われていた記憶があるから、 たぶん、一日四合までに減らしたということではないかと思う。 ちなみに、 1日4合以上のアルコールを7年以上飲み続けると、 アルコール性肝障害のリスクが高まる。 まあ、アルコールというのは、どんなに少ない量であれ、 飲めば飲んだだけ、体にダメージを与えていくので (例えば、 どんなに少ないアルコール摂取でも、量に応じて 脳は萎縮するらしい)、 厳密には適量というものはないのだが (そこは、リスクに対する価値判断になってしまうが)、 厚生労働省のガイドラインだと、 1日平均純アルコールで20g程度 (ビール中瓶1本、日本酒1合、ウィスキーダブル1杯)だそうだ。 うーん。

そんなわけで、子供の頃の私は、酒飲みなんかにはなるまいと思っていた。 私が大学に受かった途端 (これも、当初は当然 落ちると思っていたから、 色々とネタがあるのだが)、 私の親は、私に酒の飲み方を教え始めるのだ。 え? 当時、私は高校3年生でまだ未成年なのだが、 しかも、相当に真面目で正義感の強いはずの両親が、 未成年の私に、 一所懸命いっしょけんめい 酒の飲み方を講釈しだしたのだ。 いわく、空腹で飲んだら酔いが回ってしまうから、 食べ物を食べてから飲めとか、 一気飲みをしたら死ぬとか、 まあ、その内容自体は妥当だとは思うが、 未成年の飲酒を許容し、 さも祝福でもしているかのような態度は、不可解だった。

私が大学に入学したのは1985年のことだが、 確かに当時は、大学生とか18才以上の未成年の飲酒に対しては、 相当におおらかだった。 今だったらあり得ないというか、 発覚したら大問題になるが、 新入生の歓迎コンパで、 教員と新入生が一緒に酒を飲んだりした。 (これもまた別のネタにした方がいいが、 このとき、私は大学院というのがあるのを初めて知り、 「え、大学って4年で終わりでねえの? もっと大学生活 延ばせんの?」って、 典型的なモラトリアム人間の動機から、 大学院なんてあるんなら行きたいなあと 思った記憶がある。これはまた今度) つまり、この時代は、 大学生であれば、未成年であっても、 大学生になったとたんに酒を飲み始めるのは、 (違法であるにもかかわらず)誰も悪いことだとは思っていない ような時代背景であり、 未成年でも普通にお店で酒が買えたし、 飲み屋でも身分証明書を見せろなんてとこもなく酒が飲めた。

念のため言っておくと、私はそれがいい時代だったなんて言っているわけでは 決してない。 法治国家で違法行為を黙認する態度には問題があるし、 土木技術者にとって(まあ、他のどの職業でもそうではあるが)、 法令遵守は基本的に重要なことだ (もちろん安全のためにも、自分の保身や長期的利益のためにも)。 だから、私は違法行為という点において、 未成年の飲酒を許容しない (成人年齢と飲酒可能年齢は一致している方がすっきりするし 筋も通るという個人的意見を持ってはいるが)。

そのような時代背景の中で、私は大学1年になった当初から、 石巻の実家に帰って食事する度に、親からビールとか「飲まねが?」と 勧められてはいたが、実家では、最初のうちは一切 酒を飲まなかった。 一方、大学のコンパとかでは、普通に酒を飲んでいた (これも一気飲みとか、重要なネタがいくつかある)。 私は当時、父の酒の飲み方に幼少期から抱いていた ある種の嫌悪感があり、 父の酒の飲み方を肯定する方向において、 父の酒飲みの喜びを増長することをしたくなかったのだ。 そろそろいいかと、 父と一緒に酒を飲むようになったのは、大学4年ぐらいから のような気がするが、 果たして、そんなに長い間 父と酒を飲むことを拒み続けていたかどうか、 記憶が定かではない。

大学3年頃まで、私は、コンパや友達と誰かの部屋で酒飲みをするとき以外の 普段は、自分の部屋で酒を飲むということは、 ほとんどなかったように思う。 自分の部屋でも酒を飲んだりするようになったのは、 大学4年からだったと思う。 きっかけは、研究室で確か毎週 月曜の午後にある卒論の進捗発表だ。 なかなか進捗がないなかで月曜が近づいてくると、 だんだん寝付けなくなってきて、 特に週末とか、寝られないから寝るためだと自分に弁解しながら 飲んでいたような気がする。 ちなみに、こういうふうにストレスから逃れるために寝る目的で 酒を飲むのは、酒の飲み方としてあまり安全ではない。 実際、私はその後の大学院生時代とか、 あまり安全ではない酒の飲み方をしていたなあと思う (これもまた改めてネタにするかも)。 ともかく、大学4年生ぐらいから、自分自身も酒を常習的に 飲むようになり、 父ほどひどくはないにせよ、 十分な自制ができずについつい酒を日常的に嗜んでいるわけだから、 もう父を非難できる立場にないなあとか、 そんなことを思いながら、そろそろ父と飲んでやってもいいかなあと 思ったのだ。 まあ、父と飲み始めた頃、もっと早くに父と酒を飲んでやっていればよかったなあとも 思ったのだが、 私が大学4年の頃、父は60才ぐらいで、そこからさきも、 それなりに長い期間、私は父と一緒に酒を飲む機会を持つことができた。 これについてはまた今度。

コロナ流行中の現在、構造研の卒論進捗報告のゼミはたまたま 月曜の午後だが、果たして研究室の学生のみなさんの中には、 大学時代の私のように、 ゼミが近づくにつれ、ストレスを感じて寝れなくなり、 ついつい寝酒をしたりしている人がいたりするだろうか?  いやー、仮にそんな状況があるとすると、よくはない。 まあ、私の大学時代に比べると、私を含め?先生たちはやさしいし、 そんなにストレスを感じるような状況ではないだろうとは思うものの、 そこは、教員側からするとわからない。 「おいだって、4年生のどぎ、卒論の進捗発表うんとやんだがったー。 あいづのせいで酒 飲むようになってしまったんでねえがど思うでば」 だの、そういうぶっちゃけたやりとりを交わせるぐらいの 信頼関係が(教員と学生との間に)成立しているなら、 多少のストレスを伴う議論のやりとりも、 充実した研究活動の一場面と捉えれられるかもしれないが、 今は本当に気を使う。 ただでさえ、コロナでストレスを受けている学生に対して、 これ以上のストレスを与える対応は如何なものかということに なってしまう。 そういう意味でも対面でのリアル飲み会は非常に重要だと思うのだが、 今はそれができない。

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夢見る若者と親の呪縛?

私は、子供の頃から、それなりに創作意欲は強かったのではないかと思う。 小学校の時は、テストが早めに終わった人は、 テストの裏に落書きをしていいことになっていたので、 いつも テストの裏に、こんな感じの漫画を書いていた (これは、小学5年生の算数のテストの裏か?)。 中学の頃は、物語を書いて友達に読ませたり、 自宅にあった姉のピアノを自己流でいたずらし始めて、 即興演奏した自分の曲をカセットテープに録音して友達に聞かせたりしていた。 中学3年のとき(1982/1/30)の録音はこんな感じ

高校のときも、自分の小説を文学賞に応募したり、 色々やっていたと思う。 NHKと毎日新聞だかの共催の音楽コンクールの作曲部門にも応募しようと 思って要綱を取り寄せたら、 応募用紙に書くべき項目は、 「誰に師事したか」とか「これまでにどういう音楽教育を受けたか」とか、 そんなのばっかりで、 一切の専門的音楽教育を受けていない人は、最初から門前払いなのだと、 応募を諦めた。

私は、小学校高学年頃から、電子工作が趣味の一つになっていて、 通信販売でパーツ(トランジスタとか抵抗とか)を買って、 はんだ付けしながらラジオをつくったり、 デジタルICで簡単なゲーム(LEDを使った早押しゲームとかその手の)を 作ったり、そういうのを高校までやっていた。 ポジ感光基盤をエッチングしたりとか、そういうのも、 失敗を繰り返しながら、ノウハウを体得していったが、 その辺は、また今度のネタということで。 というわけで、高校のときの私は、 電子工作というか電子工学に強い興味があり、 可能であれば、大学の工学部の電気系の学科に行きたいという思いはあった。 しかし、1980年代当時、 電子工学とか情報工学というのは、花形の分野で、 自分の学力では、電子工学科だの情報工学科みたいな学科は、 工学系の他の学科よりもダントツで偏差値が高く、 到底、無理だろうなということにも納得していた。

一方で私は、自分が「創作したい」という意欲や情熱が非常に強い人間だという 自覚があった。 当時は映画にも凝っていたので、自分も映画を作りたいという気持ちも強かった。 そういえば、高校の友達とビデオで短編映画を撮ったりもした。 当時は、スマホで誰でも簡単に動画を撮れるわけではないから、 まず、 家庭にビデオカメラがあって、それを 貸してもらえる友達を見つけるところから話が始まる。 これも今度のネタ。 高校のときの私は、小説を書いたり、ピアノ曲を作曲したりしていたが、 絵を描くことにも興味があった。 体育祭のときは、3年間 看板絵の係を担当し、 こんな絵を描いたりしていた。 男子校なんで、看板絵にかこつけて、裸の女の人の絵を描いたりして いたわけだが、これは典型的なジェンダーの問題で、 「裸婦像」ということにすれば、 それが芸術として裸の女の人を描く 大義名分として受け入れられるという不可思議な通念を 当時の私自身も利用していたということだ。 これはまた今度のネタ。 というような訳で、当時の私は、 小説を書いたり、作曲したり、絵を描いたり、 そういう創作領域のそれぞれに興味があり、 それぞれの領域で創作活動を行っていたのであるが、 物語も音楽も絵もすべてをつくれるという意味では、 映画をつくることには、非常に強い興味があった。 高校2年ぐらいの、そろそろ進路を考えなければいけない時期に、 私は親にそんな思いを、恐る恐る、ちょろっと漏らしてしまったことがある。 実は、映画関係とか芸術関係の道を模索したい気持ちがあるというような...

すると、私の両親は、 恐る恐る漏らしたその私の思いを、 徹底的に否定し、そんな夢のようなことを語る私を徹底的に嘲り、貶すのだった。 まあ、そんな成功する確率の低い夢を追いかけるようなことはせずに、 堅実な職を手につけるべきだという意味においては、 両親の言うことは極めて常識的で真っ当な意見だろう。 しかし、一方で私の両親は私の芸術的才能の一切をことごとく否定し嘲った。 私の両親は、 芸術的才能というのは親の才能が遺伝するものだと信じていて、 更に、三代ぐらい前から、芸術家の家庭においてそういう血統を 選別していかないと、芸術家はできあがらないというような、 ちょっと優生学的とも言える考えを持っている人たちだった。 いわく、 「だれぇ、あんだなんか、誰の子供だど思ってんの?  おらだぢの子供だべ。そんなの話になんねべ」 とか、そんな感じだった。 それ以来、私は親に自分の創作活動について話すことはなかったし、 自分の作品を親に鑑賞させようともしなかった。 まあ、堅実な道を進むべきだということに関しては、 リスク管理としてその通りなので、 私は、自分の適性と興味が比較的一致していると思える 工学系の道に進もうと考えた。

宮城県の国立大学で工学部のあるところというと東北大学だが、 高校三年になってからの模試の判定とかでは、 東北大学工学部は、いつもEとかの最低の判定で、 まず、受からないだろうなという感じだった。 まあ、純粋に勉強量もぜんぜん足りていなかった。 当時の高校は、 今みたいになるべく現役で受かりそうなところを受けさせるという 指導ではなくて、 勉強量が足りてないなら、まずは浪人しろという指導だった。 しかも、今みたいに、前期入試、後期入試だの、 AOだの推薦だのの各種特別入試だの、 複数の大学をいっぱい併願したり、同じ大学を違う入試で何回も挑戦したりとか、 そんなことができるようにはなっていなかったので、 基本的に入試は一発勝負だった。 私も当然、浪人するつもりだった。 私は社会や国語が苦手で、特に社会が苦手だったので、 共通一次試験で選択予定の世界史の点数を上げるために、「プラス30点の世界史」みたいな 参考書を買って、世界史を勉強した。 共通一次の自己採点は、1000点満点中682点とか、だいたいそんな感じの 点数だったと思う。当然、 東北大学工学部の判定はEとかだった。 ちなみに、世界史は100点満点中45点とかだった。 プラス30点の世界史をやったはずだったのだが。 高校の先生は、
「ふみひこ、おめえ、今年は東北大 受がんねえげっと、 模擬試験のつもりで二次試験 受げでこい」
と言って、仙台の予備校の推薦書を書いてくれた。
「合格発表で落ちたの確認してがら、帰りに予備校さ寄って この推薦書 出してこいよ」
と。 当時の東北大の工学部は、 共通一次試験と二次試験の点数の比率が、 300点:750点とか、それぐらいの感じだったので、 二次試験で点数が取れさえすれば、 共通一次が600点代でも全く無理というわけではなかった。 それから、志望学科(学科ではなく「系」だったかも)を 第1志望から第6志望ぐらいまで書けるようになっていたので、 電気・情報系とか応物系とか(たぶん学科・系名が不正確ですいません)、 当時 偏差値が高かった学科は外して、偏差値の低い方の6つの学科(系)を 書き込んだと思う。 順番は忘れたけど、機械とか金属とか、定員の多い学科(系)を上の方に書いて、 資源とか土木とか、定員の少ない学科(系)を下の方に書いたような気がする。

