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お知らせ

秋田大学 教育推進総合センター「日本語表現法」について (05/8/1準備開始)

08/11/21追記: 08年度版の『日本語表現法』は、 『大学生のための学びのすゝめ』とタイトルが変わっている。 裏表紙には、『日本語表現法テキスト』とある。 内容には特に大きな変化はないようだ。

工学資源学部 土木環境工学科 後藤文彦 (メール)

私は、書き言葉の乱用が日本語を分かりにくくしている と考えているし、 敬語は、身分差別の名残だ と考えているし、 「正しい日本語」なるものはないと考えているし、 ディベートは命題検証のための議論にはならない と考えています。 新入生ガイダンスの際に新入生に配布された 『日本語表現法』なる冊子は、 このような考えの私とは、割と正反対の典型的な主張 がまとめられているように 見受けられました。 さて、 この『日本語表現法』に関するアンケートの提出を求められたのですが、 まじめに回答しようとすると、アンケート用紙にはとても書き切れません。 アンケートに答えるかどうかとは別に、 私自身の意見を整理する意味でも以下に思い付いたことの メモを取ってみることにしました(随時、加筆していきます)。 ここのURLをアンケート用紙に記して提出しようかとも思っていますが、 思いついたことを手当たり次第に書きなぐっていくと、 頼まれて多忙の中 執筆したのであろう執筆者に対してなかなか 失礼な(と思われてしまうかも知れない)表現も入り込んでしまいます。 とはいえ、アンケートの回収期限までに、穏当な文体に修正するのは 無理だし、趣旨内容的にその必要もないような気もするので、 このまま、この URL を記して提出することにしそうです。

06/7/14追記

今年も去年と同様のアンケートが来ました。 「 平成16年度に策定された「中期計画」には 「課題探求能力をもった人材を養成するため, 討論型・学生参加型授業の充実を図る」との 一文が盛りこまれました。 そしてその第一歩として, 「討論・発表の前提となる日本語表現力の強化」が 平成16年度計画に掲げられました。 これを受けて,初年次ゼミなどでの活用を想定して昨年度 編纂されたのが『日本語表現法』テキストです。(後略)」 ということなのですが、 「討論・発表の前提となる日本語表現力の強化」 という意味では、 私は、正に「良いプレゼンと悪いプレゼン」に 書いたように、話し言葉による分かりやすい表現力を身につけるのがいいと 思っているので、 「硬い文体」やら「敬語法」やら「大人の日本語」やらを 身につけることに重点を置く『日本語表現法』 (06年度版は、 05年度版に 演習の解答例が1ページ加わっただけっで、ほとんど内容の変更は ないようですが) は、やはり私とは正反対の立場で編集されていると思います。

目次

内容以外の全般的なことについて

編集の理念について
ビジネスや学会で使われる日本語が日常語とはかけ離れている状況を 是認し、再生産する
編集主体、配布方法について
一部?の教員の教育方針に基づく内容を新入生全員に配布
ウェブの利用、問い合わせ先
意見や批判を歓迎するならウェブ上に公開すべき。問い合わせメールは必須

個々の内容について

はじめに
1.書き言葉と話し言葉
2.敬語法
4. 文章作法 ― 文章を書くコツ
5-2. 情報の収集と活用
8. ディベートの戦略


内容以外の全般的なことについて

編集の理念について

ビジネスや学会で使われる日本語が日常語とはかけ離れている状況を 是認し、再生産する

『日本語表現法』の基本的なコンセプトは、 「大人の日本語」といった表現も用いてはいるものの、要は 「現在の実社会の様々な場面で用いられる典型的な日本語表現を (その善し悪しは問わずに) そういうものとして身につけなさい」 ということではないかと思います。 これはこれで、処世のための一つの戦略だとは思いますが、 私自身は日本語(というか言葉一般)に対して、それとは 逆の立場を取っています。 現在の日本語は様々な問題を抱えていると思います。 日常生活では家族や友達と自由に日本語を使いこなしている平均的な 国語能力を持つ日本人にとっても、 法律や裁判の判例はとても分かりにくい難解な表現で書かれているし、 お役所の事務書類の説明もなかなか分かりにくい書き言葉だし、 テレビのニュースですら、原稿を読み上げているような聞き取りにくい 表現です。 自分では理解している内容や自分の意見をレポートに書こうとしても、 普段、自分が日常で話している言葉そのままを書くことは許されず、 書きたいことは頭の中にあるのに、それを 「大人の日本語」なる「硬い文章」に翻訳するためだけのことに、 膨大な時間と労力を費している学生も多いことでしょう。 これは、日本語の書き言葉や敬語表現が(諸外国語と比べても特に)日常語とは かけ離れすぎているということが一つの理由だと思います。 つまり、日常では家族や友達と自由に日本語を使いこなしている平均的な 国語能力の日本人が、自分の普段 話している言葉そのままで 商談したり、論文を書いたりができないため、 日本に住んでいながら、日本でビジネスしたり研究したりするためには、 「大人の日本語」なるものをあたかも外国語のように改めて習得しなければ ならないような構造があるのだと思います。 勿論、学生たちが卒業後に現行の社会にスムーズに適応できるようにするには、 「大人の日本語」の運用の実態もある程度は教えておく必要はあるでしょうが、 私たち教育者は、 書き言葉や分野ごとの敬語表現(ビジネス方言*や学会方言)が 日常語からかけはなれているという状況を (もしこの状況が望ましくないということには同意するなら) 少しでも改善する努力もしていくべきではないかと私は考えています。 具体的には、特に必要もなく難解な漢字熟語 (「敷衍する」「看過する」「齟齬」など)を使ったりせずに、 分かりやすい表現 (「分かりやすく言う」「見逃す」「くいちがい」など)を自分自身も 使うように心がけ、学生にもそのように指導するとか、 堅苦しい学会方言 (「…と題しまして私○○が発表させて戴きます」など)を避けて、 日常語に近い表現(「…について発表します」など)を自分自身も使うように心がけ、 学生にもそのように指導するといったことを私は第一に思い付くのですが、 『日本語表現法』には、そのような方向性の提案は一切ありませんでした。

