(後藤資料) (後藤リンク) (情報処理の技法) (ディベート) (良いプレゼンと悪いプレゼン) (日本語表現法) (Linux) (基礎工)
お知らせ

「正しい」ってどういうこと? 

 この文章は、だいぶ前に東北大の学生実験を担当していた時に 感じたことを書いたものですが、今、読み返すと、 書き直した方がいいと感じる部分もあるので、 ときどき加筆修正しています。 が、取り敢えず、

目次


1.「正しい」「間違っている」とは?
演繹と帰納、客観性・再現性

(1)科学的命題・推論

 日常生活で使われる「正しい」とか「間違っている」という言葉には、 様々な意味が含まれていますが、 科学文献においては通常、価値観に依存しない命題 *1) または推論 *2)の真偽*3について「正しい」とか 「間違っている」という判断を します*4)

*1 「昨日は仙台で雨が降った」とか 「三角形の内角の和は180°である」のように、 価値観に依存しないで真偽を判断できる命題のことをここでは 科学的命題と呼ぶ。一方、 「バッハの音楽は美しい」とか 「紅茶はコーヒーよりも美味しい」のように、 真偽の判断が価値観に依存する命題のことを ここでは価値的命題と呼ぶ。 ここでは、科学的命題しか取り扱わないので、 以後、「命題」とだけ書けば科学的命題を意味するものとする (科学的命題と価値的命題の分類については、 安齋育郎 『科学と非科学の間』 ( かもがわ出版ちくま文庫)に分かりやすく解説されている)。

*2 「人は動物である。動物は生物である。故に人は生物である」のように、 仮定となる幾つかの命題から結論となる命題を導き出す手続きのことを推論と言う。 「人は動物である。全ての動物は卵を生む。故に人は卵を生む」のように仮定が 間違っていても仮定から結論を導く論理に間違いがなければ、推論自体は正しい ということになる。 「人も犬も動物である。犬は卵を生まない。故に人は卵を生まない」のように結論が 正しくても、仮定から推論を導く論理が間違っていれば、 推論自体は間違っているということになる (この辺の命題や推論の真偽の判断の話については、 佐倉 哲さん 「真理と論理、および真理の根拠(1)」が参考になる)。

*3  価値観に依存しない命題または推論の「真偽」を判断すること自体にも、 厳密に掘り下げるなら、色々と難しい問題があるということについては、 伊勢田 哲治『疑似科学と科学の哲学』(名古屋大学出版会) が体系的にまとめていてとても参考になる。

*4  上述したような客観的命題の真偽のことでも推論の真偽のことでもなく、 単に 「誰か(権威のある団体とか)が決めた定義や規則にあてはまる」 ことを「正しい」とか「あてはまらない」ことを「間違い」 と表現されることが多々ある。 例えば、「『見れる』は『ら抜き言葉』だから『間違いだ』」とか、 「『みずうみ』の漢字は『湖』が『正しく』、 『水海』は『間違いだ』」とかの類いである (国語や英語 関係のネタで頻出する「正しい」とか「間違い」とかの表現は要注意である)。 東京山手方言などの「ら有り言葉」の枠内で文法解釈しようとすれば、 「ら抜き」言葉が、さも文法ミスであるかのように捉えられるかも知れないが、 (別に「ら」を抜いた訳ではなく、最初から「ら」が入っていない) 「ら無し言葉」を使う多くの方言においては、 「ら抜き言葉」の方がむしろ 文法的に「正しく」、「ら入れ言葉」の方が 文法的に「間違っている」という主張も成り立つ。 それに、仮に「ら抜き言葉」が当初は、東京地方の若者の文法ミスが 発端だったとしても、現行の東京若者言葉の文法の中には、 「ら無し文法」もとっくに組み入れられているから、もはや 東京の若者にとってすら 文法ミスではない (近い将来、アナウンサーの方こそが「ら無し」を採用することになるだろう)。 「みずうみ」にしても、日本語の語源に対応させて漢字を当てるなら、 既に「みず」に対して当てられている「水」と 既に「うみ」に対して当てられている「海」とを 組み合わせて「水海」と造語すること自体は、 間違いとは言い難いし、そのように漢字を組み合わせて造語を することを日本語は特に禁止してもいない。 一方、 「湖」は、 日本語の語源との対応なんて考えずに、 単に「みずうみ」を意味する中国語の文字である「湖」を安直に 当てただけである。 つまり、誰かが決めた定義(や規則)に合うかどうかを議論する場合には、 「正しい」とか「間違い」とかいう表現ではなく、 「どの定義(や規則)に合う」とか 「どの定義(や規則)に合わない」という表現を 使った方が不毛な議論や不要な反感を招かずに済む。