合格発表の日、 仙台の予備校の推薦書を持って、落ちていることを確認してから、 予備校に行くつもりだった。 そしたらなんと、土木工学科のところに番号が書いてあった。 棚からぼたもち というのはこういうことを言うのだろうか。 非常にありがたかった。 家に電話して、「土木さ受がってだ」と母親に言うと、 「あんだ、蹴りすなよ」と言われた。 当然、蹴るつもりなんかなかった。 工学部に入れるだけで、私としては万々歳だった。 1985年の3月のことだ。

当時は、インターネットなんてないし、 大学のパンフレットも持ってなかったから、 「土木工学科」というのが、いったいどんなことをやるのか、 まるでイメージできなかった。 入試要綱に数行ずつ書いてあった学科紹介も、 私のよくわからない言葉で書かれてあり (今から想像するに、例えば「公共事業」とか「社会基盤を整備し」とか そんな言葉で書かれていたのではないかと思うが、 高校生当時の私には、まったくイメージが湧かなかっただろう)、 具体的にどんなことをやるのか、よくわからないまま大学に入学した。

新入生のとき、学科紹介のガイダンスのようなものが何度かあったが、 その中で、ベタではあるが、 「土木工学は、英語では Civil Engineering といい、 市民の工学という意味だ」 という説明を聞いて、実は、なかなかいい学科に入ったのではないかと 得をした気分になった。 鳴子温泉の近くにある大学の研修施設に土木工学科の先生たちと一泊する 新入生歓迎の行事もあった。 当時は、未成年の飲酒に対しておおらかな時代だったので、 夜は先生たちと酒を飲みながら、話をした。 そこで恩師の倉西先生や岩熊先生(当時は30才ぐらいだったろうか)と話をし、 この先生方が、ともにクラシック音楽の愛好家であることを知ってうれしくなった。 大学院があるというのを知ったのもこのときだったような気がする。 多岐に渡る土木の分野のなかで、 私は当時から構造関係(特に橋梁)をやりたいと思っていたから、 倉西先生と岩熊先生のいる橋梁研究室に行きたいと思った。 研究室を決めるのは4年進級時だが、 当時は、計画系とかが割と人気で、 私は第一志望の橋梁研究室に行くことができた。

橋梁研に限ったことではないが、 当時は(もちろん今もだろうが)、 数値計算するのにコンピューターを大いに使っていた。 Fortran77でプログラムを組んで、 (当時のパソコンは計算容量が小さいので) 大学の大型電算機や、研究室のUNIXワークステーションに ログインして、プログラムを走らせた。 別に情報工学科みたいなところでなくても、 こんなにもプログラムを組んで、こんなにもコンピューターを使うのだ ということを知って、 私はとてもうれしくなった。 中学時代の私が、 町のマイコンフェアで、BASICのプログラムを打ち込んで、 こんなことをやりたいと 漠然と憧れていたイメージに近いことを 今、やれているではないかと。 もちろん、今の人は、 コンピューターはどの分野でも使うし、 AIとか3Dプリンターとかドローンとかも、色んな分野で使うということを知っているけど、 1980年代に高校生だった私は、 プログラミングしてコンピューターを使ってというのは、 どの分野でも一般的なツールになっているということを知らなかった。

さて、大学に入ってからも私は小説を書くということを続けていた。 それは私の秘密の趣味だった。 親はもちろん、友達にも小説を書いているなんて話はほとんど しなかったのではないかと思う。 そして、ときどき、それを文学賞に応募したりしていた。 1980年代から1990年代前半にかけて、 当時はインターネットなんてものはなかったので、 自分の書いたものを多くの人の目に触れるようにするには、 文学賞を取るぐらいの方法しか思いつかなかった。 大学院生のときだったろうか。 私の応募した作品が某文学賞の最終候補5編だかに残った。 結局は落選したのだが、 そのとき、私は石巻の予備校でバイトしていて、 週末や夏休みなど、石巻にいることが多かったのだが、 出版社から石巻に電話がかかってきたかなにかで、 私の作品が文学賞の最終候補作に残ったことは、 私の両親にもバレてしまった。 当時の両親は、それはそれで嬉しそうな感じではあったが、 その作品を両親に読ませることはしなかった。 その作品は、私の子供時代のエピソードを石巻弁で 書いたもので、 大人には不可解に思える子供の行動が、実は子供なりの理由があっての ことなのだということを、それを表現する国語力のなかった子供時代の自分に 代わって、大人の国語力で代弁した作品である。 だから、私の両親は正に その作品内の当事者として、その作品の価値を鑑賞できるであろう 数少ない人たちだったろうにとは思うが、 私は私で、両親の芸術的感性を完全に軽視していたので、 私の作品を読ませてやろうなんて、まるで思わなかった。 そのうち、両親を見返してやりたいという気持ちもあったかと思う。

1990年代後半から、インターネットが普及し始めた。 あとは、 ここに書いたように、 私も1997年頃からウェブページを書き始め、 「 ハイパーテキストという書式は、私のやりたいことを やるのに、実に最適で合目的的であった 」 と思い至るのである。 私が文章を書くのは、 別に文筆で生計を立てたいわけではないし、 別に有名になりたいわけではないし、 ただ、自分の文章に日の目を見せたい、 より厳密に言うと、 別に大衆に受ける必要はなくて、 私の書くような文章をこそいいと思う人の目に、 私の文章が触れさえすればいいのだ。 そのためには、別に文学賞なんかとる必要はなくて、 ただ、ウェブ上に自分の文章を公開し、 私の文章に特有のキーワードで検索した人が 私の文章にヒットするようにしておきさえすればいいのだ。 そう思い立ってから、私は、 自分の私的ウェブサイト上に、自分の各種の文章やら 自作の曲やらを公開してみている。 これは私の秘密の?趣味である。 まあ、検索すれば検索できるようにはなっているので、 ここからリンクは張らないが、 興味のある人は自己責任で...

私は2001年頃、34才ぐらいで結婚して、 2002年から秋田に来て、そこで子供も2人 生まれた。 両親とも良好な関係だし、 子供たちを石巻の実家に連れて行ったりもした。

2008年に 「良いプレゼン 悪いプレゼン」が本に なったとき、 こういうのは、両親も喜ぶかもしれないと、 石巻に行ったときに両親に渡したのだが、 当時、70代(父親は80手前)の両親は、 もう自分の子供が書いた 本を手にとって読んでみるという感じではなくなっていた。 昔は結構 本を読む人たちだったとは思うが、 私としてはややがっかりした気分になった。 そして、もはや、両親に私の作品 (特に、文学賞候補になった私の子供時代のエピソードとか)を 読んでもらうことは、もう無理だろうなと悟った。 私は両親の芸術に対する非科学的な信念に強い反感があったし、 両親をいつか見返してやりたいという気持ちもあったのではないかと 思うが、 もはや両親はそんな見返すような対象ではないし、 私の作品を鑑賞する能力ももうないのだなあと。 もっと、両親が若い頃に、私の作品のいくつかを読ませてあげていても よかったかなあと後悔した。

私は、高校の頃には、親から精神的に独立したつもりになっていたし、 (まあ、大学院まで行ったので、経済的にはしばらく依存していたけど)、 親の判断よりも自分の判断の方が当てになると思っていたし、 とっくのとっくに親離れしたつもりでいたけど、 今になって思えば、 人からどう思われるかなんて気にしないつもりでいた私が、 実は、 いつか親を見返してやりたいと、 もっと素直に言えば、親から認めてほしいと、 それなりに 親の影響を引きずっていたのではないかと、 最近になって思うようになった。 この私がだ。 ちなみに父は2017年に87才で亡くなり、 母は今は仙台の施設にいる。86才だ。 コロナが流行してから、会いに行けていない。

今の親たちは子供に対してやさしいし、 子供たちはそんな親たちに反抗して見返したりする必要もないから、 基本的に今の学生たちは親と仲がいいのではないかと思う。 親と仲がいいというのは多くの場合いいことだろう。 でもそれだけ親の影響が強いということでもある。 進路の選択などにおいて、 自分より長い人生を歩んできた親の意見は一定の参考にすべき 意見であろうとは思う。 でも最終的に判断するのは自分だ。 後悔のない選択をしてほしい。 ときどき、創作活動をしたいとか、演芸活動をしたいと、 大学を中退する学生もいる。 今の世の中はインターネットが普及したおかげで、堅実な道を歩みながら、 自分の作品や自分のパフォーマンスをネット上で世に問うこともできる。 でも、その道一本でやってみたいというのは、 私のできなかった選択でもあるし、 そういう選択をした人には、ぜひ、それぞれの道で成功してほしいと思う。 まあ、必ずしも思うような成功をしなかったとしても、 堅実でない方の選択を一度はやってみたという経験は、 それなりに意味のあることだと思う。 人生で何が正解かはわからない。

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「やる気」を「習得」させることは可能なのか? (22/1/7)

2018年に 教育推進総合センター の刊行物「フォーラム37号」に書いた記事からの転載。
どうしてアクティブラーニング?

 最近,アクティブラーニングで学生に自発的に考えさせる能力を養わなければとか,座学中心の授業では学生が飽きてしまうので,学生に飽きさせない工夫が必要だとか,そういう流れになってきた。安直に思いつくその社会的背景を列挙してみる。技術の進歩や社会環境の変化が激しい世の中で仕事をしていくには,昔よりも高度な柔軟性や対応力が求められるようになった。少子化で大学は入りやすくなり,平均的大学生の「学びたい」というモチベーションが低くなった。小学校から大学に至るまでの教育が,昔と比べて手取り足取り丁寧に指導するようになった。家庭でも理不尽に怒られることは減り,休日部活の送り迎えなど,親が子供の活動を全面的にバックアップしてくれるので,親子は仲良しになった。家庭でも学校でも大人たちはよくしてくれるので,若者は大人に対して反抗的ではなく従順になった。昔と比べて落ちこぼれや不良は減り,多くの良い面がある一方で,社会人になっても手取り足取り教えてもらわないと何もできない「指示待ち人間」が増えた。といったところか。もちろん,この手の「今時の若者は」という考察は多分に偏見が入り込みやすく,本当の統計を反映していない可能性が高いが,紙幅の都合上,その吟味はせずに話を進める。

やり方を教えた方がいいのか,自分で考えさせた方がいいのか

 大学の教育理念は,基本的には自分の頭で考えて問題解決できる学生を育てることだと思うが,どうすればそれができるかは非常に難しい。私は卒論指導で,学生にどこまで手をかけるべきか未だに悩む。手取り足取り指示すると,学生は指示を待って自分で考えなくなるし,何も指示を出さないと,自分で考え出す者もいる一方で,思考停止してそのまま何もしない者もいる。その兼ね合いが難しい。なかなか作業の進まない学生に,プログラムの組み方をほんのちょっと目の前で実演してみせると,そこから突然プログラミングに目覚めて,自身の能力を「開花」させることもあるし,そうならないこともある。どう指導すれば効率的に「開花」させられるのかはわからない。アクティブラーニングはその効果的な方法なのか? アクティブラーニングは様々な意味で使われ,様々な手法が混在しているが,技術的限界を度外視して,将来的にはAIやグーグルグラスのアシスト機能やら教育ロボットやらが,1対1で学生と対話することも可能になるのだとして,AIやらロボットやらが,無制限に学生個々人のつまづきのレベルや状況に応じた理想的なアシストをしてくれるSF的な未来像を想像してわからなくなってしまう。そんな,個々人の迷いのすべてに対応したアシストがなされる世界では,人間はアシストの指示に従うだけで,ますます自分から何も考えなくなってしまうのではないかと。

「背中を見て学べ」が究極のアクティブラーニング?

 「自分で考えさせる」のがアクティブラーニングの目的であるとするなら,個々人のつまづきに応じた無制限のアシストは,むしろそれと逆行する教育手法になってしまうのではないか。そうすると,これと対極をなす教育手法は自明だ。古典的な徒弟制度のように何も教えずに「背中を見て学べ」の放任主義である。「背中を見て学べ」方式は,恐らく非常に効率の悪い教育手法の1つだと私は見積もっているが,伝統芸能や芸術,料理などの世界では未だに踏襲され,しかも有効に機能しているものと想像する。それは,多数の競争相手がひしめく狭き門の世界では,人並みのモチベーションしか持たない学習者は,まるで具体的なやり方を教えてくれない教育にやる気を失せてドロップアウトしていく一方,そのまるで不親切な師から,少しでも何らかの手がかりを得ようと必死に師の背中を観察して試行錯誤し続ける人並み外れたモチベーションと努力を保ち続けられる学習者のみが,得るものを得て大成するからだろう。これは,学習者のモチベーションが高いとは限らない学校教育にはまるで馴染まない教育手法だが,ここにヒントがあるかもしれない。どんなに理想的な最新の教育手法を採用しても,モチベーションの低い学習者を「開花」させることは難しい一方で,強いモチベーションを持っている学習者は,「背中を見て学べ」の時代錯誤で非効率な教育手法からでも,自力で多くを学び取って大成することができるのではないか。そうすると,重要なのは教育手法自体よりも,学習者のモチベーションなのではないかという話になる。理工学研究科の同僚授業評価シートの評価項目の中には「学生が興味を持てるようになっていますか」というものがあるが,学生が必修だから興味もなく履修した科目に興味を持たせるのは,教員のなすべき仕事で,そもそもそれは可能なことなのだろうか? 

強制的にモチベーションを抱かせることは可能なのか?

