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お知らせ

「授業を英語で」問題

目次
はじめに
英語での授業に協力していただけますか
新指導要領の全面実施による「授業を英語で」問題
日本語は汎用言語(メモ)
国際コミュニケーション英語か民族英語か
関連リンクなど

はじめに
このページに書いたこと、これから書きそうなことのまとめ

2009年に高校の指導要領で英語の授業を英語で行うことを基本とした文科省は、 2013/12/13、今度は中学校の英語の授業を、原則として英語で行う方針を決めた。 こうした状況に非常に危機感を覚えるとともに、文科省の職員は、 いいかげんに英語コンプレックスから目覚めてしっかりしてほしい。
と思っていたら、2014/4/30の日経新聞によると、 今度は省内会議の一部を英語で行うことにしたんだとか。 私がこのページに書いているような側面なんて、 想像したことすらないような重症な英語コンプレックスを 患っているのではないかと疑ってしまう。 それに振り回されている高校や中学の英語の先生たちも気の毒だ。

英語を流暢に話せる国は、国語の汎用性がないだけ
日本語は大学教育にも使える汎用言語である
文科省は英語コンプレックスなのでは
授業を英語化したぐらいで英語を話せるようにならない
グーグルグラスの同時通訳で英語バブルの崩壊起きる

英語での授業に協力していただけますか
http://www.str.ce.akita-u.ac.jp/~gotou/fd/eigo.html

工学資源学部 土木環境工学科 後藤文彦 (メール)

05/10/5: 秋田大学社会貢献・国際交流室から、 「英語での授業に協力していただけますか」というアンケートがきました。 私は趣味で エスペラント をやってるぐらいだから、 英語帝国主義 反対の思想的バイアスは思いっきり かかっているけど、 そういう国際規模での理念 (国際的な橋渡し語としてデファクトスタンダードの英語を 更に既成事実化する姿勢がいいか悪いかとか)は問わないことにして、 学生たちにとっていいか悪いかに焦点をしぼったとしても、 いくつか気を付ける点があるように思います。 以下、感じたことを列挙してみます。

蛇足

追記青葉工業会ニュース No.42, p.12の「外国人教員便り」で、 スリランカから来た バラチャンドラン・ジャヤデワン氏が 「日本経済・教育・研究発展の秘密の理解と今の私」と題して、 日本の発展の秘密は、教育が完全に日本語で行われ、 各種の取り扱い説明書などもすべて日本語で書かれていていることに 解の一つがあるのではないかとの考察を述べている。少し引用する。
「(前略) 高校までの学校での教育は、各民族の言葉であるタミル語および シンハリー語で行われる。 しかし、大学に入学した時点ですべての講義が突然英語になるという 現実に直面する。 (後略)」 「(前略) 高校までの教育をタミル語もしくはシンハリー語で受けた学生は、 英語での講義の理解が不十分であることを理由に留年あるいは退学する 例もある。 (後略)」 「(前略) 日本に留学してきた私には、日本の発展は最初の大きな謎であり、 その謎を解くことが私にとって最初の大きな課題であった。 (後略)」 「(前略) その謎の解の一つは、日本の教育が百パーセント日本語で 行われていることではないかと考えるようになった。 (後略)」 「(前略) どんな設備、あるいは機械のことにおいても、 取り扱い説明書等は日本語で書かれており 教育の面でバリア・フリーである。 (後略)」
英語を非母語とし、英語で大学教育を受けた外国人が このような考察をしているというのは傾聴に値する。 日本人が日本語で初等・高等教育を受けられることの意義については、 ここにも書いた。

目次

新指導要領の全面実施による「授業を英語で」問題 (推敲途中)

2013年度から、 新学習指導要領 の全面実施に伴って、 高校の英語の授業を英語で行うことが基本となったようだ。 英語の基礎を習得しようとする高校生の英語の授業を 英語で行うことの問題は、 英語の基礎能力がある(ことを前提とした) 大学(院)生に対する(英語以外の)専門科目の 授業を英語化する問題とは、やや意味合いが異なるが、 ある意味ではより深刻な問題かも知れない。