 「正しい敬語表現」の類いも注意を要する。 そもそも、相手の身分や性別を識別して動詞の種類や接辞を区別しなければ ならないような文法は、単にそういう身分差別や性差別を要求している(た)社会の 反映であろう(と私は解釈する)。 社会の身分差別や性差別はなくなる方向へと向かっていっても、 いったん文法に組み込まれてしまった身分区別や性区別の構造はなかなか 簡単には取り除けない根深さを持っている。そういう時期において、 「「ハンバーガーでよろしかったでしょうか」は文法的に間違い」だの 「「ヒロミ、ヒロミ、ぼくのヒーロー」というNHKのみんなのうたは、 ヒロミが女だから間違い」だのと 喜々としてにわか教条主義やにわか文法原理主義を振りかざす輩は 単に、自分たちが心地よさを感じる古き良き身分差別や性差別を 温存したい気持ちを、文法やら何やらで正当化できると勘違いしている かのように私の目には映る。

おまけ:新入生ガイダンスの際に配布された『日本語表現法』というテキストは、 「『正しい日本語』なるものにとらわれる必要はない」という私の主張とは 割と正反対の内容(「硬い文体」や「敬語」を身につけましょう)がまとめられていると思う。 このテキストに対する私の意見を ここに書いてみた。

(2)「正しさ」の論理的判断と実証的判断
演繹と帰納

 命題の真偽は、論理だけで判断できるものもあれば、 事実と照らし合わせて判断する必要のあるものもあります。 例えば、「仙台の明日の天気は雨が降るか降らないかのどちからである」とか 「仙台市が宮城県内にあり、宮城県が日本国内にあるならば、 仙台市は日本国内にはない」のような命題なら 論理だけで真偽を判断することができますが、 「三年前の今日、仙台では雨が降った」とか 「この百円玉の質量は10g以下である」のような命題は、 観測や実験などによって事実と照らし合わせなければ真偽を判断することは できません(各命題の真偽は各自で判断して下さい)。

 私たちが大学まで学んできた数学の諸定理は、 概ね仮定や定義から演繹的に導かれていると考えていいでしょう。 例えば、ピタゴラスの定理や テイラーの定理は、 実験することなく論理だけで演繹的に証明される類いのものだと思います。 一方、私たちが大学まで学んできた数学以外の 科学(物理、化学、生物、地学など)の諸法則は、 自然を対象とする以上、 実験や観測ぬきには真偽を判断できないものが多いでしょう。 例えば、エネルギー保存則や ニュートンの運動の法則は、 演繹的な思考のみによって証明されたものではなく、 再三に渡る実験と観測の積み重ねによって帰納的に実証されたものなのです *4 (こうした科学の演繹的な面と帰納的な面については、 菊池誠さん「科学と科学のようなもの」の解説が、私の解説なんかより、 ずっと的確で分かりやすくお薦めです。というか、 私のは、それの受け売り)。

*4 風水や動物占いなど種々の オカルト信仰の基礎となっている陰陽五行説や西洋占星術では、 「実証」という手続きが欠落してるので、いくら数千年の歴史を持っていようとも、理論内部の間違いはなかなか修正されない。 だから、陰陽五行説や西洋占星術は、自然現象を説明したり予測したりすることには 失敗したと言っていいだろう (尤も、「明確な説明や予測をしない」理論は、「何とでも言い逃れができる」ので、 各種の詐欺商法(詐欺医療・詐欺宗教など)では大いに重宝されているようだが)。

