[議論のしかた] [日本ディベート協会] [全日本ディベート連名] [NAFA] [法学教育とディベート] [ウィキペディア] [はてな]
(後藤資料) (後藤リンク) (今日の外部評価) (FD報告書) (雑感) (良いプレゼンと悪いプレゼン) (日本語表現法) (Linux)
お知らせ

ディベートは命題検証や合意形成のための建設的な議論の方法になり得るか? (04/10/5準備開始)

 FDワークショップに参加したら、 懇親会の余興として安直なディベートをやらされて、 かなりちょっと問題を感じたのだが、 今後、FD関連などで、 参加型授業にディベートを導入するのがいいといった話に発展して いった場合に、ディベートの問題点を整理して指摘できるように 準備し始めておこうかなと……

目次

ディベートの形式
ディベートのいいかも知れない点
ディベートの問題点
科学的命題の検証の場合
価値的命題の検証の場合
裁判制度との比較
既存のディベート批判など
学内でのディベート導入例

ディベートの形式

私が問題視しているディベートとは、以下のような形式のものの ことである。 ディベートに対する以下の私の捉え方が間違っていたら、 指摘してほしい。

(先頭) (目次)

ディベートのいいかも知れない点

(先頭) (目次)

ディベートの問題点

(先頭) (目次)

科学的命題の検証の場合

 科学的命題の検証の場合、 ディベート方式の議論が、命題の検証に特に有効でないのは 割と自明かとは思うが、 安斎育郎著『科学と非科学の間』(かもがわ出版)に述べられている 以下のような態度に私も共感する。

 なお、Kさんには、懐疑派と超常現象陣営の先端的論争を「戦い」ととらえている 面があるようです。戦いには「勝ち、負け」がありますが、実は、現在論争している 陣営のどちらの正当性が証明されても、それは真理に一歩近づいたという点において 「科学の勝利」なのであって、決して「科学の敗北」ではないのです。後に詳しく 述べるように、科学は「事実との照合によって客観的に正しいかどうかの判定がつく 命題群を貫く関係的法則性についての体系的な合理的認識」のことですから、新しい 事実の発見によって、それまでの知識の体系が再構築を余儀なくされる可能性は常に 存在します。ジャパン・スケプティクスに参加している懐疑派たちは「真理」の側に 味方するのであって、自分の仮説の勝敗と心中することを至上の価値としているわけ ではないでしょう。私たちは、結果として自分たちが掲げていた仮説の不当性が証明 されたら、謙虚に新たな事実を受け入れ、体系的知識の再構築に乗り出すことに少しも やぶさかではありません。 

カール セーガンが言ってるように 科学がうまくいっているのは、自己修正機能があるからだと思うし、 フリーソフトが発展してきたのも 自己修正機能があるからだと思うし、 民主主義がうまく機能しているのも自己修正機能があるからだと思う (まあ、この辺はもう少しちゃんと説明する必要があるが)。 で、ディベートというのは、ある意味で究極の「自己修正の放棄」のように 見える。 せめて、 「ディベートで勝敗を決めた後に、改めて命題検証の議論をやり直す」 といった「自己修正」の要素をどこかに導入してほしい (議論の途中でも立場を変えられる方が望ましいが)。

(先頭) (目次)

価値的命題の検証の場合

 まず、価値判断が介入する命題の真偽について議論を行う目的とは 何だろうか。 まず、意見の対立が価値観の対立によるものではなく、 一方の事実誤認に基づくものだという確信が(両者に)ある場合なら、