ある言語(例えば英語)を教える際に、 その言語(英語)のみを使って教える方法を直接法といい、 教わる生徒の母語(例えば日本語)を使いながら教える方法を間接法という。 つまり、日本の高校での英語教育は、従来は間接法が主流だったものを、 直接法に変えなさいと指導されたという話である。 直接法と間接法では、どちらが学習効果があるかということは、 多くの議論がなされているようだが、 明らかな実験結果の報告のようなものは、私はまだ知らない (この手の情報は興味があるので教えて下さい)。 今回の高校での導入が、大規模な実験になるのかもしれない。

直接法、間接法の長所、短所は、 日本語話者に英語を教える場合について、 なるべく単純化してまとめると、 以下のようになるのではないかと私は捉えている。

長所 短所
直接法 授業が、英語の聞き取りや発話の訓練も兼ねる 時間内に誤解なく理解してもらえる内容が限定される
間接法 難しい内容も日本語でなら時間内に誤解なく理解してもらえる 日本語による授業自体は、聞き取りや発話の訓練を兼ねない

私自身の英語やエスペラントの学習を通じての実感を言えば、 小さい子供に外国語に興味を持ってもらうとか、 文法や語彙等の基本的な部分ができている学習者に 聞き取りや発話の訓練をするという目的でなら、 直接法も有効かもしれないとは思うものの、 これから英語の文法や構文といった基礎的なことを学ぼうとしている 高校生に対して、直接法が有効だとはまるで思わない。

新学習指導要領で「授業を英語で」とした意図は、 コミュケーション能力を育成する ことにあるようだ。 授業が英語で行われるようになれば、 授業中の英語の聞き取り量や英語の発話量は確かに増えるかもしれないが、 その程度のことで英語の聞き取り能力や発話能力が身につくとは、 私は全く思わない。

聞き取り訓練をやったことのある人ならわかると思うけど、 例えば、英語にしたって、英語ニュースのテープとか (今ならウェブから、より自分の興味に近い英語音声をダウンロードできる だろうけど)を毎日30分とか聞き取り、聞き取れた文を書き取って、 どれだけの量を正確に聞き取れているかをチェックしたり、 といった訓練を数年とかやっても、本当にちょっとずつしか聞き取り能力なんて 向上しない。 だから、「聞き流すだけで、どんどん英語が聞き取れるようになる!!!」 といった類いの新聞広告の英語教材なんて、基本的に私は信用しない (まあ、私の聞き取り能力が特別に低いのかもしれないけど)。

発話に至っては、実際に誰かとその言語でしゃべるということを、 毎日のようにできる機会があって、ようやく向上が期待できるだろうけど、 授業中に英語で質問に答えるといった程度のことでは、 発話能力が向上するなんて、到底 思えない。 授業として発話訓練をするんなら、 せめてレベルに応じて このくらいのことをしないと 発話訓練にならないだろう。 それだって、毎日その言語でしゃべる機会が最低10分以上とかあることが前提である。 私が英会話を訓練した時代にはビデオチャットとかはなかったので、 部屋で英語で独り言をしゃべるとか、 ESS(英語部)の部員と英語でしゃべるとか、 そういう発話練習しかなかったけど、 今は、やろうと思えば、ビデオチャットとかも利用できなくはないだろう (高校生が、出会い系だのアダルト系に引っかかるリスクもあるが)。

というような訳で、 自分自身が 英語の聞き取りや発話の訓練で苦労した (そして、結局、未だに英語が聞き取れず、しゃべれずに苦労している)経験から、 英語の授業が英語になる程度のことによって、 聞き取りや発話の能力が向上するという効果は、 極めて小さいだろうと私は感じている。

それに比べて、授業が英語になることによって、 文法の説明が理解できずに、 英語の文章を文法解釈する能力がちゃんと身につかなくなってしまう 弊害の方が圧倒的に大きいように感じるのだ。 卒論担当の学生相手に英語文献の講読をやっていると、 英語を訳せない学生は、やはり文法を理解できていないために 英語の意味を理解できないのだと度々 感じる。 単語の意味はすべて調べているわけだけど、 その訳した日本語の単語を適当に並べ替えて、たまたま意味の通る日本語になった場合に、 訳したつもりになっているだけで、 並べ変えても意味が通じない場合はお手上げである。 どの語がどの語を修飾しているかとか、 この他動詞の目的語はどれかとか、 そういう構造がわかりさえすれば、あり得る意味の組み合わせは限定され、 直訳としてはおかしな日本語でも、 論理的な意味が理解できさえすれば、 自然な日本語に意訳できる。 だから、つくづく文法が大事だと私は思う。