 「学生が興味を持てるようになっていますか」という問いかけに対する模範的な解答例を探すとすれば,でんじろうのサイエンスショーみたいなものが思いつく。あれは手放しで素晴らしい。派手な実験を演出し,科学に無関心な今時の子供のハートをわしづかみにするのに成功しているように見える。それでは,物理や数学の授業もすべてサイエンスショーにすればいいのだろうか。派手な演出は,科学に興味を持つきっかけとしては有効に違いない。それで科学に関する身近な課題(浮力の発生理由とか,フィボナッチ数の一般項とか)に興味を持ち,自分で調べ,自分で考え,自分の手を動かして,計算したり,工作したりして,自分なりに解決・理解できたとき,謎が解けたときの知的興奮は,サイエンスショーの派手な演出で得られる刺激とは比べものにならないほど,遥かに強力だろうにと私は思う。その体験をしたものは,学習に強いモチベーションを持つだろう。しかし,派手な演出の刺激だけを求めて,それ以上の探究心を抱かない子もたくさんいる。それなら,自力で解決できたときの知的興奮こそをアクティブラーニングで強制的に体験させればよいのか? だめだろう。「なぜ浮力が発生するんだと思いますか」と人から与えられた問いかけでは,自分から解かずにはいられない欲求は生まれないのだ。ならば,身近なことに疑問を抱く好奇心を育むべきなのか。そもそも,好奇心をくすぐるための派手な演出ではなかったのか。

派手な演出は好奇心を鈍麻させる?

 私は子供の頃,顕微鏡や電子ブロックがほしくて,それが買い与えられた時は本当にわくわくして熱中したものだ。あの知的興奮を自分の子供たちにも共有してほしくて,顕微鏡だの電子ブロックを一通り買い与えてみたのだが,子供たちはこうしたアイテムには興味を示さずに,3DSだのYouTubeに熱中している。今の子供たちは,派手な演出やすぐに結果の出る心地よさに慣れきっているので,見た目や動作が地味で,面白さがわかるまでに一定の学習や修練を要するものをなかなか開拓しようとしないのではないか。そうすると,仮に将来の大学の授業がサイエンスショー的な派手な演出ですぐに結果を見せるものばっかりになっていくと,ますます学生は刺激に鈍麻し好奇心を失ってしまうのではないか。例えばNHKの白熱教室は,典型的な座学の授業が多いが,講師は話がうまくその授業の内容自体が私にはなかなか面白い。座学の授業だって面白い授業は本当に面白いし,知的興奮を与えてくれる。ただ,そのためには一定の集中力と,授業外に自分の手を動かして調べたり計算したりといった努力が必要である。集中し,努力しようと思うには知的興奮を得たいというモチベーションが必要であり,モチベーションが生まれるには好奇心が必要である。派手な演出や自分で考えることを強制する実習体験は,好奇心を刺激するきっかけになり得る一方で,ますます好奇心を鈍麻させるかもしれない。そのジレンマを解決した教育手法があるならぜひ教えてほしい。私はまだ調査不足だが,紙幅が尽きた。

以上は 教育推進総合センター の刊行物「フォーラム37号」に書いた記事 “「やる気」を「習得」させることは可能なのか?” を転載。

ネタメモ: 中学校の英語の授業は文法や発音記号を教えなくなり、 小学・中学の音楽の授業は楽譜の読み方を教えなくなり、 そういう習得に一定の努力を要する修練をできるだけ避けて、 手軽に体験させていこうというような教育の流れ。 ピアノ教室とかも、昔のようにバイエルやハノンのストイックな練習をさせずに、 子供が楽しく弾けることを優先するようになってきた。 なんか、最近は大学の授業までが、 そんなふうに学生を飽きさせずに楽しく気軽に学べることを良しとするような 風潮ができてきていないだろうか。 外国語であれ楽器であれ数学であれ物理であれ、 何かを一定以上のレベルで習得するには、 基礎的な事項を地道に時間をかけて修練するということは必要なことだし、 目的達成のための効果的な手法だと思うのだが。 そういったことをそのうち書こうかと思っているが、その前フリのネタメモとして、 数年前に書いた記事を転載しておく。

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一人でやると労働でも、誰かとやると娯楽になる (21/11/4)

大学では、 10人以上の会食は許可申請をすれば やれるようになり (ということは10人未満なら許可申請なしで大丈夫?)、 徐々に飲み会が解禁されつつある。 飲み会が解禁されたら、ここの「飲み話」の更新はなくなるのかと 心配?してくれる人もいるようだが、 ネタは尽きないので(というか、書く度に関連するネタが増殖していくので)、 ここはその手のネタを書く場所として、このまま更新は続ける予定だ。 さて、 パリで子供と二人で暮らしている 辻 仁成が 子供にごはんを作っている様子を紹介するNHKのテレビ番組 (ボンジュール! 辻 仁成の春のパリごはんボンジュール!辻仁成の秋のパリごはん) を見たのだが、辻 仁成にはなかなか親近感を覚えた。 作家で音楽家というだけでも私は親近感を覚えてしまうが (といっても私はプロの作家でも音楽家でもないが)、 子供が10才の時に離婚して、以来、子供のためにおいしい手料理を作り 続けてきたという感性に、 ほっとさせられるというか、 私も同じ立場だったら同じようにしただろうなという共感というか 親近感を感じた。 欲を言えば、子供にも料理を教えながら、子供と一緒に 料理をすれば、更に子供との距離も縮まり、 (少なくとも辻 仁成にとっては既になかなか充実しているように見える) 毎日が、子供にとっても、もっと充実したものになったのではないかな と勝手に空想した。 とはいえ、実際に子供や(つれあいなどの)家族をそのように、 一緒に日常で料理を楽しめるように仕向けるのは、 なかなか難しいことだということも私はよくわかる。 私は、料理というのは、日常において、 身近な場所で身近な道具ででき、しかも実益をも兼ねる 最高の娯楽だと捉えている。

私は、結婚して間もない?頃は、つれあいとお互いの仕事が終わってから、 一緒に買い物に行って、一緒に料理して、一緒に洗い物をして、 というのを数年間やっていた。 今になって思えば、あれはなかなか良い関係性だったと思う。 家事というのは、一人でやると労働のように感じられるが、 誰かと一緒にやれば、それなりの楽しさを感じることができる。 その後、私は秋田大学に移り、つれあいも仙台での仕事をやめて、 秋田に来て、秋田にきてからは、二人の子供も生まれ、 私が専業家計労働者でつれあいが 専業家事労働者みたいな関係性になってしまった。 もちろん、私も家事や育児(特に後者)には、できる限り関わったが、 つれあいと一緒に料理を作るという習慣はいつしか失われてしまった。

そういう?こともあり、私は子供たちが大きくなったら、 子供たちと一緒に料理を楽しめるようになりたいという夢を抱いた (まあ、また今度のネタにするが、子供と一緒にピアノの連弾が できるようになったら楽しいだろうなとか、 この手の夢は色々と抱いたが、子供を自分の趣味に誘導しようという 試みは、そのオーラを見透かされてしまうためか、 ほぼ全て実現しなかった)。

私は、体内時計がしっかりしているというか、 休みの日でも、割と早く目が覚めてしまう。 だから、秋田に来てからも、土日の朝に関しては、私が 朝ごはんを作る担当みたいになっていた。 といっても、パン食なので、せいぜい卵料理とサラダと果物という程度なのだが、 それでも、子供に果物の皮の剥き方とかを教えるには、 休みの日の朝は、格好の機会であった。 だから私は、上の子も下の子も、 幼稚園ぐらいから、まずは切れない子供用包丁でバナナとかを 切らせるところから始めて、 包丁の扱いに慣れてきたら、果物ナイフを持たせて、 1/4に切ったリンゴとかの芯や種回りは、取り除いてやって、 皮も、両端の数ミリは予め皮を残して剥いておいて、 真ん中辺の残った皮を剥く練習をさせた。 こういうことを子供にやらせようとすると、 下準備というかお膳立てをしてやらないといけないし、 時間もかかるし、怪我をさせないように神経も使うし、 子供にあちこち汚されるし、 自分一人でやるのに比べて、 圧倒的に手間も時間もかかる。 だから、日々の家事で余裕のない つれあいは、 子供に料理をさせて、わざわざ仕事を増やすようなことを あまりやろうとはしなかったと思うが、 いつか子供と一緒に料理を楽しめるようになりたいという夢を持っていた私は、 自分が好きに台所を使える休日の朝に、 子供たちに、料理の練習をさせた。

上の子に関しては、小学校の高学年までに果物は普通に剥けるようになり、 卵焼きなどもきれいに作れるようになり、 順調に料理の腕を上げているように思えたし、 皿洗いなどもするようになったし、 家族の一員として、順調に家事能力を身につけているように思えた。 しかし、それを阻む最初のきっかけは、 中学校の部活だ。 中学校では、平日も遅くまで部活があり、休日も土日のどちらかは部活がある。 空いている時間に勉強もしなければならないし疲れているから、 中学生になると、途端に家の手伝いをしなくなる。 休日に子供と一緒に料理をするというのは、 子供との貴重なコミュニケーションの機会でもあるのだが、 そういう時間がことごとく部活のせいで奪われていると感じた。 もちろん、部活での集団行動によって 養われる社交性とかもあるとは思うのだが、 正直、中学校の部活というのは、つくづく親たちのお膳立てで成り立っている と思わされる要素も多々ある。 例えば、休みの日に練習試合とかがあると、 親が(親にとっても休日なのに)早起きして弁当を作って、車で送り迎えをしてくれる。 子供たちはそれが当たり前のこととしか思わないようになる。 しかも、中学生は部活や勉強が忙しいから、 家の手伝いをぜんぜんしなくなり、 親に何でもかんでもやってもらうのが、当たり前だと思うようになる。

うちの家庭における うちの子の状況を一般化してしまっているかもしれないが、 今の子には、多かれ少なかれ、こうした傾向があると私は見積もっている。

近年の大学の入試では、「多面的・総合的な評価」というのが重視されるように なってきており、 「部活で部長をやり、県大会で優勝しました」みたいな活動内容は、 一般的には典型的な評価対象となるかもしれない。 しかし一方で私は、 これだけ部活で充実した活動が行えるためには、 当然、家族や回りのサポートもあっただろうし、 部活にそれだけ時間を取られていれば、 家の手伝いとかはしていなかったかもしれないなどと、 ついつい ひねた見方もしてしまう。 例えば、部活などの課外活動をまるで熱心にやっていないような子が、 家では仕事で忙しい親をサポートして家事をこなしているとしたら、 私の心情的には、そういう子の方を評価したくなる。

子供が家事を手伝うことは、家庭内のコミュニケーションという意味でも 重要だと私は思っている。 毎日ごはんが出てきて、着るものが洗濯されているのは、 それをやってくれている人がいるからだ。 それがどれくらいの手間のかかる家事なのかということに気づける 想像力を養うことは重要だ。 実は、大人でも(政治家でも!)その生活の基本にかかわる想像力の欠如した 人たちは大勢いる。 だから社会はなかなか変わらない。

大学生から一人暮らしを始めた人は多いと思うが、 大学生というのは、お金はないけど時間はあるので、 工夫しながら料理を練習するのにちょうどいい機会だ。 洗濯に関しては自分でやらざるを得ないのでやることになると思うが、 食事に関しては、学食を利用したり、安い弁当を買ってくる こともできるので、 必ずしも料理をしないで済ませている大学生も多いかもしれない。 ぜひ、時間のある大学生のうちに、料理の練習をしておいてほしい。 更には、友達と一緒に買い物をして、一緒に料理して、一緒に洗い物をして というのをやってみてほしい。 それが意外と楽しいということに気づくと思う。

そういう意味では、私は学内に家庭科室のように顔を向かい合わせて 洗い物等の作業ができる調理場を作ったら いいのではないかと思っている。 学生たちが、そこで自由に料理していいことにしたら、 コミュニケーションの場にもなり、なかなか楽しいんじゃないかと思う。 留学生会館とか、複数の学生が共同生活する集合住宅だと、たいてい 共有の調理場があって、そこが程よいコミュニケーションの 場になったりするものだが、 大学内にもそういう場があったらいいなと真面目に思う。 あわよくば、そこで、 一定のルールのもとに(例えば教員同伴を前提として許可申請するなど) 飲酒も認められるなら、 ただオードブルを頼んで飲み食いするだけの飲み会 (一応、大学生協で、こうしたやり方で飲酒することは認められているけど)よりも、 料理や洗い物といった作業を一緒に行うことで、 通常の飲み会では 話のきっかけをつかむのが苦手な人でも、 作業の中では一定のコミュニケーションを共有でき、 よっぽど充実した娯楽体験になるのではないかなと。 ついでに、週一回とか料理教室なんかも開催して、 学生に限らず 教職員も参加できるようにしたら、 学内のコミュニケーションの輪が広がってなかなかいい感じじゃないだろうか。 教員と学生とか、普段のそれぞれの立場の中ではコミュニケーションを取りにくい 関係にあっても、料理とか洗い物とかの作業を共有すると、 意外とコミュニケーションの垣根が取り払われたりする。 まあ、こういう価値に気づいている大人は、 なかなか大学には少ないだろうが。

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私は非常識? (21/6/4)