(3)再現性

 学生実験というのは、そのような実証済みの法則の正しさを実験で確認してみることを一つの目的としており、言わば先人たちの行った「仮説の検証」の疑似体験をしてもらう訳ですが、 如何せん、実験精度は悪いし、 理論通りの理想的なモデルを再現している訳でもないから、 当然、実験値は理論値と喰い違う訳です。 そうすると、レポートで「この理論は間違っている」のような考察をする人が 現れたりするのです。

 勿論、既存の理論が間違っている可能性も零ではありません。 しかし、先人たちの再三に渡る実験の積み重ねによって既に再現性の点からも 実証されている理論をくつがえすには、 学生実験などという限られた条件下でのたかだか一回限りの実験では あまりに不十分です。 科学界にはタブーはないので、既存の理論をくつがえすような奇抜な理論を 提唱すること自体は自由ですが、 世界中の研究者の追試に耐えるだけの再現性が示されなければ、 その理論は実証されたことにはなりません (例えば1989年、 ユタ大学のある研究者が 常温核融合に 成功したと発表したために一時期 騒ぎになったが、 その後、世界中の研究者の追試によって常温核融合は起きていないことが確認された。 ましてや、 検証すら抜きに 「相対性理論は 間違っていた」 などと主張するトンデモ本に至っては論外である*5)。

*5 より身近な例を挙げるなら、クロレラやらプロポリスやらの 健康食品にせよ、 カイロプクティックやら 鍼灸やらの 代替医療 /民間療法にせよ、 「ナントカ医学博士の研究により○○が××に効くことが証明された!」などという週刊誌の宣伝記事程度で「科学的に実証された」なんてことは、とても言えない ……せめて査読審査つきのマトモな科学雑誌に論文として掲載され、 他の研究者たちの追試によって再現性が確認されている ぐらいじゃないと、 科学的信頼性は著しく低いだろう (みなさんの中には、いずれ 卒論の研究を卒論発表の他に 学会でも発表させられたりする 機会を持つ人もいると思うけど、 自分のやった研究の内容が「科学的に正しい」 なんて確信を持って断言できますかって。 学会ってのは、最近やってみた研究の概要を 取り敢えず発表するとこ。 トンデモな 研究でも査読なしで発表できてしまうんです。 「○○が××に効くことが科学的に証明された!」ってな報道の信頼性は 慎重に判断しよう)。 ちなみに、このように 「研究成果を公開して批判にさらしながら自己修正する」 というシステムを(ある意味、科学研究以上に)積極的に取り入れたために うまい具合に発展したものとして、 GNU/Linuxに代表される フリーソフトやオープンソースの運動も 参考になるかも知れない。

 オッカムの剃刀*6)を使うならば、 実験値が理論値と喰い違った場合、過去の先人たちの再三に渡る実験の全てが間違っていたと考えるよりは、学生実験における目盛りの読み誤りとか、理論が適用できるモデルになっていないのではないかなどをまず疑ってみるべきではないだろうか。

*6 「観測された事実を説明できる複数の理論があったら、 より簡潔な方の理論を使うべきである」という原則。 例えば、「化石は過去に地球上に存在した生物の遺骸である」という考えと 「化石は、神が人の信仰心を試すために、 さも『過去に地球上に存在した生物の遺骸である』かのように創造して地中に こっそり埋めておいたのだ」という考えとに オッカムの剃刀を適用したら、どうなるだろう (少なくとも進化論には膨大な科学的な証拠があるのです知性が生物を設計したとは思えない傍証 も多々あるし。 「価値観の相対性」に矮小化できる問題ではない)。

2.「正しい値」「真値」ってなんのこと?