* ほぼ日刊イトイ新聞編集部 /糸井重里 著 オトナ語の謎。 (新潮文庫) の中で多数の会社ジャルゴン (「スケジュールを切ってください」 「アテンドです」 「ご笑覧ください」などなど)が紹介されていることを知人から教えてもらいました。
関連:米国版オトナ語をマスターするには

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編集主体、配布方法について

一部?の教員の教育方針に基づく内容を新入生全員に配布

ビジネスや学会で、 あるいは変化し続けるこれからの時代の実社会で、 どのような言葉を使うのが望ましいか (堅苦しくて分かりにくくても、相手の失礼にならないように 書き言葉調の敬語表現を使うべきか、 分かりやすさを優先して話しことば調の丁寧語を使うべきか) といったことは、 卒業して社会人となる学生にとっての処世上の有利さを第一に考えたとしても、 それぞれの教員の教育方針に対応した 様々な考え方があり得ると思います。 しかし、『日本語教育法』はかなり限定された教育方針(考え方)に基づいて 編集されているように見受けられます(特に1.書き言葉と話し言葉、 2.敬語法)。 勿論、前述したように言葉の使い方に関しては様々な考え方があり得るから、 その中の一つの典型に賛同する有志たちで、このようなテキストを作ること 自体は結構なことだと思います。 ただ、冊子の表紙に秋田大学が編集主体であるかのように表示し、 この冊子を新入生全員にガイダンスの際に配布するというやり方には やや問題を感じます。 このような配布方法を取るなら、せめて事前に内容を全教官に公開して 意見を求めるぐらいのことをすべきような気もします (あるいは、委員会→学科教室会議などの経由でその話が来ていたのでしょうか)。 あと、編集主体が不明確です。 「はじめに」を読むと 「教育推進総合センター」 のようですが、 そうであれば、表紙には「秋田大学」だけではなく、これも表記すべきかと 思います。 「執筆者一覧」の執筆者は、 教育推進総合センターから執筆依頼されただけで、 自分の担当箇所だけを執筆して、他の担当者の内容に対しては関知しないのか、 あるいは、編集委員会のようなものが編成されていて、 すべての執筆者が全内容に対して一定の認識を共有しているのか、 その辺のことも不明確です。 意見や批判を歓迎するからには、責任の所在をはっきりさせることも 重要かと思います。

06/7/14追記:06年度版では、最終ページに「問合せ先」として 秋田大学教育推進総合センターの住所、電話、メールなどが 記載されています(表紙ページは「秋田大学」だけです)。

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ウェブの利用、問い合わせ先

意見や批判を歓迎するならウェブ上に公開すべき。問い合わせメールは必須

このような教材テキストは、(印刷版もあってもいいですが) ウェブ上に(pdfではなくhtmlで)公開するのが多くの意味で望ましいと思います。 学生がパソコンでレポートなどを作成しようとした時に、 いちいちテキストを持ち歩かなくても、いつでもウェブ上で参照できるし、 このようなテキストを必要としている学外の一般の人も利用できるようになるし、 不特定多数の閲覧者から(学内の学生や教職員だけではなかなか気づかないような) 様々な意見や批判が寄せられるかも知れません。 それから、 「意見,希望,批判は望むところであり,今後の改定に役立てるつもりですので, ぜひ教育推進総合センターに寄せてください」 とは言われても、問い合わせ先のメールアドレスも書かれていないのでは、 意見の送りようがありません。 教職員だったら、学内便ぐらいは出せるかも知れませんが、 学生が意見を送れそうな住所も書いていません。 そういう訳で、今回のアンケート(学生用と教員用がある)調査を 行ったのかも知れませんが、このアンケート用紙にも問い合わせ先のメールが ありません。 この手のテキストに対する意見や希望、批判は常時メールなどで受け付けている 体制が望ましいと思います。ところで、 教育推進総合センターのページ 自体にも問い合わせ先のメールがないようです。