学生のみなさんは意外に思うかもしれないが、 実は私はなかなか非常識な人間だ。 私が、2002年に秋田大学に来て間もない頃だったような気がするが、 ちょっとショッキングな光景を目撃した。 廊下で学生たちが談笑していたのだが、 ある先生が、すれ違いざまに突然その学生の帽子を取ったのだ (その後、帽子を学生に渡していたとは思うが)。 私は、何が起こったのかわからなくて、しばらく、 固まってしまった。 帽子を取られた方の学生は、「あ、すいません」とか言って 帽子を受け取っていたが、 それでも私はまだ何が起きたのかよく理解できなかった。 恐らく、その先生は、室内で帽子をかぶることは失礼なことだという 文化に帰属する人で、 室内で帽子をかぶるとはなにごとだと、 学生の帽子を取ったということのようだ。たぶん。 でも、ちょっと待ってほしい。 学生の身につけているものを突然 取るなんていうのは、 なかなか危なっかしい行為だ (セクハラになる場合もあるだろう)。 それに、仮に学内が「室内で帽子をかぶるのは失礼(誰に対して?)」と いう文化が 適用されている場だとしても、常時 帽子をかぶっている人というのは、 様々な事情があって帽子をかぶっている場合もある。 例えば、病気や薬の副作用等で髪が抜けているのを隠している場合もあり得るし、 頭に怪我したのを保護するために帽子をかぶっているということも あり得るだろう。 だから、人が身につけているものを許可なく取るなんてことは してはいけない。 当時の私は情けないことに、その先生を注意することもできず、 ただ、びっくりして傍観していた。

この一件の他にも、 秋田大学に来てから、学生が授業中とかに室内で帽子をかぶることに対して 怒る先生がそれなりに(若い先生にも)いるということがわかってきて、 私はちょっとカルチャーショックを受けた。 私はそれまでの人生で、室内で帽子をかぶることを注意されたことはないし、 注意している人を見たこともほとんどないように思った。 例えば、私は秋田大学に来る前は、東北大学で助手をしていて、 その前は、東北大学の学生だったが、 東北大学では、授業中に帽子をかぶっている学生がいたところで、 それを注意する先生なんていなかったように感じているが、 記憶を捏造しているかもしれない。 それ以前の石巻高校、石巻中学校、石巻小学校等でも、 室内で帽子をかぶるのを注意されたような記憶はない。 もちろん、家庭内でも私はそんなことは注意されたことはないから、 ある意味、私は秋田大学に来るまで、 「室内で帽子をかぶることが失礼だ」という文化が、 そんなにも一般的に根付いているなんて、想像もしていなかった。 だから、私は学生が授業中に帽子をかぶっていても全く気にならないし、 そもそも、失礼な服装かどうかなんて、単純に文化の問題でしかない。 もし、 「室内で帽子をかぶることが失礼だ」という文化が 少なくとも日本では、ほとんど常識なのだとすると、 私はその程度には極めて非常識な人間なのだろうとは思う。 といっても、これは私の体験を私の主観で(記憶を捏造しながら) 書いているだけなので、 石巻地方や東北大学では「室内で帽子をかぶることは失礼だ」といった マナーを気にしない一方、 秋田大学はそういうマナーをとても気にするとか、 そういう地域性の影響はさすがにないだろう。たぶん。 例えば、石巻でも東北大学でも(時代的にも昔だし) 「室内で帽子をかぶることは失礼だ」という文化は普通にあったけれども、 子供時代から大学生時代ぐらいの私があまりにも そういうことに無頓着すぎて、まわりで、そういうことを注意している 人がいても、意味がわからなかっただけかもしれない。

そういえば、中学の時に、服装のことを怒る先生がいて、 全然 意味がわからないので、記憶に残っていることが一つあった。 中学2年だったか、体育の次が音楽の授業だった。 音楽の授業は音楽室でやるので、我々は、体育の授業が終わった後、 トイレに行ったりして、着替える暇もないから、 運動着のまま音楽の授業に出ていた。 すると、音楽の先生が、 「体操着で音楽の授業を受けるなんて、雰囲気が壊れる」 という意味のことを言ったのだ。は???である。 それも、ある意味カルチャーショックだった。 世の中には本当に様々な文化があるものだが、 自分が帰属している文化を、「常識だから」と 他人に強要していいかどうかは別の問題だ。

私は世の中の様々なマナーというものに興味がないし、 わざわざそれを覚えようとも思わない。 というか、そもそもマナーなんて文化の問題でしかないから、 それを同じ文化圏の人のはずだとの前提で他人に強要するのは、 よくないことだし、そういうマナー習慣はなくなった方が、 異文化交流は円滑に行えると思っている。 それを、私自身が、さすがに非常識すぎるのはまずいと 「正しい?」マナーを覚えたりして しまったら、私自身がそういうマナーを再生産するのに 加担することになってしまう。 例えば、 ご祝儀袋とか香典袋を折りたたむ際、 上側を折った方を上にするのか、下側を折った方を上にするのかといったことが、 祝い事のときはどっちで、不幸のときはどっちという マナーみたいなものもあるらしい。 今は、ネットで検索するとすぐに正解がわかってしまうが、 私はこういうマナーを再生産するのはよくないことだと思うので、 ネットで検索したりせず、 いつも何も考えずに、ご祝儀や香典袋を折りたたんでいる。 だから、こういうことを気にする人にとっては、 私は、2回に1回ぐらいの確率で何と非常識な人だと思われているのかもしれない。

というか、昔はネットで検索とかできなかったし、 もしかすると、昔の方が地域差が大きくてあまり気にしなかったマナーも 多々あるんじゃないかと思う。 例えば、みなさんは結婚式とお葬式のネクタイの色とか気にしますか。 もちろん ネクタイは男という性別に固定された正装という時点で、性差別反対の私はその服装を支持できないのだが、 それはまた今度のネタとして、 世の中的には、結婚式は白、お葬式は黒ということになっているらしい (ほんとですか?)。 ところが、そういえば石巻では、少なくとも昔は、 お葬式とか法事で白いネクタイをする人はよくいたと思う。 だから、私は学生時代、町で黒いスーツに白いネクタイを している友達に会ったので、 「お葬式 行ってきたのが?」と聞いたら、 「結婚式だ」と言われたこともあった。 まあ、これも私の親戚の一部のことかもしれないし、 私の記憶の捏造かもしれないし、実は石巻近辺でも昔からお葬式は黒が 常識だったりするかもしれないが、それはともかく、 そういう地域性はぜんぜんあっていいし、 いちいちネットで調べて、どうでもいいマナーを再生産しようとするのは、 つくづくやめてほしいと思う。

私は、各種のマナーを含め、世の中の文化・風習の中で、 自分がおかしいと思うこと男女で「くん」「さん」を区別するとか、 お酌とかに限らず)はやらないようにしようと思うのだが、 一方で、そういう世の中の文化・風習・マナーに従おうとする常識的な人というのは、 自分がおかしいと思うかどうかよりも 他人がおかしいと思うかどうかが 圧倒的に優先される判断基準なんだろうな と思うことがある。 確かに、他人から あなたはおかしいと言われたことがなかなか的を射た指摘である こともあるだろう。 しかし、あなたはおかしいと主張する根拠が、 「普通の人はそういうことをしない」とか 「普通の人はこうするものだ」というだけのことだったら、 その人には自分の考えはなく、 ただ、 多数派の行動に従うのを良しとしているだけだ。 また、いずれネタにするが、 世の中の文化・風習・マナーには、 不合理なものや差別的なものもたくさんある。 なぜそういう風習に従うのかを自分の頭で考えずに、 「ただ多数派に合わせる人」が多数派である限り、 どんなに不合理で差別的な風習だろうと、 いつまでも温存され続ける。

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エアコン、勝手に入れていいんで... (21/6/7)

コロナ騒動以来、教室での授業は(特に学部生では)めっきり 減ってしまって久しいが、 学部で専門の授業を初めて受ける2年生とか、 なんでそんなに遠慮深いのと思わされることが多々ある。 秋田は、まあ冬はなかなか寒いのだが、 12月とか寒くなってきて、 朝1コマ目の授業とかに、私が準備のために早めに教室に行くと、 暗くて寒い教室に、明かりも点けずに、暖房もつけずに、 学生が一人、ぽつんと座っていたりする。 え、寒いでしょ? って。 いやー、 暗かったら電気 点けていいし、 寒かったら暖房 つけていいんだよ。 と学生には言うんだけど、 どうも、学校の設備を勝手にいじってはいけないとでも 思っているかのような感じだ。 高校までの学校教育で、なんかそういうふうに教育されてきたのだろうか。 でも、それだけが理由というわけでもないようにも思えることもある。 例えば、 冬の寒い日、一応、エアコンの暖房はついているのだが、 窓のレースのカーテンが開けっ放しだ。 秋田の冬は、窓際は結構 冷えるので、レースのカーテンを閉めただけでも、 だいぶ暖房効果は違う。 どうして、窓際は寒いのに、レースのカーテンすら閉めようとしないのだろう。 さすがにこれは、大学の設備を勝手にいじってはだめだという意識による ものではないと感じる。 夏の暑い日もそうだ。 窓際は直射日光が照りつけるので、レースのカーテンを閉めただけでも、 かなりの遮熱効果、冷房の保冷効果が期待できる。 それなのに、レースのカーテンも閉めずに 直射日光が照りつけ、冷房を入れながら、窓を開けていたりする。 え、ちょっと待ってくれ。 みなさんは、一応、土木環境工学を学ぶ大学生なんだけど、 まずは日常レベルで、 環境負荷低減ということを意識してないんだろうか?  窓際は結構 冷え込むので、レースのカーテン閉めてね。 それで暖房効果も結構 違うから。 直射日光 差し込むからレースのカーテン閉めてね。 それで冷房効果も結構 違うから。 気になる度に、私は学生たちに言っているのだけど、 どうして、学生たちは、 言われなくても 自分からそういうことをしようとしないのだろう。 まあ、ちゃんとやってる学生もきっといるのだが、 どうも下の方の学年の学生ほど、そういう傾向を感じる。 大学の設備を勝手にいじってはいけないと思っているのだろうか。 カーテンを閉めることすらだめなの?  あるいは、ほんとに、 窓際が冷え込んで寒いなあとか、 レースのカーテンを閉めただけでもだいぶ寒さが和らぐかもしれないとか、 太陽が差し込んで眩しいなあ、暑いなあとか、 レースのカーテンを閉めれば、 眩しくなくなって、暑さもやわらぐかもしれないとか、 そういうことをほんとに考えていないのだろうか。 いや、さすがにそんなことはないのではないだろうか。 私の想像では、 寒いとか暗いとか暑いとか眩しいとか、 今の状況に不具合を感じていて、 公共の設備に手を加えればそれを改善できることはわかっているものの、 自分が 公共の設備に手を加える人間にはなりたくないというか、 それだったら、誰かが手を出すまで、 今の不具合を甘受していた方がましというか、 そんな感じなのかなあと邪推する。

私は そういう心理が全く理解できない、というわけでもない。 私も子供の頃はそういうところがあった。 お店に行って、 店員に勘違いされて自分のほしいものとは違うものをよこされても、 それを指摘できずにそのまま買ってしまったりとか、 どうして子供というのは、 家族とかの自分がなんでも自由に話せる社会と少しでも 違うコミュニティーに接したときに、 自分のおかしいと思ったことをおかしいと主張したり、 いやだと思ったことをいやだと言ったり、 逃げたいと思ったときに逃げたり、ができなくなってしまうのだろう。 まあ、こうした性質は、子供にはありがちだが、 大学生でも、カーテンを閉められないに限らず、 それなりに、あることだと思う。 自分がおかしいと思ったとき、いやだと思ったとき、 現状を変えたいと思ったとき、 そのための行動が取れることはとても重要なことだ。 まあ、道に迷ったときに人に道を聞けるかとか (今は、スマホで道を調べられるようになったが)、 電車やバスで席を譲れるかとかそういうことも重要だ。 大人はそれなりに神経が太くなることが必要だ。 電車で席を譲るといえば、 吉野 弘の「夕焼け」という詩はなかなか印象に残る詩だ。 読んでみるとよい (そのうち、構造研文庫に置いておこう)。

ついでに小ネタだが、 私は授業の際に黒板の全面を使って板書するのだが、 どう考えても、黒板の真ん中に教壇があるのは邪魔だとしか思えない。 教壇の陰になる黒板の真ん中の下の方は、 座席によっては、かなり見にくい、というか全く見えなかったりする。 なので、私は授業の最初に、 黒板を端っこに移動してから授業を始める。 小さくて軽い教壇なら、 一人で持ち上げて移動するのはそれほど大変でないのだが、 秋田大学の教室は (特に共通教室は)何故か、 でかくて重い(移動することなんて想定していないような)立派な教壇が 置いてあったりする。 そうなると、一人で動かすのは大変で、 前の方に座っている学生に声をかけて、 動かすのを手伝ってもらったりするのだが、 私の授業では、毎回、最初に教壇を動かすので、 そのうち、学生に声をかけなくても、 手伝ってくれるようになるか、 あるいは、学生の方で気を利かせて、 教壇を動かしておいてくれるかどうかなど、 その辺は興味深いところだ。 2年生ぐらいだと、なかなか自発的にこういうことを 手伝う学生は、まだまだ少ない感じだ。 大学院生ぐらいになると、普通に自発的に手伝うようになるのだが、 その境目の3年生、4年生辺りが、研究室に配属されたりして、 社交性が養われてきて、神経も太くなってきて、 大人に成長する時期なのかなあと思ったりする。 今の学生たちは、こうした社交性や行動力が養われる大事な時期に、 オンライン授業ばっかりで、 研究室に配属されても、 飲み会を始め、野球大会などのイベント各種も一切ないというのは、 精神の成長にそれなりの影響があったりしないだろうかと やや心配である。