 前章で 「科学文献に現れる『正しい』という表現は、命題や推論が真であることを意味する」と述べましたが、 一方で学生さんのレポートを見ていると、 「プロットは直線分布になったので、この値は正しい」とか、 「Southwell法で求めた座屈荷重が最も真値に近い」などという表現が 頻繁に現れます。 さて、「値が正しい」とは一体どういうことでしょう?  初等教育における数学や物理の計算問題においては、 例えば公式を間違えて覚えていたり、 計算過程を間違えたために「間違った答え」を得ることがあります。 しかし、それは答えた「数値」自体が「間違っている」のではなくて、 命題(間違えた公式)や推論(間違えた計算過程)が「間違っている」と 言った方が正確でしょう。 つまり、初等教育における数学や物理の計算問題における「正答」というのは、 答えの「数値」自体が「正しい」というよりは、 命題(適用した公式や法則)や推論(計算過程)が「正しい」ということなの だと思います。 では、学生実験のレポートに頻出する「正しい値」というのは、 いったい何を意味しているのでしょう?  私なりに「善意」の解釈をして大きく分類すると、 どうも次のようなものを思い描いているのではないかと思われます。

  1)測定誤差を含まない測定値
  2)材料定数や寸法などの「測定値」を座屈公式などに代入して得た「理論値」
  3)ばらつきのある測定値を回帰分析して得た係数など

1)について:測定誤差には大きく分けると 系統誤差と偶然誤差があり、 系統誤差には 器械的誤差、物理的誤差、個人誤差 などがあります。 これらの中には原因さえ分かれば取り除いたり補正したりできるものもありますが、 取り除きようのない誤差もあります。 例えば「箱の中のミカンの数」とかであれば、 数え方を間違いさえしなければ「誤差を含まない測定値」が存在し得るでしょう。 しかし、例えば(大雑把に言うと)凸凹もゆがみも温度変化もある現実の物体の 断面を「長方形」と「仮定」して「幅」や「厚さ」などを測定しようとする場合、 「幅」や「厚さ」が凸凹やゆがみや温度変化にかかわらず唯一に定まるような 定義がなされていない限り、 「仮定」と現実との喰い違いに伴う誤差はなくしようがありません (「真値=測定値−誤差」というモデル化の話については下の「3)について」)。

2)について:材料定数や寸法自体にも当然「測定誤差」はあるから、 それらから導出された値を「正しい」と言われても意味不明です。 先人たちが座屈公式を導出した理論的基礎や、 その座屈公式に測定値を代入して座屈荷重を導く計算過程が「間違ってない」 ということなら分かります。

3)について:統計などの数学では、 例えば「測定値=真値+誤差」という「モデル化」(というか「仮定」)を して様々な回帰分析をしたりします。 そういう数学上の定義をふまえて「真値」 (とか「最確値」とか「最尤値」)などの 用語を適切に使うぶんには構いませんが、 数学上の定義を無視して 「真値って単語を見たことがあるけど、 なんか『正しい値』のことみたいだから、 専門用語っぽくてかっこいいし使ってみようか」 みたいに、自分なりの文学的修辞の目的で 用語を使われると紛らわしかったり誤解を招いたりします。

3.なんでもかんでも「断定的に」言い切ればいいのか……事実と意見の区別  

 科学が対象とする現象には、 非常に多くの原因が複雑に絡み合っているのが普通で、 観測された事実と既知の諸法則から、 「論理だけ」によって推論できることは限られています。 例えば、実験によって「ある結果」が得られた場合、 そのような結果が得られた原因を、 観測事実と既知の法則から自明な「論理だけ」によっては推論できないこと の方が多いのです。 それでは、そのような場合に科学文献では、 そのような結果が得られた原因についての考察をしないのかというと、 そうではなくて、 著者の主観的な推測や判断(つまり「意見」)を書いていいのです。 但し、意見はそれが意見であることが分かるように書かれる必要が あります。例えば、ある実験のレポートの執筆者が

a)「測定された座屈荷重はオイラーの座屈荷重よりも30%大きくなった」
という観測事実と、
b)「端部の回転自由度を拘束すると、座屈荷重が大きくなる」
という既知の法則とから、
c)「測定された座屈荷重が30%も大きくなった原因は、回転端が摩擦によって拘束されていたことである」