(先頭) (目次)

個々の内容について

はじめに

皆さんは高校を卒業するまで, じつに長きにわたって"国語"の授業を受け,また日常生活では家族や友人と 日本語で自由自在に会話を交わしてきました。 日本語に不自由は感じたことはほとんどないでしょう。 にもかかわらず,ものを書いたり,人前で話すということにおいては, 重要ななにかが欠けているといわざるをえません。 (『日本語表現法』p.1)

言葉というのは、誰にとっても分かりやすく使いやすいツールであるのが 理想的だし、 教育にたずさわる者は言葉を分かりやすくするように努める責務もあると私は思います。 ものを書くための言葉や、人前で話すための言葉を、特別な訓練を受けて 特殊技能として身につけた人だけが特権的に、ものを書いたり、人前で話したり できるような体制 (ものを書いたり人前で話すのに使われる言葉が日常語とはかけはなれている状況) に適応できないでいる学生を「重要ななにかが欠けている」 と問題視しているのだと思いますが、 私はむしろ、 「日常生活では家族や友人と」「自由自在に」使っている言葉(に近い言葉)で、 そのまま「ものを書いたり」「人前で話」したりすることが許されないという 状況こそを問題視します。 もし、レポートで日常語に近い言葉を使っていいのなら、 頭の中にあることは自由に書けるようになるし (実際、 携帯メールに書くような話し言葉でレポートを書いてもいい と言った途端に、書いてくる考察の量が増えたような気がする)、 (まあ、論文や報告書ではなかなかそうも行かないのは分かるけど) 特にプレゼンテーションに関しては 日常語に近い話し言葉の方が 圧倒的に望ましいと私は確信しています。

10 の情報をその 10% しか伝えられないよりも, 5 の情報を相手に 80% でも確かに理解してもらえることのほうが 現実では価値をもつのです。 (『日本語表現法』p.1)

秋田のある方言詩人(だったような気がしますが失念。以下の 話から誰だか分かる人がいたら教えてください)が、 東京に行って言葉を馬鹿にされて無口になって、 周りの人たちから、「あの人は無口でつまらない人だ」とずっと思われていて、 ある時、どうせ喋りにくい使い馴れてない東京弁で喋ろうとしても自分の 言いたいことの百分の一しか言えないし、秋田弁で喋っても自分の言ったこと の百分の一しか理解してもらえないし、どうせ百分の一しか通じないんだったら、 自分の言いたいことが言える秋田弁で喋った方がいい―と思って以来、秋田弁 で通すことにした というような記事を数年〜10年前に新聞か何かで読みましたが、 私もこの方言詩人の態度に賛同します。 レポートなどを書く際に、書き慣れない書き言葉と格闘して、 自分の言いたいことの 10% しか書けないよりは、 自分の普段 使っている言葉を(携帯メールのように)そのまま使っても いいから、言いたいことをちゃんと書いてほしいと思います (実際、 携帯メールに書くような話し言葉でレポートを書いてもいい と言った途端に、書いてくる考察の量が増えたような気がする)。

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1.書き言葉と話し言葉

大学生になったばかりのみなさんにとっては, 親しい友達とは会話ができても,新しく知り合ったばかりの 同級生や先輩との会話では,とまどうことがあるかもしれません。 それ以上に,大学の教師や事務職員とはどのように話せばいいのか, 授業や発表や質疑応答ではどのように話せばいいのか, 学外実習などで出会う人々とはどのように話せばいいのかなど, これまで経験したことのない「場面」や「相手」に対する 話し方というものを,考えなければならない状況が生じます。 (『日本語表現法』p.3)

私は、初対面の人と話す場合、相手が大学の先生だろうと、 会社の人だろうと、お店の人だろうと、お医者さんだろうと、 (友好的に話し合う意志があることが相手に伝わる程度の) 「やや丁寧語」で「やや共通語」で普通に話せば、 それで十分だと考えています。 私も大学生になったばかりの若い頃は、 宮城県の仙台のような都会では、 (私の出身地の宮城県の石巻のような田舎とは違って) お店で買い物するにも、 「標準語」(しかも東京山手文法に厳格に従った複雑な敬語体系)を 「正しく」使いこなさないと いけないんだと思い込んでいた時期もあって、 たかが、国内を旅行するための周遊券の買い方を確認するだけのことに、 どうしてこんなにも(使いこなせない外国語に苦労しているかのような) 言葉の苦労をしなければならないのかと思ったりしたこともありましたが、 ある時から、 「「やや丁寧語」で「やや共通語」で 普通に話せばいいのだ」 と開きなおってからは、非常にコミュニケーションが楽に スムーズに行えるようになりました。 勿論、語学の素養(というより才能)のある人にとっては、 完璧な「標準語」や東京山手文法に準拠した敬語表現を完璧に習得するという 適応の方法もあり得るとは思います。 しかし、多くの人にとっては、 「「やや丁寧語」で「やや共通語」で 普通に話す」 という適応の方が簡単で現実的だと思います。 特に「授業での発表や質疑応答」に関して言えば、 普通に話して何の問題もないと思うし、 むしろ、 おかしな学会方言 (「…と題しまして私○○が発表させて戴きます」 「とても興味深い発表で勉強になりました。一つ教えて戴きたいのですが」)みたいな言葉づかいを しないように指導する必要すらあるのではないかと思います。