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昔は良かった...(高校編) (21/12/6)

昔の大学は、学生も教員も相当に自由にできて (私みたいな学生にとっては)良かった、 あの時代に大学生を経験できて良かったなあ (もちろん、自由にされると自己コントロールできなくなる 一定数の学生や教員もそのまま放置されていたという弊害も あり、その辺は基本的に自己責任だったわけだが) みたいな話をそのうち書こうと思っているのだが、 その前に、昔の高校もなかなか自由だったという話を書いておこう。

私は宮城県の石巻市に生まれ、石巻高校という高校に行っていた。 石巻高校は男子校で (というか、宮城県は共学化の遅い県で、石巻市も仙台市も、 当時は基本的に、男子校、女子校に分かれていた。 共学化が始まるのは、2000年代半ばに入ってからで、 本当に遅い。 男女別学というのは、ジェンダーの問題以前に普通に差別なので、 この問題も大きなネタにはなるが、それはまた今度)、 バンカラで自由な校風だった。

中学(ちなみに石巻中学校)までは、 服装やら持ち物やら、 校則で厳しく管理されていたが、 石巻高校(以下、「石高せきこう」)では、校則なんて 誰も知らないし、 服装は自由だし、休み時間に校外に出て買い喰いもできたような 気がする (一応、放課後までは禁止だったかもしれないが、 こっそり買いにいく奴もいた。 学校向かいの「伊藤屋」には お世話になった)。 石高に入学して最初の授業の日だったか、 1時間目だか2時間目の休み時間に副担任の先生が入ってきて、
「なんだ おめだぢ、まだ弁当 喰ってねえのが?」
と ぼそっと言って出ていった。 我々は、中学までの感覚で、弁当は昼休み以外に食べてはだめだと思い込まされて いたから、
「え? 弁当 喰っていいのが?」
と不安になりながら、何人かは、
「んで、おい 喰うど!」
と宣言しながら3時間目の休み時間までに恐る恐る早弁していた。 それが正解だった。 私やその他多数派は昼休みに弁当を食べていたら、 突然 竹刀を持った先輩たちが入ってきて、 そこらじゅうを竹刀で叩きながら、
「おめえらっ、なに弁当なんか喰ってんのや! さっさど しまえっ!」
と怒鳴り散らし、 「伝統」の「応援練習」が始まるのだった。 応援歌は二、三十曲ぐらいあり、これらを全て暗記して、 大声で歌えるようになるまで、怒鳴られながら、 毎昼休みに特訓されるのだ。 さすがに、竹刀で身体を叩かれるようなことはなかったが、 明らかに言葉による暴力であり、 今の高校では、さすがにこういう「伝統的」応援練習を放置するわけには いかないだろう。 我々の数年前には、 竹刀どころか、出刃包丁をサラシに巻いて持ってきて嚇されたことも あったようで、 それはさすがに当時も問題になったようだ。 といっても、せいぜい職員会議で問題になる程度だろうが、 今だったら、普通に警察沙汰というか犯罪のレベルだろう。 「声が小さい!」と脅されて、真面目に大声を張り上げ続けた 同級生は、喉を痛めて声が出なくなり、病院で治療を受ける羽目になったが、 私は、そんな高音で声を張り上げたら、当然、喉を痛めると思って、 音程が高いところは、わざと低い方に音を外して、 自分の許容範囲の最高音でまっすぐ歌っていた。
「おめえ、音痴だなあ」
と先輩に言われて、
「はい」
と答えると、
「おめバガが? はいでねくて おっすだって何回 言ったらわがんのや?」
と言われ、
「はい。あ、おっす」
と答えるという塩梅だ。 まあ、軍国主義教育を模した悪しきセレモニーで、 今の時代は、こうした「伝統」がそのまま放置されている高校は少ないとは 思うが、こういう典型的虐待の一手法が まだまだ「体育会系のノリ」として「温存」されている部活などは、 ありそうだ(よくテレビで、吹奏楽その他の部活が 大会に出場するまでを取材する番組があるが、 いまだに体育会系のノリ「おまえら、やる気あんのか」的なのが 罷り通っていたりして、不愉快な気分になることもある。 が、これもまた今度のネタ)。 私の頃の高校生は、 親からも(理由の説明なく)怒鳴られたり叩かれたりして育ってきた世代だし、 今の平均的高校生よりは、こうした脅しや言葉の暴力には耐性を持っていた とは思うが、それでも、 応援練習のショックで学校に来れなくなるような生徒も、 少数いたようだ。

私の父は、実は石高で数学の教師をしていて、 私が石高に入学したときは、 私の学年を教えないように学年をずらされたようで、 石高で父の授業を受けたことはない。 物理部の先輩たちは、 少しずつ私が「後藤先生」の子供だと気づいていったようだが、 そのことで、いじめられたりするようなこともなかった。 というか先輩たちは、私が後藤先生の子であると知ってからは、 私のことを「後藤先生」と呼んだりするようになった。 物理部の先輩たちは、 基本的に電子工作BASICのプログラミングやアマチュア無線や 天体観測などのそれなりのスキルを持った人たちで、 今の言葉で言えば、オタク系というか、 「応援練習」の先輩たちとは対極にいるいい人たちで、 この先輩たちから、つげ義春や諸星大二郎の漫画を教えてもらった (構造研文庫に置いてあるので、興味のある人は自己責任で)。

私の父は石高の先生だったので、 私の小さい頃から しょっちゅう 石高の先生たちをうちに連れてきては飲んでいたし、 私や姉は、小さい頃から、しょっちゅう石高の先生たちの スキー旅行に同行したし(これもまた今度のネタ)、 あの頃の石高(に限らず他の高校も?)の先生たちは、 何十年も転勤せずに、定年になるまで同じ高校にいることが珍しくなかったので、 私や姉は、少なくとも父と近い関係にある (ということは酒飲みまたはスキーをやる)石高の先生たちの顔と名前は だいたい知っていた。 私は「後藤先生」の子供であったので、石高では、 あまりハメを外したり馬鹿なことはやりにくかったが、 それでも、だいぶ自由に色んなことをやれて楽しかったとは思う (具体例はまたそのうち)。

私の父はなかなかの酒飲みではあったが、 仕事はきちんとする人だったと思う。 私も(締切を守るとかそういうことに関しては)割と仕事を きちんとする方だとは思うが、 その点に関しては私以上の酒飲みだった父の方が 遥かに徹底してきちんとやっていたのではないかと思う (さんざん今の仕事を続けてきた私でも、 締切の迫った各種の仕事をやらなければ、やらなければという 強迫観念に駆られながら、なかなか手を付けられないで保留してしまうことも 未だに多い。だから、卒論とか、とりあえず手を付けないと結果も出ないことを 自覚しながら、なかなか手を付けられないでしまう学生の気持ちも、 全くわからないわけでもない)。 私の父は、毎日 夕方の五時頃には家に帰ってきた。 だから我が家の夕飯は大体五時頃だった。 そして父は酒を飲んだ。 そのため、私は高校の先生というのは、なかなか (今の言葉で言えば)ワークライフバランスの取れた働きやすい職業なのかなと 誤解していた。 私の父が石高で先生をしていた1960年代頃から1980年代頃の時代においても、 普通の高校の先生はそこまで自由ではなかったであろう。 まあ、石巻高校に特有のことだったとは思う。 それから、私の父は、 ダラダラ仕事をせずに、やらなければいけないことをさっさと終わらせてしまうという 主義の人でもあり、 集中して さっさと仕事を終わらせて早く帰ってきて酒を飲むという やり方を徹底していたのかもしれない。 その意味では、テストの採点など、当時は家に持ち帰ってきて、 家で採点している光景はよく見た (まあ、当時は個人情報を自宅に持ち帰って作業することも別に 問題視されていなかったし)。 物理部の先輩いわく、
「いやー、 後藤先生すごいんだど。んだって、テストの次の日にはもう答案 返すんだど」
ということだったが、なるほど そういうことだったのかと合点がいった。 石高は先生たちも自由なので、 ダラダラと仕事をして いつまでも採点しないでいる先生たちも 当時はそれなりに多かったのではないかと想像する。 父が石高の先生を退職して、私が父と酒飲みをするようになっていた頃だったと 思うが、 父が、私が知っている(うちにも時々 飲みに来ていた)石高の先生が、 ぜんぜん仕事をしなくて色々と尻拭いさせられたという話をぼそっとしたことがある。 例えば、その先生が副担任だかをやっていたときに、期日を過ぎてもぜんぜん 通知表を書かないので、代わりに書いてやったとかそういう話である。 その先生は、私も好きななかなかいい先生であるが、 そういうダメダメな部分があったであろうということも 私には容易に想像できた。 あの頃の石高は、そういう(少なくとも現代的な定量評価主義の視点からは) ダメダメな先生でも、 (酒飲みの)私の父みたいな人が尻拭いをしてくれるおかげで、 なんとかやっていけて、そのキャラクター故に生徒たちにも好かれることが 可能なような独特の共同体だったの だろうなと私は捉えている (ちょっとネタにはできないが、そういう部分は今の大学にも それなりにはあるかもしれない) 。 それに私の父だって、仕事はきっちりしていたかもしれないが、 恐らく酒ではさんざん人に迷惑をかけたこともあったことだろうと思う (まあ、私もそういう父に似ている部分はあるので反省している)。 父は、私の副担任だった 体育の先生が全然 授業をせずに、授業中にボート部のボートにペンキを 塗っていることにも怒っていた。 なるほどなあと思った。 確かに、その先生は体育の授業の際に、ほとんど授業をしていなかった。 授業が始まると、
「おめだぢ、野球でもしてろ」
と言われて、我々は野球とか、自分たちのやりたいことをやって 時間を過ごした。 そして、その先生は、確かに授業中にボートを磨いたり塗装したりをしていた。 でも、当時の我々は、それがおかしいことだなんてまるで思っていなかった。 変に授業をされるより、自分たちの好きなことをして過ごせる方が、 よっぽど快適(お互いにウィンウィンの関係だ)とすら思っていた。 というか、当時の我々は先生が勤務時間中に仕事以外のことをするのがおかしいという 認識自体を持っていなかった。 ある数学の先生(この方は、 どんな難問でも何も見ずにその場で初見で解き、 しかも字や図もきれいで本当に頭の切れる方だと思った)は、 たまに授業に遅れることがあった。 授業時間になってから先生が 五分だか十分たっても来ない場合は、日直が先生を呼びに行かなければ ならないことになっていた。 授業時間になって五分たっても先生が来ないと日直が、
「そろそろ、呼びに行がねげねえがや」
と気をもみ始める。そうすると、教室のみんなは、
「まだ大丈夫だ。行ぐな。行ぐな」
と引き止める。十分たつと日直は更に気をもんで、
「もう、やばいべ。呼びに行がねげね」
と呼びに行こうとする。それでも教室のみんなは、
「このやろー。裏切んのが。いいべ、まだ大丈夫だ」
と引き止める。でも十五分ぐらいになると、日直は気が気ではなくなって、 先生を呼びに行ってしまう。 私もその立場で呼びに行ったような記憶がある。 そうすると、先生は職員室で他の先生と将棋をしている。 そして、日直の姿を認めて事態を悟ると
「このやろ! なんでおめだぢ、さっさど呼びに来ねえのや!」
と怒り出し、教室に向かう。 教室では、改めて生徒たちが怒られる。 でも、当時の我々の感覚としては、呼びに行かなかった自分たちが 確かに悪いという認識しかなかったと思う。

石高に関するネタは、他にもいっぱいある。 ひとまず、今回 書いた話で、昔の石高は、先生も生徒も自由だったという意味合いが ある程度は伝わっただろうか。 伝わってない感じだったら、またそのうち補足する。 人は自由にされると、その自由の中で自分をコントロールできずに、 教員だったら、管理や強制されないことをいいことに怠けたり、 いい加減にする人が一定数 出てきたり、 生徒だったら、 管理や強制されないと勉強しない・できないとか、 学校に行かない・行けないとかの悪循環に陥って メンタルをやられたりする人が一定数 出てきたりする ものだと思う。 だから、昔の自由な(石高みたいな一部の)高校や、 昔の自由な(例えば出席を取らなかった多くの)大学のシステムに対して、 相対的に 管理の行き届いた(教員や学生がちゃんとやっているかどうかのチェックが 細かく、問題が発覚した場合のケアも手厚い)最近の高校や大学のシステムよりも 「昔は良かった」と手放しの評価を与えるつもりは毛頭ない。 多くの意味で、現在の高校や大学のシステムは、昔の高校や大学が 自由すぎたために生じていた各種の問題を是正するべく改善された一つの 手法なのだとは思う。 例えば、すべての学生と面談して、問題を抱えていそうな学生の救難信号を 早期に発見したり、教員によるハラスメント事案を見つけ出したりという 意味では、 組織の上層部がなるべく多くの構成員と面談するという こうした手法は、 最近の企業でも取り入れていることだし、 これからの社会で標準化していくことかもしれない。 まあ、その頻度(年二回とか)や対象(全員なのか、 欠席日数や成績に問題が認められる者や希望者に限定するのか)といった部分は、 データに基づいて政策判断される部分だとは思う。 現在の秋田大学は全員に年二回ずつの面談という、かなり安全側の手法を 採用している。 その辺の話は、次回?の「昔は良かった...(大学編)」に回すが、 私は、現在の高校や大学は、学生のケアなどに関しては確かに昔より良い部分も あると認識しているものの、 一方で、今の(かなり管理されケアされている)高校生、大学生よりも、 昔の自由だった高校生、大学生の方が(人によってはかもしれないが、 少なくとも私みたいな人の場合には)、よっぽど充実した学生生活を送れる システムだったのではないかという思いが、 いつも(最近の大学に特有の仕事をする度に)つきまとって離れない。 もちろん、昔のシステムが手放しで良かったわけはなく、 総合的には今のシステムの方がはるかにましなのかもしれない。 でも、昔の良かった部分をどうにか、今の高校や大学のシステムの中に 組み込む方法はないものかと頭を悩ませている。 そして、 世の中や大学が指向しているのは、 ますます昔の高校や大学とは遠ざかる方向だ。