という推測をしたとする。このc)はa)とb)から、 論理だけで推論される結論ではありません。 座屈荷重が大きくなった原因は他にも色々と考えられる訳で、 「回転端が摩擦によって拘束されていた」ことだけとは限らないし、 それが主要な原因だという保証もありません。 c)は、この著者の知識と主観ではそのように考えられるという意見の表明です。 このように、論理だけで推論された訳ではない言明、 つまり著者の主観が介入した言明は、 「私は(著者は)……と考える」とか 「……と考えられる」のように書くのが一般的です(後述)。 というのは、そう書くことによって、 読者は客観的事実の部分と著者の主観的意見とを区別することができるし、 読者独自の知識と価値観によって著者とは別の解釈を行うことも可能になるからです。 また、事実と意見とを明確に区別した文書は客観的信頼性が高くなります。 例えば、既知の自明な法則をすら著者の主観的意見のように書けば、 「この著者は、それが既知の法則だということすら知らない程度に無知なのではないか」との印象を与えるし、 逆に、著者の主観的意見を さも既知の法則のように断定して書けば、 「この著者は自分の意見の記述も断定してしまうから、客観的事実の記述もデタラメかも知れない」との印象を与えるでしょう。 だから、「意見」の部分はあくまでも「意見」であると分かるように 書くべきなのです。

 このように「事実」と「意見」を区別すべきだという意見は、 木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書)の受け売りですが、 この本では、 「……と考えられる」のような表現よりも「私は……と考える」のような表現を良しとしています。同著の「意見の記述」の項から抜粋します。

(a)意見の内容の核となることばが主観に依存する修飾語である場合には,基本形の頭(私は)と足(と考える,その他)を省くことが許される.
(b)そうでない場合には頭と足を省いてはいけない.
のが原則である.
 日本語の特性として,主格が<私>であることが明らかな場合には(b)で頭を省くことが許される.しかし,原則としては頭をつけて責任の所在を明らかにしたほうがいい.同じ理由で私は,(a)に属する表現,たとえば「これが最良の方法である」にもなるたけ頭と足をつけて「私はこれが最良の方法だと思う」というように書くことを勧める.
 (b)で頭も足も取り去って,しかもそれが自分の意見であることを示唆しようとするのが,第6章で問題にしたデアロウ,ト思ワレル,ト考エラレル,ト見テヨイ,ト言ッテヨイ,ト言ッテヨイノデハナイカト思ワレルの類の表現である.くりかえす必要はないと思うが,理科系の仕事の文章ではこれらの表現はできるだけ避け,意見の内容は断定形で書いて頭(私は)と足(と考える,その他)を明記すべきだ.

 以上の意見には私も概ね賛同しますが、 「……と考えられる」という表現を徹底的に排除すべきだとまでは私は思わなくて、 少なくとも、 この点に関して、さも英語の文献の方が優れているかのような評価についても 同意し兼ねます。 「……と考えられる」という文章は、 「私以外の人も同じように考えると思うが、観測された事実と既知の法則のみから論理だけで推論できることではないので、断言は避けるべきだ」という態度で書かれた言明なのだと思います。 責任の所在をはっきりさせるためには、確かに「私は……と考える」更には「後藤は……と考える」のように書いた方がいいと私も思います。 しかし、責任の所在を特定の個人に限定しない書き方は、 別に日本語の科学文献に限らず、 欧米諸語の科学文献でも普通にやられていることだと思います。 例えば、英語の文献では「x2 の x に 3 を代入すると 9 が得られる」のような、客観的に割と自明な操作についてさえ、 「we(わたしたちは)」のような「主体」を主語として、「わたしたちは、 x2 の x に 3 を代入して 9 を得た」 に相当するような書き方もなされていると思います (勿論、受動態の表現も使われるでしょうが)。 しかし、この「we(わたしたちは)」は、 著者の数人なのか、全員なのか、 あるいは著者以外の関係者も含むのか、世間一般の人も含むのか、 まるで「明確ではなく」 「アイマイ」です。 勿論、善意で解釈すれば、 「主観の異なる世界中のどんな人が x2 の x に 3 を代入しても 9 になる」ということ「デアロウ」。 しかし、それでもまだ表現は正確ではなくて、例えば、 「計算のできない人が x2 の x に 3 を代入して 6 とかと間違った答えを得る可能性もある」というような意地悪な文句をつけることもできます。 「主観の異なる世界中のどんな人でも、計算のできる人なら」 というような断りを加えたとしても、 「計算のできる人」の定義はアイマイです。 つまり、どんな言語においてであれ、「完璧な表現」などというものはありません。 多かれ少なかれ読者の「善意の解釈」に頼らざるを得ないのです。