大学でのさまざまな場面のうち,教師や事務への問い合わせ, 授業での発表や質疑応答にふさわしいのは,音声言語の中でも, より書き言葉的な「硬い文体」です。 (『日本語表現法』p.3)

卒論発表などで、教官側が、 「あれ、そこのプロットだけ飛び出してるのはなんでかな?」 みたいに普通の話し言葉で質問しているのに、 学生側が、 「はい、それにつきましては、さきほど申し上げましたように、 ××の影響ではないかと考察しております。 では、こちらのスライドにて説明させて戴きます」 みたいな用意してきた想定質問の原稿をそのまま読み上げているかのような 返答をしてくることが多々ありますが、 これは対話にも議論にもなってないし、 自分の言葉で普通に話しかけてきた相手に、 自分の言葉ではなく用意しておいた書き言葉で返答するのは 失礼なことだとも私は思います。 事務の人だろうと教師だろうと、特別な人ではないので、 事務の人や教師と学生との関係は、 普通の大人どうしの関係と捉えて構わないと私は考えています。 だから、初対面のときは、普通の大人どうしの関係で使われる 「やや丁寧語」で「やや共通語」で 話せばいいし、徐々に親しい関係が成立したなら、 くだけた言葉や方言を使うようになったって構わないと私は思います。

この他,次の例のように,特に論文などの「硬い文体」でよく用いられる 表現があります。( )内の表現は,よりやさしい表現です (いずれも論文に使用することができます)。
(中略)
・〜管見では存在しない(〜は私がしっている範囲では存在しない)
・〜が〜についての嚆矢である(〜が〜についての研究の始まりである)
・〜を捨象し論考をすすめる(〜を考えに入れずに論考をすすめる)
(『日本語表現法』p.4)

文系と理系では事情が違うのかも知れませんが、 「管見」だの「嚆矢」のような語彙は、 (専門用語でないのなら) 論文にも使う必要がないし、避けた方がいいと私は思います (何より、私自身、辞書を調べないと正確な意味や読み方すら分かりませんでした)。 学生の場合、論文などを書く際に、覚えたての難しい語彙を使ってみたいという 誘惑があるかも知れませんが、 分かりやすくて簡単な表現ができるなら、少しでも 分かりやすくて簡単な表現を使うように指導すべきだと思います。 それは、外国人研究者や留学生 (更には難解な語彙を持たない私のような日本人の研究者や学生)に 日本語の文献を読まれる機会を増やすことにも つながるとも思います。

・〜ということが示唆される(〜ということが分かる) (『日本語表現法』p.4)

細かいことですが、「示唆される」は、「それとなく示される」「ほのめかされる」 というような意味ではないでしょうか。 論文の場合、「〜という可能性を示している」ぐらいの意味のような気がします。 「〜ということが分かる」という意味だったら、 「〜ということが分かる」と書くのが、明快で誤解がないと思います。

  (2) 次の文章には,論文では使わない方がよい語や表現が用いられています。 この文章全体を論文らしい文体に書き換えてください。

私がこの論文で言いたかったのは,今よりもっと少子化が進んだら, 日本の人口は100年後には半分になっちゃうかもしれないっていうことです。 日本の社会が,もうちょっと,子供を生んだり育てたりとか, しやすくすればいいな,と思うんだけど。
(『日本語表現法』p.5)

この文例は、論文にはふさわしくない典型的な文体だという意味なのだとは思いますが、 論旨も明快で分かりやすく、 「管見」や「嚆矢」といった難解な語彙が散りばめられた 「硬い文体」に比べたら、よっぽど好感が持てます。 実際、 携帯メールに書くような話し言葉でレポートを書いてもいい と指導した場合ですら、 ここまでわざとらしい話し言葉そのままを書いてくる学生は、 ほとんどいません。 学生たちは、高校までの学校教育で既に書き言葉に深く強く 呪縛されているので、 「論文にふさわしい表現を使いなさい」「発表にふさわしい表現を使いなさい」 と指導するよりは、 「普通に書いていい」「普通に話していい」と指導した方が、 (適度に呪縛が解けて) 内容を含めた総合評価はむしろよくなるような感触を私は持っていますが、 この辺は、ちゃんと比較実験でもやってみないと分からないところです。