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昔は良かった...(大学編) (21/12/6)

私が大学生の頃の(つまり1985年頃から1990年代ぐらいの)大学は、 自由だった 昔の石巻高校以上に遥かに自由だった。 簡単に言うと、語学等のごく一部の授業を除き、ほとんどの授業では 出席なんて取らないから、 多くの大学生たちは、出席のない授業はその日の気分でサボっていた。 きっと合格最低点に近い点数でギリギリで大学に合格した という自覚のあった私は、 落ちこぼれてはいけないと、真面目に全ての授業に出席したが、 平均的な学生は、その真面目さに応じて、 半分ぐらいは授業をサボっていたのではないかと思う。 で、大学生活を謳歌?したい何割かの学生は、 出席を取らないほぼ全ての授業をサボって、 バイトやらサークル活動やらに精を出していた。 そうすると、授業に出てくる学生というのは、 基本的に真面目な方の学生だから、 授業中に寝たりする人はあまりいない、 というか、そもそもその日の授業に出ようと思って、 朝起きて眠かったら、そういう人は、授業をサボって寝ているだけだから、 出席を取らない授業では、出席人数が少なく、 寝るような人もいなかったのではないかと思う。 これは、教員にとっても学生にとっても、 とても良い関係だったと思う。 だって、モチベーションの高い少数の学生だけが授業を受けに来ている わけだから、 教員側も、 ぼーっとしている学生や寝ている学生に やる気を削がれることなく、 目の輝いている学生を前に、授業のやり甲斐を感じながら 授業ができるのだ。 正直、現在の私もその方が教員と学生の双方にとってウィンウィンの関係だから、 私の構造力学とかの授業の 出席を取るのをやめたいのだが、 出席を取って学生の出欠状況を把握するのが現在の大学のルールだから、 そういうわけにもいかない。 コロナ明けにもオンラインと対面の並列授業が認められるなら、 例えば、小テストだけ教室で受けたら (一応、ここで大学に出てきているかどうかの出欠確認はできるので)、 後は帰りたい人は帰って、オンデマンドでオンライン授業を受けておけば いいことにするというやり方もできるようにならないだろうか。

昔の大学の授業は、毎回小テストをしたりということはなく、 基本的には期末テストの一発勝負だったから、 授業に全く出席していなくても、テストで合格点を取れば合格できるし、 いい点を取ればAだって取れるという明快なシステムだった (ちなみに昔は、Sはないので最高がA)。 試験期間が近づいてくると、 今まで一度も話したことのないようなクラスの同級生たちが、 私に、 ノートを貸してくれと言い寄ってきた。 授業を全く休まずに毎回ノートを取っている人というのは少数派だったから、 私のノートはなかなか貴重だった。 ただ、私は相当に汚い字でノートを取っていて、 基本的に自分で読めればいいわけだから、 速記というか、本当に自分ですら読むのに苦労するような 読みにくい字でノートを取っていた。 だから、私のノートを貸してほしいという同級生らしき人には、 ノートを見せ、 「いいけど、こんな字だよ?」と 当時 喋る練習を始めていた東京弁で答えると、 「いや、それでいいから、それでいいから」と凄くありがたがって借りていった。 私のノートは本当に読みにくいので、 「ここなんて書いてんの?」と聞かれても私自身にも読めない箇所も 多々あった。ところが、 そのうち私のノートの解読屋というのも現れて、 私自身にも読めなかった箇所をちゃんと解読していたから、 なかなか感心した (こういうノリはなかなか昔の大学生っぽいなと思う)。

昔の大学は先生の方もなかなか自由だった。 耐震工学の授業だったか、 当時 工学部長だった(あるいはそうなる前年だったか)O先生は、 いつも30分授業に遅れてきて、 30分ぐらい授業をすると、 30分早く授業を終わった。 今だったら、授業アンケートに書かれそうだが、 当時は授業アンケートなんてないし、 学生からしてもむしろありがたいことだった。 そして、授業は確か「耐震工学」だったような気がするが、 ギリシャ哲学の話から始まって、 プリンキピア の話や エコール・ポリテクニークの話ばかりで、 肝心の耐震工学の話はほとんどなかったような気がする。 今の大学は、シラバスに15回分の授業の内容を 1回目は「これこれについて」 2回目は「これこれについて」 とすべて明記して、その通りに授業を進めなければいけないことになっているから、 その時々の学生の反応や時事的な話題に応じて、 授業内容を柔軟に変更するということがとてもやりづらくなってしまった。 おまけに、授業アンケートでは、 「シラバス通りに授業を進めているか」という項目をチェックされるから、 ますますシラバスを逸脱することができない。

昔の大学は、というか、せいぜい10年前ぐらいまでは、 授業を休講にして出張に行くということもやりやすかったが、 今は、JABEE等の関係もあって授業回数を確保しなければならないし、 それをチェックされたりするようにもなってきたので、 なかなか出張に行きづらくなって困る。 大学の先生というのは、社会貢献をどれだけしているかというのも 評価の対象となるが、 土木の先生は、県や市町村の委員を兼業している割合がとても高く、 だから、社会貢献のために外部の委員会に出席しなければならないけど、 授業を休講にできなくて困るというジレンマを抱えている。 最近は、代休や有給休暇もちゃんと(というか最低5日間は)取るように という指導がされるようになってきたのだが、 授業やその他の業務のある日には休暇は取れない。 だからどうしようもない。 もちろん、休暇はちゃんと取れた方がいいのは当然だが、 大学というシステムは、教職員が有給休暇や代休をすべてきちんと 取ることができるシステムにはなっていないのだと思う。 というか、大学に限らず、世の中のシステムは完璧にはできていない。 だから、休暇の方をきちんと取得しようとすると、 授業の方は休講にしなければならない (15回とかの所定の回数を実施できない)といった矛盾が発生してしまう。 そういう矛盾を解消しようと、様々な取り組みがなされてはいる。 例えば、代替だいたい教員という制度は、 多くの教員に代替教員として担当できる科目を登録しておいてもらい、 誰かが休暇をとったとき、代わりに代替教員が授業を行うという制度だ。 まあ、数学とか英語みたいな科目の場合、 代替教員もある程度は成立するかもしれない。 しかし、構造力学とか水理学みたいに専門性の高い科目は、 そもそも代替できる教員自体がいないので、現実的に無理だ。 システムが不完全なのにもかかわらず、 管理やチェックを厳しくしていくと、 当然、不完全性を誤魔化せなくなって、 おかしな帳尻合わせをするようになってしまう。 企業等ではありがちではないかと思うが、 実際には勤務して業務を行っている日を 書類上は休暇をとったことにしてしまうとか、そういうことだ。 もちろん、その手の帳尻合わせは、システムの不完全性を 一切改善しないので、そういう適応の方法はよくないことだと私は 思っている。 私はどちらかというと、 システムの不完全性に対しては、昔のように管理やチェックをゆるくして、 「おおらかに」対応するという適応方法の方が、いいやり方のような気がしている。 コロナでオンライン授業となった2年間に、 私は自分の主な授業 (構造力学I, 構造力学II, マトリクス構造解析) の15回分の授業テキストをウェブ上に公開し、授業動画をYouTubeに公開した。 コロナが収束してからもオンライン授業を利用することが 認められるなら、 授業のある日でも、 (適宜オンデマンド型の)オンライン授業に切り替えることで、 出張に行ったり、休暇をとったりすることができるように なるのではないかと期待している。 授業は所定の回数より1回か2回少なくてもまあいいですよというのは 「おおらか」すぎて認められないとしても、 3回まではオンライン授業に変えられるとか、 オンデマンド型のオンライン授業の際は、リアルタイムでアクセスを 確認しなくてもよいとか、 だから授業日に休暇をとったり出張に行ってもいいとか、 その程度の柔軟な 対応をしてもらえると、だいぶやりやすくなる。

2021/12/19追記: NHKの高橋源一郎の飛ぶ教室が好きで、 らじる★らじるの聴き逃しサービスで、 土曜の朝、朝ごはんを作りなら聞いている。 12/17(金)の放送分だったと思うが (「読む記事」が公開されたらリンクを張ります)、 伊藤比呂美の人生相談で、こんなのがあった。 中学時代に不登校だった人が、芸術大学を受験した際、 試験官から中学時代の不登校について聞かれ、 「君には中学が合ってないようだから、 大学も合わないよ」 (正確な表現は「読む記事」が公開されていから修正します) みたいなことを言われて、不合格になったということで、 高橋源一郎も伊藤比呂美もその試験官に凄く怒っていた。 中学に合わないからこそ大学に行くんだろと。 大学っていうのは、中学(とか高校)に合わないような人が 行くところだろと。 昔の古き良き大学に関しては私も強く同意する。 高橋源一郎は、そんな大学はやめて他の大学を受験したらと 言いながら、今どきの大学は、どんどん(教員も)規格化されて、 そういう試験官のような人も増えているから、 他の大学なら大丈夫とも言い切れないようなことを懸念していたが、 それは正に私も懸念することだ。 昔のほとんどの大学は、 学生が授業を連続して欠席しても、そんなことは放置していた。 もちろん、連続欠席の理由がメンタルな問題で、 大学から放置されたためにメンタルな問題を深刻化させた 学生もそれなりにいたことだろう。 今の(一部の地方)大学では、学生の出欠を管理・チェックし、 連続欠席した学生の状況を確認し、適宜 介入してケアへとつなげる。 それは、学生のメンタル面への安全側の対応という意味では、 全く妥当な判断だと理解できる。 一方で、「こっちは、もう大人なんだから自己責任で やりたいようにやらせてくれ」という (自由の意味を理解した上で自由を謳歌したい) 学生たちの主張も (自分の記憶の中で美化されている古き良き昔の大学を体験できて 「昔は良かった」と思う確信と照らし合わせて) ほぼ手放しで同意できる。 これは、私にとって長らく答えの出せない課題だったが、 コロナでオンライン授業が一般化し、 このやり方をコロナ収束後もうまく学生の適性に応じて 利用できないものかと考えている。 上にもちょっと書いたが、 小テストとか、本人の作業を確認する必要のある授業では 週に何回かは出欠を取って学生が週に何回かは ちゃんと大学に来ているかどうかは確認するけど、 それ以外の講義的な部分の授業については、 オンデマンドのオンライン授業で受けることもできて (もちろん、大学に来て対面で受けることも出来て)、 大学に来なくてもいいとか、そういう方式が認められるなら、 昔の自由な大学の良さを保持しながら、 メンタルに不調を来した学生にもそれなりに早期に 対応できるのではないだろうか。 今、学生面談で、オンライン授業と対面授業とどちらがいいかという アンケートをしているのだが(まだ、集計前なので正確なデータではないが)、 3年生以上とか比較的高い学年では、 「オンライン授業でいい」という意見の方が今のところやや多い感じで (もちろん、「対面の方がいい」という人も一定数いるが)、 少なくともマスコミが演出しているように全ての学生がオンライン授業に うんざりして対面授業を切望しているというわけでもないような気がしてきた (まあ、入学してからほとんど対面授業を受けられていない1年生、2年生が 対面授業を希望する気持ちはよく理解できるし、 申し訳ないというか、ありがたいことだとすら思う)。 いずれ、コロナ収束後は、 コロナ流行期のオンライン授業で得られたノウハウを最大限に 活用し、 対面での出欠確認は週数回さえ行えば、 後は大学に来たくない学生はオンライン・オンデマンドで授業を 受けられるとか、 学生のメンタル面のチェックもしながら、 昔の自由な大学の良さも両立できるような新たな大学運用も 可能になったりしないだろうかと夢想している。