もちろん、文法をしっかり学んでも、英語をしゃべれるようにはならないし、 ブロークンな英語でよければ、文法なんてめちゃくちゃでも、 そこそこの英語はしゃべれるようになるかもしれない (こみいった議論はいつまでもできないままかもしれないけど)。 要は、これから社会で活躍する若者たちに期待されている能力は、 まともな英語の読み書きはできないけど、 ブロークンな英語で、ちょっとした日常会話ができることの方が 重要なのかどうかが問題点なのではないだろうか。

"「授業は英語で」問題の対立軸を整理する" というページでは、「授業は英語で」問題において、 何を対立軸とするかを整理しないと議論が咬み合わなくなると指摘しているが、 その通りだと思う。 私が、上で述べてきたことは、 この「対立軸を整理する」のページの対立軸で言えば、 「コミュニケーション能力育成という目的に照らして「授業は英語で」は指導原理として有効か否か」 ということに対して「否」であり、 「「授業を実際のコミュニケーションの場面とする」という方針が適切か否か」 ということに対しても、「否」だということだ。

  では、私は「コミュニケーション重視の英語教育」自体がいいか悪いかと問われれば、 コミュニケーション重視でない方がいいような気がしている。 もちろん、コミュニケーションの能力もちょっとした学習方法の工夫で 気軽に習得できるような代物なら、習得できるに越したことはないとは 思うものの、英語によるコミュニケーション能力の習得は、 授業を英語にする程度で身につくような相手ではないと私は思う。 その結果、コミュニケーション重視の英語教育を(授業を英語でのような 安直な方法で) 行えば、英語の読解力や作文力は、そのぶん低下するだろうと私は見積もっている。 今の高校生の多数派にとって、将来 必要になる可能性の多い英語運用能力って、 話す、読む、書く、聞く、のうちどれだろうか。 自動翻訳も(グーグルグラスとかの普及と連動して) これからどんどん進歩していくだろうから、 もしかして、読み書き(更には音声認識が進歩して会話すら)も 実は、日本語だけで事足りる時代もやって来るのかも知れないが (そうなったら素晴らしいことだが)、 でも、今のところ、多くの職種で最も必要とされるのは、第一に「読む」、 次に「書く」ぐらいではないかと、 私は思う。 少なくとも大学で働く私にとってはそうだが、 技術系の企業とかでも、翻訳されていない英語の技術文献を読むというのが、 まだ当面は必要とされる優先順位の高い能力なんではないだろうか。

ただし、自動翻訳が実用に耐えるレベルまで進歩すれば、 必要とされる外国語の運用能力の優先順位は変わっていくだろうとは思う。 専門的な内容の難しい外国語であっても、 テキストであれ、音声であれ、リアルタイムの自動翻訳が実用レベルに達すれば、 そうした自動翻訳で実用レベルを獲得した言語を母語とする人たちは、 自分の母語で情報収集・発信し、自分の母語で国際交渉・交流できるように なるだろう。 そうすると、国際橋渡し語としての英語の価値はどんどん下がり、 英語インフレというか、 英語バブルの崩壊が起きるのではないかと私は夢想する。 それでも、身体装着型のウェアラブルデバイスの自動翻訳を介して 会話するよりも、生身の音声どうしで会話したいという需要はあるだろうから、 その目的で外国語会話を習得したいという需要は残り続けるだろう (といっても、同時通訳でグーグルグラスに字幕が入るなら、 かなり肉声コミュニケーションに近い感覚は味わえるとは思うが)。 そういう機械に頼らずに肉声交流をしたい人々が習得したいと思う外国語は、 交流したい相手が特定の言語集団であれば、その言語集団の言語ということに なるだろうし、 不特定の言語集団どうしで交流したいと考える人たちが、 なるべく習得しやすくすぐに実用できる橋渡し言語を学びたいと考えるようになったら、 もしかしてエスペラントが 見直されたりして。 まあ、エスペラントは確かに習得しやすく文法等が整理されている言語だと 思うけど、エスペラントより更に習得しやすく合理的な言語を 将来の高性能スーパーコンピューターを使って (あり得る言語場面の 膨大なシミュレーションで不効率な言語仕様を淘汰しながら 最も効率のよい言語仕様を) 設計することもできるかもしれない。 ただ、言語というのは、一定規模の話者が、その言語を日常生活や ビジネス、学問、芸術など様々な領域で実用することで、 語彙や用法が定着していくものなので、 一定の歴史と文化があるエスペラントは、当面は有利かもしれない。 いずれ、ウェアラブルデバイスを介さない肉声による異言語話者コミュニケーションには、 なんらかの習得容易で合理的な人工言語(計画言語)を用いるのが普通になって、 英語のような習得困難な民族語を ウェアラブルデバイスによる自動翻訳を使わずに しゃべれるようになろうとする人が、物好きな変わり者だと思われるような世界が やがて訪れたりするだろうか (まあ、そういうことを想像・妄想するのはなかなか楽しい)。