蛇足ですが、インターネットの普及にともない、 これからの書き言葉はどんどん話し言葉に近づいていくと私は見積もっているし、 それは望ましい傾向だと思っています。 私が見習うべき良い例だと思うのは、 山形浩生さん による経済やオープンソースや環境問題などの専門分野についての 文章(英語からの翻訳も含む)です。 山形さんは、専門的な話を噛み砕いて、話し言葉に近い自然な文体で 分かりやすく書いてくれます。 私は、教科書やテキストの類いも、もっともっと話し言葉に近い文体で 書いた方が分かりやすくていいと考えています。 ちなみに、笠原 晧司 『新微分方程式対話』 (日評数学選書)は、 先生と生徒たちとの「対話」形式(例えば「今、ひょっと思いついたんやけどな、 初めの行列は 対称行列やろ。終わりの5-7も対称行列やろ。 そやのに、何で中間段階の行列が 対称でないんやろ」 「そうなんや。今5-7を計算してて、気味がわるかったんや けど……」 みたいな関西訛りの共通語?)で書かれていて、 まるで自分も一緒に実際の授業に参加しているかのように 錯覚しながら楽しく学習できるように工夫されていて、 分かりやすくテキストを書くための一つのヒントになるのではないかと 私は感じています。 ところで、 私自身は学生にとって大事なのは、 くだけた文章を硬い文章に書き換える訓練よりは、むしろ 分かりにくい文章を分かりやすく書き換える訓練だと感じています。 そのような書き換えの例題集として、 結城浩さん文章教室はとても参考になると 私は思います。

(先頭) (目次)

2.敬語法

1)崇めの表現(敬意を表するための敬語使用)
地位・能力などを崇める  学者・医者・作家・霊能者・ 弁護士・代議士―「先生」
(『日本語表現法』p.6)

まず、「能力などを崇める」べき対象として、 学者や医者などと同列に「霊能者」を並べていますが、 普通、「霊能者」と言えば、 死んだ人の霊と交信したり、 遠く(に潜んでいる犯人など)を透視したり、 人の未来を予言したりといった超能力を持っていると主張する 人のことを意味すると思います。 言うまでもないことですが、 霊能力超能力 が存在する科学的な証拠は未だに見つかっていません。 そして超能力(が存在するという主張)は、 多くの詐欺医療や詐欺商法に利用されています。 「霊能者」なるものを、 学者や医者などと同列に並べることは、 「霊能者」がその主張通りの超能力を持っているかも知れないと 感じている学生に、 「大学のテキストでも霊能者の能力を認めているのだ」というような お墨つきを与えることにもなりかねないと懸念します (細かいことではありますが、学生が各種の オカルト に引っかかるのは、それなりに深刻な問題だと思うので、念のため) 。

さて、学者や医者、作家などは(特にマスコミで)「先生」と呼ばれることが 多いのは、その通りですが、学生にも、こういう人たちを「先生」と 呼ぶことを推奨するということでしょうか(文脈的にはそのように読めますが)。 私自身は、 「さん」は相手の性別や身分に関係なく誰にでも使える必要十分な敬称だ と考えていて、学生にも私を「さん」で呼ぶことを推奨していますが、 最近は、病院の医者や学校の先生などでも、 非対等な関係の「先生」よりも 誰とでも対等な「さん」を導入する向きもそれなりにあるかと思います。 ちょっと未確認ですが、JABEEだかFDでも「先生」よりも「さん」を推奨してい なかったでしょうか。

人間の尊重 ― 基本的人権を重んじる民主主義社会としての理想
     夫婦間,親子の間でも敬語を用いる家庭がある!?
(『日本語表現法』p.6)
6 目上の人には「命令」や「禁止」は禁物 ― 勧誘・依頼表現への転換
「来い」を例に
おいでください   おいでくださいませんか?
(『日本語表現法』p.8)

書き出しのことば 結びのことば
拝啓/謹啓 敬具/拝具
一筆申し上げます かしこ(女性)

(『日本語表現法』p.9)

この辺は、ジェンダーの問題とも関るので慎重に論ずべき内容が 含まれていると思います。 「民主主義社会としての理想」の直後に、 「夫婦間,親子の間でも敬語を用いる家庭がある!?」と続くのは、 「!?」がついているとはいえ、夫婦間で敬語を用いるのを理想視しているようにも 読めなくはありません。 現在の若い夫婦間で(一方から他方にのみ)敬語が使われることは ほとんどないとは思いますが、 やや年配の世代で、共通語に近い言葉を話している夫婦間では、 妻の側のみが夫に対して敬語を使うという例は、それなりにあります。 現在でも、ドラマやアニメや小説(翻訳や吹替えを含む)においては (現代を舞台にしているものですら)、 妻の側のみが夫に対して敬語を使うという例は、少なくないでしょう。 これは、ここで論ずるにはあまりに深いテーマですが、 簡単に言うなら、家父長制に基づく性別役割の思潮が言葉づかいに反映された例と 見ることはできるでしょう。 少なくとも、大学のテキストで、 夫婦間で敬語が使われるのを理想視しているように 誤解されそうな書き方をするのは適切ではないと思います。