 数式の操作や定式化などの記述において、数式を操作する「主体」を示さずに数式を主語とする受動態が好まれる日本語の文体においては、 数式や定式化の導出が著者の主観(近似するために、式の中のいくつかの項を著者の主観で選択的に無視するとか)に依存するものであっても、 さも客観的に自明な導出過程であるかのような印象を与えてしまうという「欠点」があるかも知れませんが、他方、数式を操作する「主体」を主語とする能動態が好まれる英語の文体においては、前述したように、客観的に自明な導出が、さも著者の主観に依存するかのような印象を与えてしまうという「欠点」があると見ることもできます。

もし、日本語の論文で意見の記述には「……と考えられる」ではなく 「私は……と考える」を使うべきだと提案するのならば (この提案自体は悪いとは思いません)、 同じように英語の論文でも、意見の主体には「I(私は)」を使い、 客観的に自明な操作を表すための形式上の主語には「one(人一般)」などを 使って区別すべきだと いうような同種の提案をするのでなければ、 英語を(科学的な記述の適性という意味において)過大評価しているように 感じます。 このように、 どんな言語にもそれぞれに長短があるものであり、 特定の言語(例えば英語)が他の言語(例えば日本語)と比べて、 科学的な記述に圧倒的に適しているなんてことはないと私は思います *7)

*7  良くも悪くも、日本語は漢字を導入したことで、 外来語の専門語を造語/翻訳することができたため、 多くの教科書や専門書も、ちゃんと翻訳された日本語で読むことができるし、 大学レベルの専門教育もちゃんと日本語で受けることができるようになった。 この意義を過小評価してはいけないと思う。 世界には、 義務教育レベルの初等教育すら自分の母語によって受けられない人たちがいる。 英語教育の一環として、 大学の専門教育の一部に英語の授業を導入したりする試み自体は、 (留学したりするような学生を対象とするなら) 結構だと思うが、一方で、 英語や専門科目の学力がそれほど高い訳ではない (あるいは明らかに低い)学生たちが、 日本語でならそこそこ理解できそうなことを 分かりやすく学べる機会を与える工夫も軽視してはいけないと私は思う。

追記青葉工業会ニュース No.42, p.12の「外国人教員便り」で、 バラチャンドラン・ジャヤデワン氏が 「日本経済・教育・研究発展の秘密の理解と今の私」と題して、 日本の発展の秘密は、教育が完全に日本語で行われ、 各種の取り扱い説明書などもすべて日本語で書かれていていることに 解の一つがあるのではないかとの考察を述べている。少し引用する。
「(前略) 高校までの学校での教育は、各民族の言葉であるタミル語および シンハリー語で行われる。 しかし、大学に入学した時点ですべての講義が突然英語になるという 現実に直面する。 (後略)」 「(前略) 高校までの教育をタミル語もしくはシンハリー語で受けた学生は、 英語での講義の理解が不十分であることを理由に留年あるいは退学する 例もある。 (後略)」 「(前略) 日本に留学してきた私には、日本の発展は最初の大きな謎であり、 その謎を解くことが私にとって最初の大きな課題であった。 (後略)」 「(前略) その謎の解の一つは、日本の教育が百パーセント日本語で 行われていることではないかと考えるようになった。 (後略)」 「(前略) どんな設備、あるいは機械のことにおいても、 取り扱い説明書等は日本語で書かれており 教育の面でバリア・フリーである。 (後略)」
英語を非母語とし、英語で大学教育を受けた外国人が このような考察をしているというのは傾聴に値する。 大学の授業を英語にすることに対する私の懸念については、 ここにも書いた。