日本語は汎用言語(メモ)

授業を英語化しようという発想や、 社内の公用語を英語にしようという発想は、 「日本人は、諸外国人と比べて英語がしゃべれずに恥ずかしい」 というコンプレックスが根にあるのではないか。 使用言語を英語にすればうまくいくと思い込んでいる人たちは、 そのことによる現実的な弊害が全く見えなくなる (または意図的に無視してしまえる)ほどに、 どっぷりと「日本人は英語がしゃべれずに恥ずかしい」コンプレックスに 浸かり切っているのではないかという疑いを私は抱く。 渡辺 龍太氏による 「 英語などネイティブにまかせとけ、日本人はもっとやるべきことがある」という記事は、 それに比べてとても現実的な視点だと私は共感できる。 私の言いたいことは、渡辺氏のわかりやすい記事でほぼ言い尽くされているが、 もう一点 私が指摘したい点を付け加えるなら、 こういうコンプレックスを抱いている人たちは、 日本語が 各種のサービスやビジネスはもちろん、 大学(院)レベルの高等教育すら 行える 国際汎用言語の一つだ ということに、まるで気づいていないのではなかということだ。

英語をしゃべれる諸外国として、どこを想定しているのかにもよるが、 多くの場合、母語が英語でないのに国民の多くが流暢な英語をしゃべれる 諸外国というのは、 母語が十分な汎用性を獲得していないために、 大学の授業が英語でしか受けられなかったり、 日常の多くの場面に英語が入り込んでしまっている国ではないかと思う。

つまり、日本人の多くが英語をしゃべれるようにすることが至上目的だとするなら、 確かに、大学の授業をぜんぶ英語にしてしまうとか、 公共サービスの多くを英語にしてしまうとか、 それくらいのことをすると、日本人でも英語をしゃべれるようになるかもしれない。

でも、そんなことをしたら、 日本の教育レベルや技術レベルはみるみる下がってしまうだろう ( バラチャンドラン・ジャヤデワン氏の考察参照)。 そして、 せっかく大学教育にも使える汎用性を獲得した日本語は、 どんどん退化していくだろう。

これからどんどん少子高齢化していく日本において、 授業が英語になっても、 ちゃんとついていけるような言語能力の高い(他の能力が高いとは限らない) 学生だけが能力をのばし、 英語の苦手な(もしかして他の能力は高いかもしれない)学生たちが 落ちこぼれていくような教育が望ましいとは私は思わない。 これから社会に出ていく若者たち(その多くは英語なんて使わない) の能力を少しでも底上げして、 もともと数の少ない若者たちの少しでも多くが 社会で活躍できるように、 日本語でわかりやすい授業をすることこそ重要ではないかと私は思うのだ。

外国語の聞き取りや発話の訓練というのは、 その他の学習と比べて、極めて習得効率が悪いと私は思う。 数学の計算でも漢字の書き取りでも、 毎日30分もやれば、一定の成果が上がるし、 授業時間内の演習でも、一定の効果はあるだろう。 しかし、外国語の聞き取りは毎日30分やったとしても、 腹立たしいほどに少しずつしか効果が出てこない(と私は感じる)。 というか、言語的センスの個人差が如実に現れる。 だから、少しでも能力を底上げすべき高校生たちの学習時間や学習効率を、 英語コミュニケーション能力をほんのちょっと向上させる程度のことのために、 浪費すべきではないと私は思う。 授業は日本語でわかりやすく行い、 英語コミュニケーション能力を向上させたい生徒のためには、 例えば英語チャットルーム(英語でおしゃべりする部屋)みたいなのを作って、 休み時間にそこで友達どうしや先生と英語でおしゃべりするっていうような 方向性の方がよっぽど建設的で効果もあるんじゃないかと私は思う (ただし、 調子に乗って「日本語禁止」だの 方言札的な罰則みたいなことを やってしまうと、言語差別や言語コンプレックスをますます 助長してしまうので、運用方法にはじゅうぶんな配慮が必要だと思うが。)