「命令」と「依頼」の問題も、ジェンダーの視点から論じられることの 多いテーマでもあります。 前述の夫婦間でもそうですが、 会社の人間関係などにおいても、 男は命令など、割と直接的な要求を主張できるのに対して、 女は依頼など、割と間接的な要求しか主張できないような 社会通念上のバイアスがかかっているというような考察もあります。 現実問題として、上司や教官に対して「来い」のような命令形を使う 部下や学生はまずいない訳だし、 普通の平社員や学生は女も男も 上司や教官に対しては依頼や勧誘の表現を使うものだと思うので、 むしろ 会社の上司や大学の教官(たいていは男)の中に、部下や学生たちに対して 命令形を使う人もいるということを問題視すべきなのかも知れません。 勿論、「静かにしてください」などの(相手を対等な大人とみなした)依頼表現に 応じない学生に対して、 (それは、大人どうしの対等な関係を自ら確信的に拒んでいる訳だから) 「静かにしろ」などの命令形を使うのは許容されると思いますが、 同様に教官が学生に対して(セクハラなどの)理不尽なことをした場合には、 学生側も教官に(「やめろ」などの)命令形を使うことは許容されると私は思います。

「みもとに」や「かしこ」が(女性)という括弧づきで 紹介されていますが、 こういう書き方をされると、学生の中には 「自分は女だから「みもとに」や「かしこ」を使わなければならないんだ」 と思ってしまう人もいるかも知れません。 あるいは、 「自分は男なのに、今まで「かしこ」を使ってしまっていた。恥ずかしい」 なんて思う学生もいるかも知れません。 言葉づかいの男女差というのは、 社会的に擦り込まれるジェンダーの一例ではないかと思いますが、 「かしこ」を男が使ったからといって (実際、使っている男の人もそれなりにいますが) 「それは間違い」なんてことは言えないし、 現に昔は男も使っていたのではないかと思います。 もし、注釈を付けるとしたら、 「もともとは男女共に使っていたが、近世?頃から女のみが使うようになった。 最近は男でも使う人がいる」 ぐらいが穏当なような気もします。 というか、メールでのやりとりがますます一般的になるこれからの 学生にとっては、 「かしこ」だの「みもとに」を使う機会は、実際問題として ほとんどないような気もしますが。

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4. 文章作法 ― 文章を書くコツ

【演習】
 次の文章に反対の立場で反論をしてください。 仮に自分は反対でないと思っても,ここでは反対の立場に立って 書いてみましょう。
 できるだけ,多くの人があなたの意見に賛成するように工夫しながら 400字以内で書いてください。

 バス・電車の優先席はなくすべきである。
 優先席は,高齢者や体の不自由な方などのために設けられている ものである。しかし,優先席があることで 「優先席以外の席は,ゆずる必要はない」という考えをもつ人が 増えてしまう危険がある。
(後略) (『日本語表現法』p.19)

これは、ディベートの手法を模した演習なのだろうと思いますが、 他人から与えられた(自分とは違う)意見を正当化する「論説文」を 書かせて終わりという演習によって、 学生にどのような能力を身につけさせたいのか、 私にはよく分かりません。 特に「できるだけ,多くの人があなたの意見に賛成するように工夫しながら」 と指示すれば、当然 学生は、 (本意ではない)自分の意見に不利な事実は、矮小化したり触れないように 「工夫」するでしょうし、 (本意ではない)自分の意見に有利な事実は、できるだけ拡大解釈して アピールするように「工夫」することが予想されます。 例えば、営業成績を上げることが至上目的の企業などの場合、 自社製品や技術の短所はなるべく目立たないように工夫し、 長所は精一杯 誇張して宣伝できる能力が重宝されるということは あり得るかも知れませんが、 勿論、これは科学的な態度ではないし、 JABEEなどで求められる技術者倫理にも反する態度でしょう (その意味では、土木環境工学科でもJABEEに対応した 教育目標に ディベートを掲げていて自己矛盾があるかも知れませんが)。 自分たちが宣伝する製品や技術の欠点も含めて、顧客や消費者に対しては正確な情報を 伝えるのが技術者や研究者、これからの企業に求められる態度ではないかと 思います。 通常、意見の対立というのは、 事実認識の対立、価値観の対立、それらの複合 に分類できるのではないかと思います。 事実認識の対立に関しては、 調査や実験によって、どちらの主張が正しいかを確認することができる場合が多いし、 その確認の方法がじゅうぶんに客観的で科学的であれば、 その事実を認めていなかった陣営にも納得させることができます。 価値観の対立がなければ、正しい事実認識の意見に双方が同意して決着するでしょう。 価値観が対立している場合は、簡単ではありません。 (事実認識が変わることで価値観も変わる場合もありますが)、 双方の価値観に折り合いを付けられる譲歩点を探すことが議論の目的になるのでは ないかと思います。 私が学生に身につけてほしいと思うのは、(理想を言えば) 意見の対立点(事実認識のどこで対立しているのか、 どういう価値観とどういう価値観が衝突しているのか)を分析する能力、 そして可能なら、事実認識を確かめるデータを収集したり、 あるいは事実認識を確かめる(実験などの)方法を提案できる能力です。 一方の陣営の意見を「論説文」形式で正当化するという訓練は、むしろ こうした分析能力を曇らせてしまうような気もするのですが、どうでしょうか。