をはっきりさせる (両者が納得する結論に達する) ことではないだろうか。 お互いに自分の立場を絶対に変えない議論は、この時点で目的を達成できない。

 意見の対立が事実認識の差によるものではなく、 単純に両者の価値観の違いだけに基づく場合は、

という結論に至ることになる。 例えば、「コーヒーよりも紅茶の方がおいしい」という価値的命題は、 紅茶の方がおいしいと感じる自分にとっては正しいし、 コーヒーの方がおいしいと感じる相手にとっては間違いである。 つまり、この場合、 真偽がもろに価値観に依存するような(あまり意味のない)命題設定がなされている ということであり、 例えばこの命題を「Aさんはコーヒーよりも紅茶の方がおいしいと感じる」 という客観性の高い命題に修正してやれば、 紅茶の好きなAさんもコーヒーの好きなBさんも 両者が納得する結論に至ることができる。 つまり、こういう場合は、命題設定の不備を修正して、 異なる価値観の双方が納得できる内容に命題を修正するというのも 議論の目的に含まれるかも知れない。

 しかし、価値判断が複雑に絡み合う多くの深刻なテーマの場合、 議論を通じて一方が(事実認識において) 完全に正しくて他方が(事実認識において)完全に間違っているとか、 事実認識は双方とも間違ってないけど、価値観だけが対立しているといった 単純な結論に達することはまずない。せいぜい、

といったことがはっきりする (事実確認だけで単純には決しない問題であることを両者が認識する) 程度ではないだろうか。 そういう(つまり多くの)場合の議論の目的は何だろうか。 意見の対立が両者の価値観の違いに基づくものなら、 そこをはっきりさせて、お互いの 価値観に折り合いをつける方法を模索し合意形成を図るのは建設的なことだし、 議論を通じて新たな側面を認識したことにより価値観自体が 変わる(そして意見も変わる)こともあり得る。 そういうのが建設的な議論なのではあるまいか。 ディベートの議論工程の中では、 価値観の折り合いづけを模索する余地や、 価値観自体が変わる余地をむしろ封じ込めているのではないか。

 科学的命題の検証を目的とした議論の基本は、 相手に指摘された自分の間違いに納得できたら謙虚に自分の 間違いを認める「自己修正」の態度だと思うが、 価値判断が絡み合うテーマを扱った議論であっても、 事実関係が客観的に確認できる部分に関しては、全く同様に 「自己修正」の態度が重要だし、 事実関係の認識を「自己修正」することは、 (相手に指摘されて新たに確認した)より信頼性の高い事実関係に対応して 自分の価値観や意見が変わるきっかけとなる。 その意味で、価値的命題の検証を目的とした議論においても、 「自己修正」の態度は建設的な議論を展開するための基本だと思う。 しかし、ディベートは、議論の基本中の基本と私には思える「自己修正」 の機能をことごとく退ける。 「自己修正」を排除したゲームが、建設的な議論の訓練になるとは 私は思わない。

(先頭) (目次)

追記(06/2/21)

でぃべーたぶる」で、 このページに言及があったようなので、 もう少し具体的な例で補足しておく。

木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書)に よると、 「その問題に直接に関係のある事実の正確な認識にもとづいて, 正しい論理にしたがって導きだされた意見」 は sound opinion(根拠のある意見)になるのに対して、 「出発点の事実認識に誤りがある場合,または事実の認識は正確でも 論理に誤りがある場合,意見は根拠薄弱なもの― unsound opinion ―になる」んだそうです。 つまり、ある意見を出すときに、 価値判断の根拠とした事実認識や推論が正確な意見のことを sound opinion というのでしょう。 さて、 NAKO-Pさんによると、 「ディベートは、肯定側の主張(意見)と否定側の主張(意見)とを比較して、 どちらが“sound opinion(根拠のある意見)”であるのかの判断(意見)が下される競技である、 と理解すべきでしょう。」 とのことです。 確かに、 双方とも価値観の対立はなくて一方(または双方)の事実認識(や推論過程)の間違いを はっきりさせることだけが目的の議論なら、 「どちらが“sound opinion(根拠のある意見)”であるのかの判断(意見)」 をすることだけが議論の目的でもいいのかも知れません。 相手から指摘されて、自分の事実認識(や推論過程)の間違いに納得した時点で、 それを修正して意見を変えられる普通の議論の方が、 この目的に限定しても ディベートよりも有意義だと私は思いますが。 しかし、通常の議論では (ディベートの一般的な論題でも) 事実認識だけでなく 価値観も対立します。