さて、昔の大学の様子については、いっぱいネタがあるので、またそのうち 補足するが、 今、大学はますます変わろうとしている。 一つのきっかけは、2004年の 国立大学法人化だ。 毎年、国から支給される運営費交付金が減らされ続けるなど、 法人化に関わる(大学にとっての)課題は多々あるのだが、 一つのポイントは、 2015年の学校教育法の改定により 教授会の権限を弱めて学長の権限を強め、 大学運営が学長のトップダウンで早く意思決定されるようにした ということだろう。 だから最近は、大学の各種の改革が、昔より早く頻繁に行われるようになってきた。 大学改革のわかりやすい典型的な例は、 既存の学部や学科の構成を変えて 新しい学部や学科を作る「改組」だ。 現在、日本では今後 大学を受験する子供の数が減っているので、 特に地方大学などは、 なんとか受験生を獲得して生き残ろうと、 必死になって、各種の改革をしようとしている。 例えば、今の受験生に響きそうな(と大学側が思い描いている)今どきの キーワード (SDGsとか、 Society5.0とか、 DXとか)を 含んだビジョン (例えば「DXにより飛躍的に変化する新時代のインフラネットワークの構築」とかその手の) を掲げ、 既存の学科やコースの中から、 そのビジョンに適合しそうな研究をしている研究室を (寄せ)集めて、新たな学科・コースを作ったりとか、 そういう話を想像してほしい。 コース名は、なるべくあり得なそうに、 DXインフラネットワークコースとでもしておこう。 例えば(と言っても、有り得そうな例を挙げると 色々と差し障りがあるので、なるべくあり得なそうなたとえを考えてみるが)、 DX(デジタルトランスフォーメーション)だから、 情報系コースの機械学習をやっている研究室と、 インフラだから土木系で構造シミュレーションをやっている 研究室と、 ネットワークだから医学系コースの脳神経外科の研究室とを 強引に寄せ集めて一つのコースを作ったとしよう。 それはそれで面白そうなコースだし、うまく広報して 受験生の興味を引くことに成功すれば、 もしかしてそれなりの受験生を獲得できるかもしれない。 しかし、改組というのは受験生を獲得できるだけではだめで、 ちゃんと学生たちを人材として育成して、獲得したスキルを活かせる分野に 就職させられるかというところまで見届けないと、 改組が成功したかどうかはわからない (もちろん、学生の就職の他にも、研究業績や地域貢献等、 他に大学に期待される一通りの役割においても成果を出せたかどうか ということもあるが、それはひとまずおいておく)。 つまり、改組の結果がわかるまでは、最低4年はかかるし、 大学院改組も含むのであれば、博士前期で6年、博士後期で9年もかかる。 ところが、改組をした当時の学長や大学執行部は、 改組の結果が出る頃には、もう変わっており、 改組当時の当事者が改組の結果について成功したのか失敗したのか「総括」を することもなければ、 総括の結果、当初 盛んに喧伝した成果が得られていないからといって 責任を追求されたりもしない。 こういうシステムは、どうなんだろう。

件のDXインフラネットワークコースを卒業した学生は、 機械学習と構造解析と脳神経の知識やスキル?を持っている 人材なのだが、一体、どういう分野に就職できるのだろうか。 構造力学の知識はあるので、 公務員試験の土木職を受けようと思っても、 水理学や土質工学はやってないから、受からない。 もちろん、医師国家試験も受からない。 なんとも中途半端だ。 仮に 構造設計をやっている建設コンサルタントに就職することができたとして、 技術士の国家資格が必要になっても、 DXインフラネットワークコースみたいなJABEEにない分野では、 JABEE認定を取れないから、技術士の1次試験から受けなければならない。 水理学や土質工学はやってないから、 建設部門より情報工学部門の方が受けやすいか?  いずれ、苦労するだろう (JABEE認定を受けている旧来の土木系学科の卒業生であれば、 1次試験は免除なのに)。

ちなみに、土木というのは、 構造、水理、地盤、計画、コンクリート、環境といった 多岐に渡る分野が、 人々の暮らしを守る社会基盤の整備といった共通の目的・ビジョンの もとに連携した歴史ある完成されたシステムであり、 土木学会にも、 I分野(構造)、II分野(水理)、III分野(地盤)、 IV分野(計画)、V分野(コンクリート)、 VII分野(環境・エネルギー)といったお決まりの分野があるし、 各県庁や市町村役場等の建設部や土木部の組織構成も、 建設課、河川課、都市計画課など、土木の典型的な分野と整合するようになっている。 異分野融合だのクロスオーバーといったキーワードが叫ばれるようになる 何十年も前から、土木というのは、 (構造や水理、計画といった複数の専門分野の連携という意味でも、 行政、民間企業、大学研究機関の連携という意味でも) 極めて整合的に異分野融合に成功した古典的システムなのではないかと思う。 蛇足ついでにもうちょっと。「土木なんて古い、これからの時代はデータサイエンスだ」なんて 言い出す偉い立場の人もいるが、そういう人たちが必修化しようとしている データサイエンス科目の中身は、重回帰分析とか多変量解析といった統計学のことだったりする。 あのー、 そんな基本的な統計学は、土木では何十年も前から必修科目として やっているんだけど。必要だから。 だから、公務員試験の土木職を受けようとすれば、 構造、水理、地盤、計画といった科目を一通り習得していなければならない。 民間の建設コンサル等でも、 構造系や水理系や地盤系や計画系の複数の部門のあるところが多いし、 ゼネコンだって、地盤に橋脚を設置するのに構造の知識はあるけど、 土質の知識はないということでは困る。 そういうふうに、各大学の土木系のコースというのは、 社会で要求される人材のニーズと 大学で養成する人材とが高い相関で一致していてるコースだと 言えるのではないかと思う。 その意味では、医学部とか歯学部というのとも似ているかもしれない。 医学とDXが融合した新たなコースで 循環器と消化器とDX関係のことを学んで、 呼吸器はやらないとか、そういうコースは仮に作ったとしても、 卒業した学生は医師国家試験を受けられず就職に困る。 土木も基本的にそういうコースなのだ。 もちろん、こういうコースの伝統的教育カリキュラムと社会的ニーズとの対応・整合は、 機械とか電気とかその他の分野においてもそれなりには あるはずだと私は捉えている。

最近の大学改革の波の中で、 全国の地方大学の中には、 工学系学部の状況や ましてや 上述した土木系学科・コースの最低限の例に代表される ような各分野それぞれの(社会的ニーズに対応した教育カリキュラムの)状況なんてまるでわかっていない 学長や執行部の推し進める新学科・コースの設置が、 やはりそういう事情をよく把握していない 文科省に認可されてしまって、 件のDXインフラネットワークコースみたいな社会的ニーズとまるで 整合しない不可思議なコースが登場し始めるのではないかと 心配している。 2014年に工学資源学部から改組して理工学部を設置したばかりの 秋田大学は大丈夫だろうか。 ハラハラしている2021年現在の今日この頃である。

こうした昨今の特に地方大学における改革ラッシュの構造は、 プロダクトマネージャーと呼ばれる人々によって、 現状うまく動作しているアプリがアップデートの度に 使いにくくなっていく構造 とよく似ているような気がする。

戦争反対か侵略反対か (2022/4/1)

私は平和反戦主義者だ(少なくとも中学の頃から)。 ただ、今回のロシア政府によるウクライナへの一方的な侵略行為に対して「戦争反対」と言ってしまうと、戦争に参加している双方への非難とも受け取れてしまうので(もちろん、そういう意図での「戦争反対」もあり得るが)、ロシア政府やプーチン側が一方的に悪いことを非難するのであれば、侵略反対とかテロ反対とか独裁反対とか、そういう言葉の選択の方が適切なように思う。

私はとても純朴な人間なので、文明国の元首が、自国を武力で攻撃してすらいない他国にいきなり武力行使(私の捉え方では「人殺し」でしかないが)をする決断・命令をしたとしたら、もうその時点でこの元首は犯罪者なので、周囲の人が通報して拘束されるような体制になっていないことが、そもそもの問題だと思ってしまう。

人類の長い歴史の中で、 ようやくここ100年ぐらいの間に、 民主化する国家が増えてきている一方で、 まだまだ独裁主義的・専制主義的な国家がなくなっておらず、 その中にはロシアのように核兵器を含めた強大な軍事力を行使できてしまい、 更には国連の常任理事国になっているような国もある。 その状態がなくならない限り、 侵略戦争という大虐殺のリスクはいつまでもなくならない。

私は子供の頃から、いい大人が話し合いができずに暴力をふるう(それどころか人殺しをする)っていうのは、ただのバカじゃないの? っていう素朴な疑問を抱き続けている。 もちろん、 今にも人に殺されそうな状況で話し合いによる説得も無理という場合は話は違う。 例えば人に殺されそうになったときに、 まずは相手を対話で説得しようとしたけども、 全く理性的な対話ができない相手なので、 やむなく殺しても正当防衛になるというのは理解できるし、 あるいは市民が理性的な対話のできない相手に殺されそうになっているときに、 市民を守るために人を殺せる(あるいは殺さずに瞬時に無力化できる) 武器を携行した警察が必要だという話も理解できる。

しかし、戦争というのは、理性的な対話のできる人どうしが、 殺し合いをしているのである。 そこに私は大きな違和感を覚える。 兵士の一人一人は理性的に命令に従っている普通に対話のできる理性的な人間だ。 外交による理性的な対話のできない国家元首が 大量虐殺の命令をすると、 せっかく理性的に対話のできる (その一点において国家元首よりは遥かにまともで有益な人材である)多くの兵士たちが それに従って人殺しを始めるというのは、 なんとももったいなく(東北弁ではもったいなくて惜しいことを「いだましい」というが)痛ましい最悪のシステムだと思ってしまう。

なんか知らないけど、 大ロシア帝国復活とか その手のファンタジーに囚われた幼稚な国家元首(やその側近)のせいで、 そんな幼稚なファンタジーを共有していない理性的な兵士であっても、 人殺しに動員されてしまう。 なんとももどかしい。 民主的な国家で教育を受けた兵士であっても、今回のウクライナ侵略のような命令を受けたら、民間人を殺すことができるのだろうか。 報道によると、今回のロシア兵の中には民間人が逃げるのを助けようとする兵士がいたり、 攻撃がいやで戦車を燃料切れになるまで無駄に走行させている兵士がいたり、 (ウクライナ軍から携帯電話に送られたメッセージで投降の方法を確認した上で) 投降する兵士がいたり、 ロシア程度に専政主義的な国家のプロパガンダで教育されてきた兵士の中にも、 その程度には自分なりの理性で考えて命令に逆らう人間もいるらしいということに、 純朴な私はほんのかすかな希望を抱く。

いったい兵士は、武力行使をしなければならなくなった有事の内容が、 どれくらい現実的に有り得ない話で、 実行しなけければならない任務の内容がどれくらい残虐なものだったら、 自分の理性に従って命令に逆らうようになるのだろうか。 例えば、隣国がゾンビに占拠されたから、隣国のゾンビが 我国に潜入する前に、隣国に侵入してゾンビ退治しなければならないのだ と言われたら、信じるのだろうか。 しかも隣国のゾンビが人間を襲っている動画などの証拠は一切ないのだ。 更に、このゾンビは民間人に擬態しているので、 民間人に見える人々は、実はゾンビなので殺せと言われたら、 信じるだろうか。 更に、ゾンビを確実に絶命させるためには、2つの目玉をくり抜かなければならない と言われたら、その命令に従うのだろうか。

私からすると、 「ウクライナのネオナチがロシア系住民を大量虐殺している」といった プロパガンダのあり得なさにせよ、 子供たちが避難している劇場や 小児病院を爆撃したりする残虐性にせよ、 上のゾンビの例と五十歩百歩としか思えない。 そういうこともあってか、 一部のロシア兵は住民を助けたり投降したりしているのだろうけど、 それでも 大部分のロシア兵は命令に従っているわけで、 大勢の人々が殺され続けている。

今回、ウクライナはロシアに反撃せずに降伏してしまった方が、 被害者は少なくて済んだのではというようなことを言う人も いる。 短期的にはそうかもしれない。 しかしそれは、専制主義的な国家が武力で民主的な国家を制圧して領土を 拡大していくことを国際的に追認してしまうことにもなる。 これは長期的には、侵略戦争や粛清による大虐殺のポテンシャルを 高めることになると私は考える。

それに一方的に侵略されている側の「降伏」というのは、 例えば、今 正に殺されそうになっている人が、 「なんでも言うことを聞くから殺さないでくれ」と 命乞いしているようなものではないかと思う。 ひとまず今すぐに殺されることはなくなったとしても、 その代わりに自由を奪われた上で何をされるかはわかったものではない。 その意味では、今回のロシアによるウクライナ侵略では、 双方の代表団による「停戦交渉」も行われているのだが、 私には侵略行為を続けながらの「交渉」というのが 何とも不可思議に思えてしまう。 理性的な対話による交渉ができるのであれば、交渉だけをすればいいのであって、 なぜ武力攻撃を続けているのか。 たとえるなら、 レイプ犯が被害者に刃物を突きつけて (しかも、刃物で傷つけながら) 「合意の上です」と言えと脅しているようなものではないのか。 それで刃物で脅された被害者が「合意の上です」と言わされたとして、 こんなの「合意」であるわけがない。 仮に現在 行われている「停戦交渉」でなんらかの「合意」が成立し、 南部クリミアやウクライナ東部がロシアの領土ということになったとしても、 そんなのは「刃物で脅された合意」でしかないと思ってしまう。

今回、避難しているウクライナの人たちの声の中に、 「2022年の文明国でこんなことが起きるなんて信じられない」というのが いくつかあった。 まったくだ。 純朴な私が子供の頃から「バカみたい」と思っていたようなことが起こっていて、 それに巻き込まれた大勢の人が殺されている。 ほんとにどうにかしてほしい。

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「戦争とはそういうもの」だろうか? (2022/4/10)

民間人が逃げるのを助けようとするロシア兵もいるところに ほんのかすかな希望を抱いていた私は、 なかなか純朴で甘すぎたようだ。 ロシア軍が撤退したブチャでは、 ロシア兵による民間人の虐殺が行われ、 性的虐待や残虐な拷問も行われていたことが明らかになった。