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5-2. 情報の収集と活用

1 引用
 レポートを書く際に大切なことの一つは, 自分の意見と他の人の意見を明確に区別して示すことです。
(『日本語表現法』p.24)

私は、作文や発表で最も重要なのは、 事実と意見を区別する ことだと思っています (これは、 木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書) で論じられていることですが)。 それさえできていれば、文体などは瑣末なことだとすら考えています。 『日本語表現法』では、私が目を通した限り、事実と意見の区別を論じた章は 見当たらないようです。 さて、自分の意見と他人の意見の区別も必要ではありますが、 これは事実と意見の区別に含まれることだと思います。 例えば、 「私は日本語の言語行動は否定的ではないと思う」と書けば、 これは自分の意見を表明していることになりますが、 「野元(2001)は、『日本語の言語行動は否定的ではない』と述べた」と 書けば、これは野元という人がそういう主張をしたという事実を 提示していることになります。 記憶に頼って書いていて、野元という人が本当にそういう主張をしたのか どうかの確信が持てない場合に、 「野元は、『日本語の言語行動は否定的ではない』と述べていたと思う」 と書けば、これは自分の憶測なので意見ということになります。 つまり、 事実と意見の区別は、 自分の意見と他人の意見の区別も包含する より大きな枠組に なるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 東北のズーズー弁は,音声が東京共通語と著しくちがう。 そのちがい方は,東京共通語で区別する音節をズーズー弁では 区別しないというふうである。それに対して,九州の方言は 音声の上では,東京共通語とあまり変わらない。(p.95) (『日本語表現法』p.26. 柴田武(1958)『日本の方言』(岩波書店)からの引用)

これは、1958年の古い文献からの引用ではありますが、不正確な (というか誤解を招きやすい)記述だと思います。 この本の中で「ズーズー弁」を正確に定義しているのかどうかは分かりませんが、 一口に東北の方言とは言っても、 実際には多種多様で、東京方言では区別していない子音や母音やアクセントを 東北方言で区別している例も多数あります (「ち」に近い「き」や「え」と「あ」の中間の母音や「掃除」と「送辞」の区別など)。 確かに、東北には「い」と「え」を区別しない 四母音地帯や更に「う」も区別しない三母音地帯 がある(あった)のは事実ですが、 一般に、発音におけるある区別を(意味の判別に支障が出るレベル)で していないように見受けられる場合は、 他の区別方法が導入されている可能性もあるのではないかと思います (勿論、日本語には意味の判別には必要のない冗長性もあるだろうから、 区別がなくなっても問題が起きない場合もあるでしょう)。 例えば、多くの東北方言では、語頭以外の「カ行」が一定の法則で「ガ行」に 変わりますが、その代わり、「ガ行」と鼻濁音の「カ°行」を厳格に区別するので 意味の判別に支障が出ないという例もあります (格助詞の「が」と終助詞の「か」を、 それぞれ「か°」と「が」で区別するとか)。 九州の方言が音声の上では東京方言とあまり変わらないというのも不正確でしょう。 南九州では、「お」と「を」の区別や、「カ行」「ガ行」と「Kwa行」「Gwa行」の区別 などがあったのではないでしょうか。 「ズーズー弁」というのは、 東北方言における 東京方言とは違うやり方の様々な区別 (「え」に近い「い」と「え」の区別、 「ち」に近い「き」と「ち」の区別などなど)を、 聞き取る能力のない(おそらく東京方言を母語とする)人が、 自分には「ズーズー」と言っているように連想されるから、 (蔑意をこめて) 「ズーズー弁」と称したのではないかと私は推測しています (「ズーズー弁」の正確な語源の分かる方は教えてください)。 いずれにせよ、 (方言コンプレックスを持っている可能性のある) 東北出身者の多い秋田大学の新入生に、 特に注釈もなく、東北方言が音節の区別をいいかげんにする言語であり、 それ故に「ズーズー弁」と称するのを妥当視しているようにもとれる 主張を(引用とはいえ)紹介することは、 あまり適切ではないような気もします。