例えば 「交通死亡事故をなくすために自動車交通を廃止すべきだ」という 命題について議論しているとしましょう。 双方とも、 「国内で年間1万人弱の人が交通事故で死んでいる」 という事実認識については、一致する正確な見解を抱いていたとしても、 「自動車交通の便益」と「年間1万人弱の死亡」とでどちらが (どれくらい)重要だと判断するかはそれぞれの価値観に依存する訳です。 このように価値観が対立している議論において、 「お互いの価値観に折り合いをつけて合意形成を図るのが普通の議論の目的の一つだ」 と私が言うのは、 例えば、 「自動車交通を全廃とは言わないまでも、 タクシーを含めた公共交通機関を安価で利用できるシステムを整備し、 物流のための業務交通も認めるが、 身体が不自由などの特別の理由がない限り、 自家用車は制限する」 といった提案を(して「べき」命題を修正)すれば、 自動車全廃に比べれば便益が全く失われる訳ではないし、 交通死亡事故の減少にも一定の効果があるだろうし、 自動車の便益の方が重要と考える人と、 交通死亡事故の発生確率が重要と考える人とで、 歩み寄れる点を見出だせるかも知れないといったことです。 ディベートでは、価値観に折り合いをつけられそうな譲歩案を出し合って、 双方 歩み寄れる点で「べき」命題を修正するなどということはしません(よね?)。

「議論を通じて新たな側面を認識したことにより価値観自体が 変わる(そして意見も変わる)のが建設的な議論だ」と私が言うのは、 例えば、 自動車交通の便益に関するデータ (自動車交通による物流が止まることで死ぬ人もいる)や、 交通事故以外の 身近な死亡リスクに関するデータ (喫煙の死亡リスクの方が相当に大きい)についての情報を 得ることで、価値観が変わる (例えば、タバコを吸っている人が、 喫煙程度の大きな死亡リスクさえ気にしていないのに、 交通事故の死亡リスクだけを誇張するのは筋が通らないと思い直すとか) といったことです。

このように価値観が対立する事柄について議論する場合、 異なる価値観に折り合いをつけられる点を模索して合意形成を図ったり、 事実に関する新たな側面を再認識することで自分の意見を点検し、 自分の間違いに納得したら意見を改めるというのが、 建設的な議論だと私は思っています。 しかし、ディベートの議論形式は、 価値観の折り合いづけや 自己修正といった(議論の基本的な)要素が排除されているように見受けられるので、 これが建設的な議論の訓練になるとは思えないというのが 私の言わんとしたことです。

(先頭) (目次)

裁判制度との比較

 ディベートの形式と似た議論が行われるものに 裁判がある。 しかし、裁判は長い時間をかけて、証拠の検証もかなり慎重に行う。

覚書:被告や原告の立場と弁護士の立場の違いについて。 自分の意見に反して肯定側や否定側を演じなければならないディベートは、 (自分には有罪に思える被告をも弁護しなければならない)弁護士の立場に似ている。 でも、ちょっと違う。

覚書: 弁護士というのは裁判に勝ったときに依頼者から 成功報酬をもらうというシステムだと思うが、 こういうシステムだと、 弁護士は、自分の依頼者側が勝つことを目的として ディベート的な議論をすることになってしまい、 事実検証や合意形成を効率的に促す システムにはなっていないのではないだろうか。

(先頭) (目次)