戦争では兵士による民間人への残虐な虐待(性的なものも含む)を伴う虐殺が 生じやすく、 かつての日本軍だって、 南京事件とかでは 民間人への残虐な虐待(性的なものも含む)を伴う虐殺を行っている。 「戦争とはそういうものだ」とか、 「あなただってわたしだって戦争になれば、 そういうふうになり得る」 とか言う人もいるが、私はちょっと違うような気がしている。 まあ、これも甘いかもしれないが。 例えば、現在の平和な日本の民主社会で生まれ育ち、 人権を尊重する現在の教育を受けた平均的日本人が、 南京事件の虐殺現場のような状況に兵士としておかれたら、 つまり、周りの兵士たちが民間人を如何に残虐に苦しめながら殺したかとか、 何人殺したかを自慢し合っているような「ノリ」の中におかれたら、 その雰囲気的強制力に飲まれて、同調圧力により自分も同じような 虐殺をしたりするだろうか。 まあ、それはその人が自分の頭で感じ、自分の頭で考えられるかどうかという ことではあるが、それには、その人が どのような社会文化の中でどのような教育を受けてきたかということが 大きく影響するのではないかと私は見積もっている。

例えば日本では、戦後の50年ぐらいの間に、殺人件数やレイプ件数が ものすごく減っている (客観的なデータについては 少年犯罪データベースが 参考になる)。 これはある意味、それだけ日本社会が殺人やレイプを許容しない社会へと 成長してきたとも言えるのではないかと私は捉えている。 今、犬や猫を虐待して殺したりしたら、 その人は、明らかに「おかしい人」と捉えられると思うが、 戦前とか(あるいは戦後間もない頃とかの)昔は、 犬とか猫をなぶり殺しにすることが、武勇伝的に捉えられていた時代もある といったことをどこかのサイトで読んだことがあるが、 検索できなくなってしまった (ソースがはっきりしない情報だが、 個人的には如何にもありそうな話だとは思う。 私の友人が話してくれた父親のことだったかもしれない)。 現在の日本社会では、楽しみながら人を殺す人は明らかに「おかしい人」と 捉えられると思うが、 例えば一方で、現在の日本でも「痴漢」はなくなっていない。 ドイツとか、痴漢のいない国もあるのに。 まあ、つい数十年前まで、会社で部下のお尻を触ったりすることが、 「潤滑油」として許容されていた時代もあったことを思えば、 こうした職場での痴漢はなくなったという意味で、 一定の社会的教育の成果は認められるものの、 まだ満員電車での痴漢がなくなるまでにはなっていない。

そういう意味で、現在の平均的日本人が兵士として戦地の虐殺現場におかれたとして、 同調圧力から 民間人への残虐な虐待(性的なものも含む)を伴う虐殺をするようには ならないと言い切れるか、ちょっとわからない。 でも、少なくとも社会的な教育というのは犯罪を減らす上で極めて重要だと 私は考えている。 国家元首や政府が大々的に見え透いた嘘をつき、国民を騙すことを何とも思わないような 国で、人権の尊重や言論の自由についての社会的な教育が浸透することには、 なかなか期待が持てない。 なんか知らないけど、5月9日の戦勝記念日に勝利宣言をしたいとか、 そんなしょうもない子供っぽいメンツや虚勢のために、 平気で多くの民間人を殺していながら、涼しい顔をして 民間人は殺していないと平気でうそぶくことができる、 そんな国家元首の支持率は80%なんだとか。うーん。 絶望的だ。でも、 そんな絶望的な国でも、 一部の国民は自分で情報を収集し、自分の頭で判断し、 逮捕される危険を承知しながら、お札にメッセージを書くといった 「静かなデモ」などの反戦運動をしている。 それは、ほんとうにかすかな、かすかな期待だ。

目次

元首や政府が犯罪を犯し放題の国家と犯罪を犯しにくい国家 (2022/4/20)

ロシアによるウクライナの侵略で見られる 国家の社会システム上の問題と私が感じることを、私の捉え方で整理してみた。 あまりに純朴すぎる捉え方かもしれないが。

元首や政府が犯罪を犯し放題の国家(独裁主義国家、専制主義国家等)

  1. 元首や政府を批判できる言論の自由が憲法で保証されていない。
  2. 元首や政府は、国民が元首や政府を批判することを 犯罪として取り締まることができる。
  3. つまり、元首や政府自体は、犯罪を犯しても、 それを指摘する国民を犯罪者として取り締まることができる。
  4. よって、元首や政府は、嘘をついたり、人を殺したりといった 犯罪をやり放題である。
  5. その結果、元首は 「隣国にいる自国系住民がネオナチによって大量虐殺されている」 といった嘘を国民に信じさせることもできてしまい、 その嘘を信じた兵士に、 (または嘘だとわかってはいても命令に逆らって犯罪者とされることを恐れる兵士に) 隣国の住民を大量虐殺させることもできてしまう。

元首や政府が犯罪を犯しにくい国家(民主主義国家等)

  1. 元首や政府を批判できる言論の自由が憲法で保証されている。
  2. 元首や政府は、国民が元首や政府を批判することを 取り締まることができない(それをすれば、憲法違反となる)。
  3. もし、元首や政府が犯罪を犯せば、 国民はそれを告発して、犯罪として立件することができる。
  4. よって、元首や政府は、簡単にバレるような嘘はつけないし、 簡単に証拠が見つかってしまう犯罪は なかなか犯せない。
  5. もし元首が 「隣国にいる自国系住民がネオナチによって大量虐殺されている」 みたいに簡単に反証される嘘をついたら偽証罪に問われる。 仮に元首が兵士に隣国の住民を大量虐殺する命令を下したとしても、 それ自体が国内法で犯罪になるかもしれないし、 兵士たちは自分たちが国内法や国際法で犯罪者になる可能性があるので、 命令に逆らうかもしれない。




ネタメモ



なぜ「標準語」ではなく「共通語」と書くかについては、またそのうち書くことにする。

子供の頃の一人称、ぼぐ→おい

私はなるべく石巻弁によって書かれた文章を残していきたいと
思っている(また今度のネタ)。

「いずい」は「違和感を覚える」というような意味の東北弁だが、

とはいえ、秋田で生まれ育ったうちの子供たちも東北弁(宮城弁にせよ秋田弁にせよ)を
話さないし、なんとも言えない(これもまたそのうち)。

(日本語のカタカナはどうでもいいとは思っているが、
ladiesをローマ字でもなく、レディースと表記する不可思議については、また
今度のネタにする)

	(ついでに、私はズボンのことを「パンツ」というのに反対?だが、
	これについてはまた今度)

幼稚園や病院で、小さい子に「〇〇くん、あ、〇〇ちゃん」

日本語に人称代名詞はない。絶対人称
「かあちゃんがとうちゃんを呼んだ」
は、子供が言っても、かあちゃんが言っても、とうちゃんが言っても、
同じ意味で同じ表現を使える。
一方、英語では、誰が言うかによって、相対的な人称を(更には性や単数・複数をも)
瞬時に判断し、適切な代名詞を選んではめ込まなければならない。
She called him. I called him. She called me.
このSheやhimにしたって、その本人に対して言うときは、Youやyouにしなければならない。

ネクタイが男という性別に固定された正装という時点で、性差別反対の私はその服装を支持できないのだが、それはまた今度のネタとして、


最近 使われだした「ジェンダー平等」という言葉は、意味を考えるとおかしくないだろうか?

日本人が、genderの意味をわからずに、sexの代わりの婉曲表現として
使いだしたのかと思ったら、英語でもgender equality が
sexual equalityの代わりのように使われているようだ
Wikipedia
英語でも 
欧米では一般でもジェンダー(gender)は、性(sex)と同義の言葉として婉曲的に用いられるようになった
ということのようだ。
それはいいことではない。
こういう言葉の使い方を続けていると、
ジェンダーを「社会的につくられた性(らしさ)」の意味で使う人と、
sex(生物学的性)の婉曲表現として使う人との間で混乱が生じる。


性的平等とか性の平等だったら生物学的性によらない平等ということで理解できるし支持できるが、
ジェンダー平等なんて言ってしまったら、
生物的性に関係なく自分は男ジェンダーだと思い込んでいる人や自分は女ジェンダーだと思い込んでいる人たちの間の平等という意味に限定されるように感じてしまう。
ジェンダーというのは、そもそも社会的につくられた「女らしさ」だの「男らしさ」
だのに過ぎないから、
そんなものは思い込みだとしか思っていない私みたいな人間からすると、
そもそも自分にジェンダーがあるなんて思っていないし、
将来的にはジェンダーが消滅することが理想だ。

自分の生物的性がどうかということにかかわらず、
例えば髪を伸ばしたい人は伸ばせばいいし、
リーダーシップをとりたい人はリーダーシップをとればいいし、
他人にやさしく接したい人は、やさしく接すればいいし、
女の人に魅力を感じる人は女の人に魅力を感じればいいし、
男の人に魅力を感じる人は男の人に魅力を感じればいいし、
そんな個人が好きなように選べばいい「自分らしさ」を
無理やり「女らしさ」だの「男らしさ」のどちらかに類別して
納得しようとしなくたっていいのではないだろうか。

そうすれば、わざわざLGBTみたいな新たな区別を設ける必要もなくなる。
もちろん、女だの男だのの区別も日常では必要なくなる。

誰でも、自分が着てみたいと思った服を買えばいいだけの話だし、
それをいちいち婦人服だの紳士服と区別して売る必要もない。



そうすると将来的には、公衆トイレだの公衆浴場はどうするのかという話に
なるが、
スウェーデンとか、北欧では、公衆トイレは個室タイプで男女共用が普通ではなかったか。
(要調査)
公衆浴場は水着前提で混浴という方向もある。
まあ、この辺は文化とのかねあいもある。
というか、文化自体が変われば話は早いのだが。


	男子校なんで、看板絵にかこつけて、裸の女の人の絵を描いたりして
	いたわけだが、これは典型的なジェンダーの問題で、
	「裸婦像」ということにすれば、
	それが芸術として裸の女の人を描く
	大義名分として受け入れられるという不可思議な通念を
	当時の私自身も利用していたということだ。
	これはまた今度のネタ。



男女別学というのは、ジェンダーの問題以前に普通に差別なので、
この問題も大きなネタにはなるが、それはまた今度)、



私が大学に受かった途端
(これも、当初は当然 落ちると思っていたから、
色々とネタがあるのだが)、


	ポジ感光基盤をエッチングしたりとか、そういうのも、
	失敗を繰り返しながら、ノウハウを体得していったが、
	その辺は、また今度のネタということで。

	当時は、スマホで誰でも簡単に動画を撮れるわけではないから、
	まず、
	家庭にビデオカメラがあって、それを
	貸してもらえる友達を見つけるところから話が始まる。
	これも今度のネタ。


(まあ、また今度のネタにするが、子供と一緒にピアノの連弾が
できるようになったら楽しいだろうなとか、
この手の夢は色々と抱いたが、子供を自分の趣味に誘導しようという
試みは、そのオーラを見透かされてしまうためか、
ほぼ全て実現しなかった)。


また、いずれネタにするが、
世の中の文化・風習・マナーには、
不合理なものや差別的なものもたくさんある。
なぜそういう風習に従うのかを自分の頭で考えずに、
「ただ多数派に合わせる人」が多数派である限り、
どんなに不合理で差別的な風習だろうと、
いつまでも温存され続ける。

まあ、家制度関連の話は、また改めてネタにするかもしれないが、

「しゃべることがないので一気します」みたいなことをしようとする学生が
いた場合も、教員はそれをやめさせなければならない。

日常の会話の中で、他人の外見をけなすなんていうのは、
もはやあり得ないレベルの非常識なことなのに、
テレビではそれが未だに許容され、
お笑いのお決まりのネタの一つにしていいことになっている




ドラえもんから他人をコントロールできる道具を出してもらって、
しずかちゃんとかをコントロールしようとする のび太は、
なかなかストーカーの発想そのもので怖い。


私の父親も夜中に酔っ払いを連れてきて、
私はさんざんいやな思いをさせられたので(このネタもまたいつか)、

大学4年の頃、父は60才ぐらいで、そこからさきも、
それなりに長い期間、私は父と一緒に酒を飲む機会を持つことができた。
これについてはまた今度。

一方、大学のコンパとかでは、普通に酒を飲んでいた
(これも一気飲みとか、重要なネタがいくつかある)。


今だったらあり得ないというか、
発覚したら大問題になるが、
新入生の歓迎コンパで、
教員と新入生が一緒に酒を飲んだりした。



実際、私はその後の大学院生時代とか、
あまり安全ではない酒の飲み方をしていたなあと思う
(これもまた改めてネタにするかも)。


	あ、お酌されるのより、もっといやなものがあった。
	「返杯」だ。あんなことをしたら、確実にコロナに感染する。
	これもまたそのうち。


ありそうだ(よく、テレビで、吹奏楽その他の部活が
大会に出場するまでを取材する番組があるが、
いまだに体育会系のノリ「おまえら、やる気あんのか」的なのが
罷り通っていたりして、不愉快な気分になることもある。
が、これもまた今度のネタ)。

授業でのスマホ可

私や姉は、小さい頃から、しょっちゅう石高の先生たちの
スキー旅行に同行したのし(これもまた今度のネタ)、

私は「後藤先生」の子供であったので、石高では、
あまりハメを外したり馬鹿なことはやりにくかったが、
それでも、だいぶ自由に色んなことをやれて楽しかったとは思う
(具体例はまたそのうち)。

石高に関するネタは、他にもいっぱいある。


昔の大学の様子については、いっぱいネタがあるので、またそのうち
補足するが、