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8. ディベートの戦略

(前略) 自分とは異なる考え方や価値観を持つ相手を理解しようとし その違いを受け容れながら,自分の考えを相手に理解してもらう よう的確に表現する能力を伸ばし,複雑な社会でしなやかに 力強く生きていくための建設的思考を築いていく必要があります。 違いや対立を経験しながら変化していく自分や新たな自分を 創造していく過程を楽しむことのできる思考過程を身につけることは, 人生を豊かにするひとつの方法と言えます。 (後略) (『日本語表現法』p.45)

ここまでの内容には特に異論はありません。が、これに続いて 「ディベートは,そういった積極的思考回路を内蔵させ得る 言語表現活動です」と言われると、賛同しかねます。 「違いや対立を経験しながら変化していく自分や新たな自分を創造していく」 ためには、 相手から指摘された自分の事実誤認に納得できた場合に、自分の意見を 訂正する「自己修正」の態度が不可欠だと私は思うし、 民主主義社会にせよ、科学研究にせよ、その内部に何等かの自己修正の機能を 内蔵することでうまくいっているのだと 私は考察しています。 しかし、 証拠を見せられたことでどんなに考えが変わっても意見を変えることが許されない ディベートは、どこに自己修正の機能を組み込み得るのか 私には未だによく分かりません。 例えば、ディベートのゲームが終了した後に、 ゲームで得られた知見に基づいて、 自分はどういう意見を持つようになったかを改めて普通に議論するとかするのなら、 ゲーム形式で意見の対立点を見えやすくするといった効能も多少は あるのかも知れませんが、一般にディベートは、ゲームで勝敗を 決めたら終わりで、ゲームの後に 「本番の」議論をすることを前提とはしていません。

(前略) どちらがより説得力があるかについてはジャッジが判断します。 詭弁術のように屁理屈と主観的判断に拠る論を展開するのではなく, 客観的事実やデータを分析し,論理的に思考し表現する 合理的な説得の言語表現活動です。 思考力と表現力を両輪とする問題解決能力を育成します。 (『日本語表現法』p.45)

文章作法のところで述べたように、 意見の対立は 事実認識の対立、価値観の対立、それらの複合 に分類できると思います。 事実認識の対立に関しては、 確かに「客観的事実やデータを分析」することで決着するので、 「合理的な説得」が可能だと思います。 つきつけられた客観的な証拠に納得して自分の考えや意見を修正する態度を 推奨するのなら、 それは「問題解決能力を育成」することになるかも知れません。 しかし、ディベートは逆で、 相手からつきつけられた客観的な証拠に納得したとしても、ゲームの途中で 立場を変えることは認められません。 これがどのように「問題解決能力を育成」することになるのか 私には、ちょっと想像しにくいのです。 それはともかく、通常のディベートの論題設定では、 事実認識だけでなく価値観も対立します。 事実認識の対立は、客観的な証拠を提示することができれば、 「一方が正しい」とか 「両者とも間違い」などと決着しますが、 価値観の対立はそうはいきません。 勿論、普通の議論なら、 指摘された新たな事実を認識することで価値観自体が変わる (そして意見も変わる)可能性もありますが、 客観的に検証できる事実認識の対立を一つ一つ潰していけば、 最終的には価値観の対立が残るでしょう (ディベートでも普通の議論でも)。 そして、どういう価値観を支持したいと思うかは、 結局は人の「主観的判断に拠る」ことになると思います。 普通の議論の場合、対立する価値観どうしの妥協点を探ることが 一つの目的になると思うし、議論の結果として、 異なる価値観の人たちで折り合いを付けた妥協策が提示されれば、 それが議論の成果と言えると思います。 他方、ディベートでは、一方の価値観の陣営にのみ「勝ち」が 言い渡されます。 勿論、これはジャッジがその陣営の価値観に共感したかどうかではなくて、 どちらの陣営が、証拠の提出や事実の検証などの客観的に決着のつく 部分において、自分たちの価値観に有利な論述ができたかを評価したという ことでしょう。 その結果、敗者の陣営では、実は自分たちの価値観に有利な 事実に関する証拠をじゅうぶんに集められなかったり、 うまい検証の方法を思い付かなかっただけだとしたら、 これはまだ事実の検証の部分が不十分だということになるから、 議論としては不備があることになると思います (調査に時間を取れない学校ディベートなどの場合は、 事実の検証の部分はますますいい加減になるでしょう)。 そういう不備がある議論に時間制限で勝敗を与えてしまうゲームというのは、 「見落しのないように調査して事実を検証するまでは判断を保留する」という 技術者や研究者に必要とされる慎重な態度を養う上では、 むしろマイナスに作用する面もあるのではないかと懸念します。

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