既存のディベート批判など

内田樹さんの「議論」論
上述したように、私の頭ではどう考えてもディベートというのは、 合意形成と相反するとしか思えないのだけど、 どうしてそういう単純明快な批判がなかなかないものかと、 「ディベート 合意形成」で検索してみたら 内田樹さんのやつが 見つかった。 まあ、文化の話は常に個人差の方が大きいから慎重に しなければならないけど、やはりそこに一つの根はあると 私も思う。 中島 義道の『ウィーン愛憎』(中公新書) じゃないけれど、 ある時期のヨーロッパ(のキリスト教徒)の人たちが、 その特有の文化圏で生きぬいていくために 採用していた処世のための話術 (絶対的に正しい自己の意見を死守し続け、 絶対的に間違っている相手の意見を打ち負かす以外の 選択肢はない)は (技術者倫理的な説明責任や危険回避や合意形成が重視される)現代では既に 時代錯誤になっているにもかかわらず、 (アメリカ追随の日本とかで)過大評価されているだけでは ないかというような視点からの考察は、 確かに私も色々と考えがあるので、いずれここに書きたい。

斉藤 規・今野 日出晴 編著 「迷走する〈ディベート授業〉 開かれた社会認識を教室に」 (同時代社) (「ディベートには自己修正の機能がない」という 論点からの批判ではない。 事実検証に時間を取れない(というか検証技術を持っていない) 学校の授業などで、(「大東亜戦争は自衛戦争であった」のような) 歴史ディベートなどをやると、 検証で確認すべき事項が不問のまま勝敗が付けられて 終わってしまうといった 様々な典型的な問題が紹介されている)

高井あきひろ危険なディベーターたち」((株)岩波書店「世界」1997年3月号所収) (「 本来ディベートは真理確定の手段ではない。与えられた立場が真理かどうかにかかわらず、純粋に論理展開力の優劣を競う競技なのである。  これはディベーターたち自らが認めていることでもある。あくまでも史実は史料や遺物の集積の上に確定されるもので、いくらディベートで勝ったからといって、そのことで歴史的事実を確定したり書きかえたりすることなどできない。 」の辺りは、その通りだと思う。 人工知能や遺伝的アルゴリズムとの類比については、あまりピンと来ない)

「法学教育とディベート」 00/1/31 議論の記録 ( 苫米地英人『洗脳原論』(春秋社、2000) について、 「 少なくとも「ディベートの結果を歴史的事実だと勘違いしたり、 そう主張したりするのは、社会的に危険である。 思考訓練としてのディベートの役割を、 事実を探る客観的手法と勘違いしてはいけない。」(p.109) という点に限って言えば、 トーナメント・ディベートに真剣に取り組んだことがある者には、 広くコンセンサスが得られるのではないかと思います。 」とのことなので、この本も要チェックか)

議論のしかた」の 「2. 議論の種類」では、 議論を「討論」、「議決」、「対話」の3種類に分類した上で、 「討論では、技術的(「相手のあの論理に穴があった」とか 「ここ はこう攻めるべきだった」という)な知見は得られても、 その問題に関する理解はまったく深まりません。 だから「○○について理解を深めたい」と討論会を 開く時には自分たちで討論を始めてはいけません。」 とまとめている。「ディベート」という言葉は使っていないが、 「討論」に対するこの考察は、 このページ上でのディベートに対する私の考察とも重なると 思う。

メモ: 山形浩生さん 「論理で人をだます法(仮)」 (ロバート・A・グーラ著、朝日新聞社) 「ウンコな議論」 (ハリー・G.フランクファート著、筑摩書房) は、もしかするとここで話題にしてる ディベートの問題点とも関係するかも知れないので、 いずれ購入して読んでみたい。

(先頭) (目次)

学内でのディベート導入例

新入生ガイダンスの際に配布された『日本語表現法』というテキストでは、 授業や演習にディベートを導入することを薦めていて、 ディベートのやり方が紹介されている。 このテキストに対する私の意見を ここに書いてみた。

(先頭) (目次)

覚え書き

合意形成に関して、 こなみ日記のいしやまさんの 「「合意形成」を生活の中で体感したことのある人って、実は稀」 というツッコミは、なるほどと思う。だとすると、 学生たちに必要なのはディベートで自己弁護/他者攻撃する話術ではなくて、 むしろ(それとは正反対の) 価値観や利害の異なる人達と合意形成に至る議論の基本テクニックではないだろうか。

(先頭) (目次)