まあ、高校の英語の授業の英語化といっても、 その実態がどんなものなのか私はまだわからないし、 もしかして私の見積もりに反して、 予想外の学習効果が現れたりするかもしれない (全国規模で実験していれば、予想外の効果を発揮する ちょっとした工夫とかが発見されるかもしれない)。 というわけで、私は自分の実感からはいい成果は出ないような 気がしているが、もう少し状況を見守りたい。

国際コミュニケーション英語か民族英語か

中学、高校、大学の 学校教育で教育すべき英語は、 将来、社会人になった学生がビジネスで外国人とのコミュニケーションの ために使う橋渡し言語としての英語 (ひとまず「国際コミュニケーション英語」とでも呼んでおく)なのか、 イギリス人やアメリカ人が母語として使っているネイティブ英語の 独特の慣用表現 (こういう場合はこういう表現は使わないだの こういう場合はこういう表現を使うといった 規則性のない用例の集積)をすべてその通り見本とした民族英語なのか とうい問題。

数研出版のサイト内に、 竹岡 広信さんによる "「入試英作文」の抱える問題点" という面白い文章がある。 例えば、

公共の場所や教室では携帯電話のスイッチを 切っておくのが礼儀です.

のような英作文の問題を

In public places and the classroom, you should switch off your cellular phone.

みたいに訳したら、イギリス人の先生からおかしいと指摘されたという話。 公園や駅の構内だって公共の場所だけど、携帯が使えないわけではないし、 教室は誰でも無制限に入れるわけではないから公共の場所ではないとか、 その手の話。

私からすると、国際コミュニケーション英語としてなら、 上記の訳で何の問題もないし、 上記の訳を(ある文脈の中で)読んだり聞いたりして、 自分の母語における public 等の単語の狭い意味で受け取ると 多少 変に感じるところがあったとしても、 文章全体として何を言わんとしているかは十二分に推測可能だと思う。 英語を母語としていて(そのせいで) この文章が理解できない人は、 それこそ国際コミュニケーション能力が低すぎると私は思う。

ある言語(例えば英語)を国際コミュニケーションのための橋渡し語として 設定した場合、 その橋渡し語の特定の単語(例えば public)が、 話者(例えば日本人とか)の母語におけるその単語に相当する (または最も近い)表現(例えば「公共の」)と、 意味の範囲やニュアンスがずれているということは当然のことである (ネイティブの間ですら相当な幅があるはずだ)。 単語一つ一つの持つ微妙な意味の守備範囲やニュアンスを (ネイティブが不自然と思わないレベルで)英米ネイティブの 通りに使わなければならないとしたら、 そんな英語は、もはや国際コミュニケーションのツールとしては適さないだろう。

趣味としてエスペラントをやっている感覚から言うと、 外国人どうしで話をするときに、 お互いに使っている同一の 単語の意味の幅やニュアンスがある程度ずれてるだろうなというのは 当然の前提だし、 そこを推測して補間するのが国際コミュニケーション能力だと思う。 橋渡しのための国際コミュニケーション英語は、 英米ネイティブにとっては、不自然だと思う英語でぜんぜん 構わないし、 むしろ英米ネイティブこそ、国際コミュニケーションの目的で 英語を使う場合は、自分の母語表現としての英語をそのまま使うのではなく、 英米ネイティブ特有の 誤解されやすい慣用表現とかは避けて、 より国際的に通用するわかりやすい英語を使うべきだろう (二重否定や付加疑問は使わないとか)。途中、続く。

関連リンクなど

寺島研究室 (やや政治的な主張も含まれるが、 授業を英語化する問題について、私と割と近い論点からの 議論をたくさん書いている)
小学生に英語を必修させる必要があるのか?」 「日本の外国文学研究が滅びるとき」 「リンガ・フランカのすすめ」 (内田樹の研究室)
日本の高校で英語の授業を英語で行うことの愚かさ
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